図書館に行く前に本屋に寄るなんて、温泉に行く前に風呂に入るようなものだと思う。

 学内の書店で、店員に向かってそんなことを言った僕も僕だが、「でも湯船に浸かる前にはシャワーを浴びるでしょ?」と言い返して営業トークを始めた店員も店員だ。

 以来、図書館に行く前には必ず書店に寄るようになった。買うときもあれば買わないときもある。今日は買うつもりだった。

 万引き防止のポスターとアルバイト募集の張り紙がされた自動ドアをくぐり、文庫本コーナーで目についた一冊を持ってレジに並んだ。

「『仮面の告白』か。いい趣味だね。でもこれ、確か図書館になかった?」

 件の店員、本山もとやまさんが僕の持ってきた本を見て言った。本山さんはこの大学の院で近代文学を研究しているらしく、小説に詳しかった。

「これは先輩へのプレゼントです」

「……内容が重いね。いいの?」

「小説なら何でもいいってリクエストだったので。……そんなに重いんですか?」

「近代文学なんてどれも重いものばっかりだよ。『仮面の告白』は同性愛者の主人公が自己を探求していく話だし」

「そっか……。じゃあ何かお勧めありますか。『刺青』とも迷ってたんですけど」

「とりあえず三島と谷崎はやめといた方がいいんじゃない」

 本山さんは苦笑して、プレゼント向きの本をいくつか挙げてくれた。そのどれもが、恋愛と青春の要素ばかりを詰め込んだ、綿菓子みたいな小説だった。

「その先輩のこと知らないから無難な感じになっちゃうけど、どうかな。一応、どれも人気だし、悪くはないと思うけど」

 僕は首を振った。先輩が読みたいのは多分、こういう類いじゃないだろう。青春には興味がなさそうだし、恋愛には抵抗がありそうだ。いつだったか、それとなく恋愛の話を振ったときは、初めはそこそこ楽しげにしていたが、「恋愛は人の頭をおかしくする麻薬みたいだよね」と最後には暗い顔をしていた。

「本山さんが好きな小説はなんですか。それにします」

「千蔭くんが好きな小説の方がいいんじゃないの」

「僕はあんまり読みませんし。僕が好きな小説は大抵、先輩から教えてもらったものなので……」

「仲がいいんだね」

 本山さんは考え込むように頬に手を当て、

「SFが好きかな。筒井康隆の『パプリカ』とか。伊藤計劃の『ハーモニー』とか。あとアシモフの『鋼鉄都市』も好きだよ」

 どれも読んだことのない本だ。先輩は古典や純文学ばかり読んでいるから、たまには俗っぽいものもいいかもしれない。

 しかし本山さんは、首を振った。

「でもやっぱり君が選んだものの方が先輩も嬉しいんじゃないかな。色々言った後で申し訳ないけど、『仮面の告白』にしておいたら。最高の作家である三島由紀夫の最高の傑作であることは間違いないんだし。ぜひ千蔭くんが読んだ感想も聞きたいな」

「……そうですね。そうします」

 背中を押されるようにして、『仮面の告白』を購入した。

「喜んでもらえるといいね」

 本山さんの笑顔に見送られ、その足で図書館へ向かう。今日は学生証を忘れてしまい、受付で即席の入館許可証を借りた。これさえあれば大学関係者でなくても図書館を利用できるようになる魔法のカードだ。

「学生証がないと困ることも多いでしょうし、気をつけてくださいね」

 受付の女性に笑顔で注意され、ゲートを通してもらう。逸る気持ちを抑えながら、三階まで階段を上がる。一番奥の窓際の席。先輩はいつものようにそこにいた。

「鈴先輩」

 声をかけると、先輩は読んでいた本から顔を上げて手を振った。

千蔭ちかげくん。こんにちは」

 雑に束ねられた髪のせいだろうか。オーバーサイズの服のせいだろうか。ふやけた笑い方のせいかもしれない。柔い瞳で微笑む鈴先輩はどこか気怠げで、それが彼女に妙な色香を纏わせていた。

 僕は書店の袋のまま先輩に『仮面の告白』を渡した。

「先輩、これ。お礼です。ありがとうございました」

「どういたしまして。でも本当に良かったの? 課題の手伝いって言っても、そんなに大したことはしてないよ」

「謙虚も過剰なら卑屈ですよ」

「良い言葉だね」

「好きなバンドの歌詞です」

「じゃあ、ありがたくいただくよ」

 先輩は袋の中から本を取り出すと、さっきまで読んでいた『重力ピエロ』を脇によけて、『仮面の告白』を読み始めた。僕は手持ち無沙汰に、いつもの通り、先輩の読みさしを手に取って、途中からページを捲った。

 鈴先輩とは、僕が大学一年生のときに知り合った。入学して間もないころ、ふらりと立ち寄った図書館で〈月刊明鏡〉の一月号を読んでいる先輩を見て声をかけたのだ。結局は空振りに終わったが、それから交流を持つようになった。

 初めは見かけたとき、気まぐれに声をかける程度だった。鈴先輩はずっと一人で、いつも本に視線を落としていたから、声をかけなければ僕がいたことにすら気づかなかっただろう。実際、彼女が本に熱中しているとき、僕が課題に追われているとき、なんとなく気乗りしないとき、声をかけなかったことは何度もあった。

 だがそうした切れ切れな、関係とも言えぬ関係が数日続き、数週間空き、数週間続き、数日空き、鈴先輩と初めて話して数ヶ月も経つころには、図書館にいるときは鈴先輩と話すのが日常になった。課題を手伝ってくれることもあり、そうした後には何か贈り物を用意するのも恒例になっていた。

「ところで千蔭くん」

 鈴先輩が『仮面の告白』から目を上げて話しかけてきた。僕も主人公と弟の類人猿ディスカッションを中断して問い返す。

「なんですか」

「最近は、何も質問してこなくなったね。なんで? 飽きちゃった?」

 いつになく哀しげな声で、自分の手首をさすっている。彼女はよくその仕草をする。困ったとき、狼狽えたとき、隠し事があるとき、彼女は慈しむように自分の手首を撫でる。

「聞いても答えてくれないじゃないですか」

「バイトは教えたでしょ」

「事務系ってだけですけど」

「……好きな芸能人も」

「いないって言われましたけど」

「…………音楽は」

「『イエスタデイ・ワンス・モア』だけですか」

「……」

 先輩は伏し目になって黙ってしまった。

「……何で突然そんなことを気にしだしたんですか。前まで自分からそんな話をふることなかったじゃないですか」

「そ、そんなこと……」

 のらりくらりとした普段の態度を一変させ、しどろもどろになっていた。笑顔もいつものふやふやした感じではなく、まごまごとしている。

 鈴先輩と出会って一年近く経つが、未だに多くは知らない。名前と、年齢と本が好きということくらいだ。それも完全に知っているとは言えず、例えば、「鈴先輩」という愛称は知っているが、本名は知らないように、大学三年生なのは知っているが、誕生日は知らないように、読書好きなのは知っているが、他の趣味は知らないように、僕の中の鈴先輩にはどこか穴が開いている。

 名前を聞いたことはあった。誕生日を訊ねたことはあった。しかしそのたびにいつものやわらかい笑顔ですべて包み隠されてしまった。なぜ教えてくれないのか聞くと、「それが一人になる手っ取り早い方法だから」、なぜ一人になりたいのか聞くと、「人を傷つけることになるから」

 僕はその言葉に反駁した。

「鈴先輩と一緒にいても僕は傷つきませんよ。むしろ拒絶された方が傷つきます」

「別に、拒絶とかじゃ……」

「してるじゃないですか」

「してないって」

「じゃあなんで何も教えてくれないんですか」

「……」

 鈴先輩は困ったように口をつぐんでしまった。そのときも手首をさすっていた。僕はそんな仕草一つで突き放されたように感じて傷ついた。言外に「もう近寄るな」と言われてるような気さえした。

 しかし先輩はしばらく後にこう言った。

「人間が大切にできるものの総量は決まってるんだよ。私は千蔭くんを大切にしたい。ほどよい距離感を保ちたいんだ。私たちは他人のような友人でいようよ」

 そんな申し出を平気な顔でしてくる先輩も先輩で、受け入れる僕も僕だ。だが仕方なかった。彼女が何かを抱えていることは分かっていたし、僕はどうしようもなく、そんな彼女をかなしく、いとしく思っていたのだ。もっと彼女と話して、もっともっと彼女を知って、彼女の理解者になりたかった。もっともっともっと。そのためにはどんな形であれ、先輩と繋がっていたかった。

 端的に言えば、僕はこのとき既に、鈴先輩に恋していた。本名も知らず、誕生日も知らず、好きな本しか知らない先輩に。

 それでも先輩にも思うところがあったのか、その日から少しずつ教えようとしてくれていた。手を繋いでいいかの確認を指先でするような、いざ手を繋いでもすぐ離してしまうような、もどかしく、いじらしいものだったが、それで充分だと思っていた。

「別に無理しなくてもいいですよ。先輩のこと知りたいって気持ちは変わりませんけど、無理やり口を割らせたいわけじゃないですから」

 しかし鈴先輩は首を振った。

「知り合ってもう一年くらい経つのに、私はずっと千蔭くんの優しさに甘えて、自分のわがままを突き通そうとしている。フェアじゃないと思うんだ。だからさ、自分のこと教えたくないって気持ちは変わらないけど、それ以外なら、私にできること何でもするよ」

「……考えておきます」

「うん。そうして」

 先輩はふやけたように笑って、『仮面の告白』に目を落とした。その笑顔に羞恥心と罪悪感を煽られながら、僕も目を落とす。頭にベタベタこびりついて離れない、「何でもする」という言葉にやにわに沸き起こった、甚だ不純で不浄な爛れた妄想を、もんもんと募る煩悩を、不潔な願望を、首を振って、息を吸って、吐いて、粛々と取り払う。やり過ごしたその先で、目の前の『重力ピエロ』、登場人物の春が僕を批判していた。

「人間は優れているから性欲をコントロールできる。胸を張って、恥ずかしげもなく、そう言う人もいるけどね、どうせなら、もう少し恥ずかしげに言うべきだよ」

 顔から火が出る思いだった。全くもってその通りだ。

 

「ねえ千蔭くん。君は自分が正しい人間だと思う?」

 僕が本を読み終えたところで、とっくに読み終えていた先輩がそんなことを言った。さっきまで頭の内側にこびりついて爛れ、募りに募っていた、穢らわしい、妄想/煩悩/願望を見破られたと思い僕は口ごもった。

 しかし先輩は気にしたふうでもなく、

「ごめん。嫌な言い方しちゃった。そうじゃなくて、君は正しさをどう見ているかを聞きたかったんだ。世の中に絶対的に正しいものがあるのか、ないのか」

「ああ、そういう……」

 先輩が突然、こうした哲学的な質問をしてくるのはよくあることだった。なぜ、と訊いたことはない。聞くのは先輩の方だ。ただなんとなく察してはいる。彼女が抱えているもの。その重み。鈴先輩は信用したいのだ。人間という生物を、それを孕む世界を。そして何より自分自身を。裏を返せば、試しているのだと思う。人間と、世界と、そして自分を。

 それは詩人が反語と比喩でしたためた悪罵でもって世界の矛盾を指摘し、掌を返し、揚げ足を取って気炎を揚げるようなものではなく、虐待され続けた子どもがそれでも大人に指先を伸ばすようなひどく消極的なものだった。

 なぜ、と訊いたことはない。だが僕は、先輩のそんなところも好ましく思っている。

「自分にとっての正しいものはありますけど、でもそんなの尺度と視点によって異なるでしょう。正しさだけじゃなくて、全てのものがそうです。画一的に、二元論的に、白黒はっきりさせられることって少ないと思うんですよ。だから、この世に絶対的なものは絶対にないって言うのが答えです」

「そのジョークは嫌いじゃないよ」

 珍しく乾いた笑い声を上げた先輩に、僕は言い訳するように言葉を継いだ。

「……でも、何かそういう状況になれば、それが正しいか悪いかを、僕の基準で言うことはできますけど」

「状況。そうだな……じゃあ例えば、こんなのはどう?」

 咳払いを一つして、

「あるところにKという女の子がいました。Kは自分が通う塾の先生を好きになってしまいました。初めての恋でした。しかし許されないことです。相手が先生だからではありません。彼は自分のおばの夫なのです。おばを裏切らないよう、母を悲しませないよう、Kは我慢しようとしました。無理でした。膨らんだ恋情はだんだんと歯止めが利かなくなり、やがてKは先生に強引に迫り、一線を越えました。それでもKは幸せでした。大好きな人と一緒にいられて、それだけで毎日が色づいて見えました。しかしある日、Kは妊娠してしまいました。両親に打ち明けました。父はひどく怒って、Kを撲ちました。見かねた母は父を殺し、先生を誘拐するという凶行にでました。

 幸いにもKの友人、Mによって事件はすぐに解決されました。Kは子どもを堕ろし、先生との再スタートのため愛を再確認する……そのはずでしたが、なんと先生は人違いをして、Mに愛を伝えてしまいました。先生は人の顔を認識できない病気にかかっていたのです。そうして愛の冷えたKは先生と別れました。

 Kは進学した先の高校で、親が犯罪者であるという理由からいじめられるようになりました。責任を感じたMはKを庇いましたが、Kは不登校になり、Mもいじめられるようになりました。Mも不登校になりました。その後二人の仲が戻ることは永久にありませんでした……」

「嫌な話ですね」

「まあ、作り話だけどね」

「……」

 嘘かほんとか分からなかった。でも多分、本当にあった話ではないだろうかと推察した。

「それで、聞きたいのはここからなんだけど、誰が一番悪かったと思う? 妻ある身でありながら未成年淫行を働いた教師と、自身のおばの夫を誘惑し子どもまで孕んだKと、全てを知っていながら事件を解決したMと。それから夫を殺した母と、娘を殴った父と。KMをいじめていた人も数に入れてもいいよ。悪いと思う順に並べてみてよ」

「……確か似たような心理テストありましたよね」

「『川を渡る女』のこと? 彼氏に会うため川を渡りたい女が、船頭から要求された百万円を払えないから、代わりに舟を持っている男と体の関係を持って川を渡るやつ」

「それです。いざ渡ってみたら、女は彼氏に振られてしまって、でも傷心のところ幼なじみの男に慰められて結婚するっていう」

「結構いい話だよね。ハッピーエンドだし」

「これは嫌いと思う順番に並べて心理分析するんでしたよね。僕は体の要求をした男が一番嫌いですけど、先輩はどうですか」

「私は……幼なじみの男かな」

 意外だった。

「なんでですか」

「直感だけど、あえて理由をつけるなら、信用できないからかな。女が弱っているところにつけ込んでいる感じが」

「でも女が幸せならそれでいいじゃないですか」

「女は二番目に嫌い」

 にべもなかった。

「千蔭くんこそ、体を要求してくる男が嫌いなの? 行為に対価を要求するのは当たり前のことでしょ。船頭は舟を出すために百万を要求してきた。男はその代わりに体を要求してきた。見方によってはだいぶ良心的じゃない? それでも嫌い?」

「……好みなんて変わりますし。今日好きだったものが明日嫌いになっているかもしれません」

「そうかもね。ねえそれより、私の質問は? 誰が悪いと思うか、だよ」

 鈴先輩の真剣な目を、不安げに寄せられた眉を、きつく閉じられた唇を見て、ますますこの話に現実味が帯びる。もし鈴先輩がさっきの話に登場する誰かだとしたら、ここで回答を誤るのはまずいのではないだろうか。

 僕は考えるふりをしながら、ちらと腕時計に目を落とした。十七時二十分。ここから駅まで五分程度だ。三十分強の待ち時間と、先輩との関係は天秤にかけるまでもない。

「十七時半から飲み会があるので、その話は宿題にしてもいいですか」

 僕は急いで見えるように荷物を持って立ち上がる。

「飲み会? 千蔭くん、サークルとか入ってたっけ」

「友人とのですよ」

「そう。じゃあまた今度答えてね」

 先輩はそう言って、机上の『仮面の告白』を撫でた。

「これ、面白かったよ。同性愛ものはあまり読まなかったけど、これからは読んでみようかな。『モーリス』とか、『ヰタ・セクスアリス』とか」

「じゃあまた今度、何かあったら買ってきますよ」

「うん。でも課題はなるべく自分でやらないとダメだよ」

「善処します」

 先輩に見送られ階段を下りた。図書館を出ると、どこからか花の匂いを運んできた風が首筋を撫でた。葉桜がさやさや鳴っている。アスファルトには桜の花びらが押し花のように張り付いていた。

 駅について、手持ち無沙汰にスマートフォンをいじっているとき、ふと思い出し、『川を渡る女』のテスト結果を調べてみた。それぞれの人物には象徴しているものがあり、人物の嫌いな順番が、そのまま象徴しているものの嫌いな順らしい。

 船頭は金。彼氏はモラル。体を要求する男は性欲だった。

 そして先輩が嫌いだと言っていた女は愛情を、幼なじみは家族を象徴していた。

 こんなもの、ただの心理テストだ。そう思いながらも、先輩が年中オーバーサイズの長袖ばかり着ている理由を――手首を隠したがる理由を考えた。

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