思い出は濁流だ。いつでもわたしの足下で濁り、うねり、氾濫している。父の視線や濁声や、母の好みの洋楽は、いつもわたしを飲み込まんとしぶきをあげていた。

 わたしに優しいのは姉だけだった。いつでも味方でいてくれて、なにをしてでも助けてくれた。誰よりもわたしを理解し、何よりもわたしを愛してくれた。姉のおかげでわたしは死なずに済んでいたのだ。言い換えれば、姉のせいでわたしは死ねなかった。

 姉の救いはまるで真綿だった。痛苦の濁流から引き上げるため、首筋に絡みつけられた真綿。このままでは優しさが死因になる。すでに窒息寸前だった。

 だからわたしは――

 後部座席には穏やかな表情をさらした姉が横たわっていた。わたしは頭で流れる洋楽を口ずさみながら、買ったものを積み込んでいく。さっきまで夕映えに照っていた街は暗碧の空に飲み込まれていた。中天を切り裂くような痩せた月が腺病質に光っている。不遜なショッピングモールの看板は、図々しくもその真下で煌々と存在を主張していた。

「轟木さんじゃないですか」

 低く、落ち着いた女性の声が聞こえた。ドアを閉めて振り返ると、見覚えのある顔とない顔が一つずつ立っていた。見覚えのある方が言った。

「先日取材させていただいた烏丸です。覚えていらっしゃいますか」

「ええ。お久しぶりです。そちらは助手ですか?」

 烏丸の隣に立つ少女に顔を向ける。幼げな顔立ちのなか、目だけはどこか大人びた憂えを帯びていた。目つきが悪いわけでもないのに、冷たさを感じさせる少女だった。

「うちで働いてもらっている玉(たま)野(の)美鈴です。美鈴ちゃん、こちらは轟木理智巡査。ほら、〈夫婦惨殺事件〉を解決した」

 その紹介に思わず眉が寄った。烏丸に悪気はないのだろうが、広められていい気分はしない。しかし美鈴と呼ばれた少女は大した興味を示すこともなかった。一線を引いた態度からは、やはり年不相応な落ち着きを感じた。

 わたしたちが挨拶を終えたのを見て烏丸は言った。

「さっきの歌、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』ですよね。お好きなんですか?」

 聞かれていた気恥ずかしさを誤魔化すように、大きく首を振った。

「母が好きだっただけなのでタイトルすら知りませんでした。そう言うんですね」

「ええ。あの頃のように過ぎた日々をもう一度。名曲です」

「やっぱり記者の方だから、いろんなことにお詳しい。昨日取材にいらした加藤さんもこの辺の地理に明るいようだったし」

 烏丸は加藤の名前に苦笑した。

「本人から聞きました。記事を一から練り直すために勝手に取材に伺ったと。普段ならそんな独断もないのですが、今は少々立て込んでいまして」

 申し訳なさそうに肩を縮め、

「うちの加藤が何か失礼を働きませんでしたか」

「いえ、楽しい取材でしたよ」

 わたしは口元だけで笑った。

「今回は〈ハーメルンの笛吹き男〉事件について書かれるんですか。何か事件が動きそうな話はありました?」

 烏丸は眉を上げた。

「加藤はそんなことまで話したんですか」

「口ぶりからそうではないかと思っただけですよ。烏丸さんも取材の帰りですか」

「まあ、そんなところです。ここへはこの子と夕飯を食べに」

 烏丸が美鈴の肩に手を置いた。美鈴はにこりともせず、わたしを見ていた。いや、わたしの車を。その中を。わたしはさりげなく、美鈴の視線と車の間に移動した。こんなことならスモークフィルムでも貼っておけば良かった。

 無言の攻防に気づかない烏丸はのんきに、

「轟木さんはお買い物ですか」

「ええ。今日は非番だったので。もう帰りますよ」

「お一人ですか」

 烏丸の視線が鋭くなったように感じた。たぶん考えすぎだろう。注意すべきは美鈴の方だ。わたしは笑顔を貼り付け、

「姉と一緒ですよ。いまは疲れて眠っていますが」

 美鈴に聞かせるように言った。だが反応したのは烏丸だった。

「お姉さんがいらっしゃったんですね」

 その表情は、交番長のものとよく似ていた。彼もわたしを見るとき、そういう表情をする。捨て犬が拾われているのに遭遇したような、安堵と哀れみの入り交じった顔。わたしは愛想笑いを崩さないよう気を遣わねばならなかった。

「ええ、まあ」

「お姉さんはおいくつですか」

 美鈴が聞いてきた。軽い質問には不似合いなほどその目は真剣だった。

「今年で二十七だったかな。年子だから」

「お仕事はなにを」

「少し前に辞めてしまいました。精神を病んでしまってね。四年前まで銀行に勤めていたんですが、今は療養中ですよ」

「そうでしたか」

 美鈴は鷹揚に頷き、わたしに近づいてきた。いや、車に。咄嗟に動くこともできず、わたしは棒立ちで彼女の動きを見守っているしかなかった。

「美鈴ちゃん、どうしたの」

 烏丸も困惑していた。だが美鈴はまるで何の反応も返さず、車を無遠慮に見ながら一周すると、元の位置に戻ってきた。

 そして言った。

「お姉さん、かわいらしい髪留めをしていらっしゃいますね。でも、失礼ですが年齢にあまり合っていないように思えます。誰かからの貰い物ですか?」

 背筋が粟立った。わたしの車にそういうものが落ちているのは何らおかしいことではない。だがそうであってはいけないのだ。

 いや。わたしはすぐ思い直す。姉は今日、髪留めなんてしていただろうか。もししていたのなら、なぜさっき気づかなかった。美鈴がかまをかけているだけではないのか。だが、なぜ。警察官という身分のどこに疑われる要素がある。そもそもわたしをどう疑っているというのだ。子ども用の髪留めから美鈴は何を考えた。ただ物珍しく思って訊いてみただけではないのか。いや、待て。楽観視は危険だ。美鈴がわたしを疑っているのは目を見れば分かる。どう疑っているのかも知っている。彼女たちは〈ハーメルンの笛吹き男〉事件を取材しているのだ。だが、やはり疑問は残る。どうして子どもの用の髪留めを〈ハーメルンの笛吹き男〉事件とすぐに結びつけられたのだろうか。

 一秒が一分のようにも、一分が一秒のようにも感じられた。早く答えなくてはと焦るのに、言葉はどこにも見あたらない。絡まった糸くずのように不確かな思考だけが確かなものだった。沈黙して今何秒だ。あと何秒沈黙が続いたら疑われる?

 だが、烏丸が助け船を出してくれた。

「美鈴、いきなり疑うなんて失礼だ。謝りなさい」

 幼い子どもを叱りつけるような口調だった。美鈴は一瞬だけたじろいだが、すぐに頭を下げてきた。

「軽率な発言でした。申し訳ありません」

 烏丸も気遣わしげな笑顔で、

「ご無礼をお許しください。事件取材の後で気が張っているんです。私からよく言って聞かせますので……」

 少し心に余裕ができた。わたしは軽く手を振って、ようやく見つけた言葉を吐き出した。

「悲惨な事件でしたから無理もありませんよ。そうだ。いま思い出したんですが、わたしは自分が〈ハーメルンの笛吹き男〉でないことを証明できます。いずみちゃんの死亡推定時刻である十四日の午後六時は勤務中だったんです。交番長に確認を取ってもらっても構いません」

「そうですか」

 美鈴は大人しく引き下がったが、依然その目はわたしの心中を覗こうとしていた。柔らかい針で体の表面をつつかれているような落ち着かなさを感じて、

「わたしはこれで失礼します」

 さっさと車に乗り込んだ。すぐに発進させるが、こびりついた蟻走感はなかなか消えてくれなかった。知らず足にも力がこもる。車が一気に加速し、すぐに減速した。図々しい看板が完全に見えなくなっても、心臓はあばらを殴るのを止めなかった。

 アリバイは本当だ。わたしは午後六時には交番でデスクワークをこなしていたし、交番長もきっと証言してくれるだろう。必要なら防犯カメラを確認させてもいい。だが無駄なあがきだ。きっかけさえあれば美鈴はすべて看破してしまうに違いない。わたしのアリバイはそれほどに脆い。

 ハンドルを切り、細い路地に入る。死んだように静まりかえった黒い道には、切れかけた外灯がまるで幽霊のように白く、薄ぼんやりと灯っている。わたしの中の秒針は未だに逃げろ、逃げろとわたしを急き立ててくる。わたしはこの焦りからこそ逃れたかった。

 頼りないヘッドライトだけを頼りに、逃避行染みた運転を続ける。ようやくひらけた道に出たところで赤信号に捕まった。ふと奇妙な類似に気がついた。今の状況とわたしの置かれた立場はまったく同じではないか? わたしも頼りないアリバイだけを頼りに、自分の罪から逃れようとしている。そしてもうすぐ――

 自嘲的な笑いを漏らすと、

「理智、何笑ってるの」

 絡みつくような声が聞こえた。後部座席で人の動く気配がする。

「はあ、よく寝た」

 姉の可憐かれんが起き上がって、けだるげに首を回した。胸元の縒れたシャツを口まで引き上げ、あくびを隠している。短い髪には確かに女児向けアニメの髪留めがついていた。

「青。行きなよ」

 わたしは寝起きの不機嫌な声に従って青信号を通過する。可憐はまた寝転がった。

「それ、どうしたの」

「それって?」

「その髪留め」

「落ちてた。かわいいでしょ」

 起き上がり、明るい声で言ったが、次の瞬間にはうっとうしそうに髪を払い、「邪魔」と言って外してしまった。

「外には捨てないでよ」

「うん。だから足下に捨てた」

「どこに落ちてたの」

「足下」

「いつの間につけたの」

「理智が誰かとお話ししているとき。ねえ、なんで質問ばっかりしてくるの」

 ふいと窓の外に顔を向けた。

「もう答えないから。なに聞かれたって知らない」

 拗ねやすいのには慣れている。わたしは気にせず、

「髪留め、やっぱりどこにも捨てないで。拾っておいて」

 と言った。

「大事なものなんだ」

 可憐は目を細めた。

「そんなに大事なのに捨てておいたの? どのくらい大事? わたしより大事?」

「そんなわけない。姉さんが一番大事だよ」

「うん。わたしも髪留めよりわたしの方が大事。だから拾わなくてもいいね。わたしより大事じゃないもののために、わたしが動くのは間違ってるから」

 後で自分で拾うことに決めた。可憐は満足げに洋楽を口ずさんでいる。さっき烏丸から題名を教えてもらった、「イエスタデイ・ワンス・モア」だ。

「姉さんはその曲名知ってるの」

 可憐はわたしの質問を遮るように歌声を大きくした。邪魔をするなとでも言いたいのだろうか。

「『イエスタデイ・ワンス・モア』って言うらしいよ。過ぎた日をもう一度だって。母さんもそんな気持ちだったのかな」

 嫌みのつもりだった。可憐は歌い終えると、窓の外を眺めたまま言った。

「理智はどんな日をやり直したい?」

 答えを求めているわけではないようで、すぐに言葉を継いだ。

「わたしは父さんと母さんが死んだ日。あの日が人生で一番嬉しかった。家族は理智だけで充分だ。理智もそうでしょ?」

「僕もそう思ってるよ。姉さんだけでいい」

 可憐はしたり顔で笑いながら、足を小刻みに揺らしていた。

「ねえ、ラジオつけて」

 言われたとおりにする。流れ出した弾けるような声に可憐が「変えて」と言った。暗い声だ。言われたとおり変える。「変えて」変える。「変えて」変える。「変えて」変える。「もういい」変える。「止めて」止める。

 エンジン音だけの静寂に可憐は小さく息をはきだし、大きく舌打ちした。貧乏揺すりしていた足が、大きく踏みならされた。

「ろくな番組やってない。どこに変えても、ハーメルン、ハーメルン、ハーメルン、同じ事件ばっかり! そんなに〈ハーメルンの笛吹き男〉が物珍しいかな」

「議員の娘が殺されたんだ、無理もないよ」

 わたしが肩をすくめると、可憐はむっとした声で、

「なにそれ、じゃあ今までに殺された子たちは軽く見られてたってこと? 立場が弱いから? そんなのいじめと一緒だよ」

 思わず笑ってしまいそうになった。誰が、誰に向かって、何を言っているのだ。だが可憐は真剣な声で続けた。

「だいたい、この女の子は〈ハーメルンの笛吹き男〉の犠牲者じゃない。別の人間に殺されてるよ。それなのにどうして〈ハーメルンの笛吹き男〉で盛り上がってるの?」

 急速に頭が冷えていくのを感じた。急ブレーキを踏んで振りかえる。可憐はシートに頭をぶつけたようで、恨みがましい目をわたしに向けた。

「ちょっと、なに」

「姉さん。今、なんて言った? 本堂いずみは誰に殺されたって?」

「いずみ……そんな名前だったっけ」

「そうだよ。あの子は〈ハーメルンの笛吹き男〉の犠牲者じゃないの? だって僕は……」

 ハッと言葉を飲み込む。思えばわたしは今までの子どもの個性なんてまるで覚えていない。あれは本当に本堂いずみだったのか?

 可憐は神経質な指をバラバラに波打たせ、シートを叩いていた。

「何を聞かれてももう答えないつもりだったんだけど」

 まだ続いていたのか。可憐は悪戯っぽく目を細めた。

「しょうがないなあ、理智は。お姉ちゃんが教えてあげる」

 昔から言われ続けてきた言葉だ。お姉ちゃんに任せて。お姉ちゃんがやってあげる。お姉ちゃんがついてるから。姉はいつでもわたしに優しかった。

「いい? 今までの〈ハーメルンの笛吹き男〉の被害者の特徴をよく考えてみて。わたしは被害者の一人一人を覚えていないけど、特徴なら分かるよ。まず活発で、次に子どもだ。本堂いずみはどうだった? 三歳だから子どもだ。でも性格はどうだった。本堂いずみは女の子らしい女の子なんだってね」

 可憐は口元だけでにっこりと笑って言った。

「つまりあの子を殺したのは〈ハーメルンの笛吹き男〉じゃない。犯人も被害者も他にいる」

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