月刊明鏡の十二月号は今までに類を見ない売り上げを記録した。発売から数日でいくつかの大型書店から再発注の連絡がよこされ、県外の書店からの問い合わせも相次ぎ、個人で購入したいというはがきが全国から何百通と届いた。すぐに重版がかけられ、月刊明鏡は図らずも全国展開を果たしたのだった。月刊明鏡を「現代の予言の書」と熱狂的に支持する声もあれば、「人を殺した呪いの記事」と批判的にこき下ろす声もあった。いずれにせよ身の丈を超える反響であったことは間違いない。

 社内の反応も大きく二分された。歓喜か困惑か。営業やデスクは望外な売れ行きに心を躍らせていたが、私と美鈴は内外からの過大な評価を持て余していた。後輩の何人かは手放しに喜び、古株の何人かは複雑な表情でニュースサイトを睨んでいた。再発注の連絡やはがきが届くたび、比重の異なる空気が独特の重苦しさで私たちを圧した。

 そんな状況を見かねてか、松添が飲みに行かないかと誘ってくれた。私の他にも美鈴と加藤が誘われたが、美鈴は用事があると言って帰って行った。

「すみません、少し友達のところに……」

 何度か参加を促したがその一点張りで、ついぞ首が縦に振られることはなかった。なるべく目の届く範囲に置いておきたかったのだが、仕方ない。何も起きないだろう。

「でも早く帰るんだよ。最近は物騒なんだから」

 そう言って美鈴と別れ、三人でのささやかな飲み会が催された。久しぶりの酒は師走の寒風でかじかんだ胸をふっと緩めてくれる。チェーンの居酒屋の安酒も、今日ばかりは美酒に勝った。最近は仕事もプライベートも忙しく酒を控えていたのだ。

 店に入ってから一時間ほど経ち、加藤が酔い覚ましにふらふらと外へ出ていった。そのタイミングを見計らったように、

「お前は重く考えすぎなんだよ」

 松添が突然言った。それまで仕事の話はかたくなに避けていたのに、ろれつを怪しくしながら、熱っぽい口調で、

「確かに本堂静は雑誌の発売日に自殺した。憲久もお前たちを責め立てた。でも俺に言わせればあんなのただの現実逃避だ。自分の妻を守り切れなかった男の責任転嫁だよ。お前が責任を感じる必要なんてないんだ。お前は悪くない」

 酒気を帯びた声は次第に大きくなっていった。

「だいたい、この記事のどこに問題があるってんだよ。確かに擁護はしなかったが、責め立てたわけじゃねえ。いや、そもそも責められたって仕方ねえじゃねえか。それなのにてめえの都合でうちの記者をけなすなんていい度胸だ」

 どこに隠し持っていたのか、月刊明鏡の十二月号をテーブルに叩きつけた。空いた徳利が音を立てて倒れた。その拍子にページがめくれ、本堂静の写真が大きく広がる。ちょうど私が書いた記事だった。

「いいか、何度でも言うぞ。お前は悪い事なんて何もしてない。職務を全うしただけだ。お前は悪くないんだよ!」

 がさついた声で怒鳴ると、そのまま大きな音を立てて机に突っ伏した。それまで店内にうねっていた喧噪の波が引き、しかしまたすぐに大きくなった。

 私は店員を呼び止め、水をもらった。喉の奥が妙に熱っぽくふくらんでいたのは、何も酒のせいだけではないだろう。

 十一月二十五日のことだ。いつも通り朝支度をしていると、昨晩からつけっぱなしになっていたテレビから流れ出したニュースが、その名前を伝えた。

『本堂静さんが二十日の未明、自宅で亡くなっていたことが警察の調べで分かりました。自殺と見られており、娘のいずみちゃんの殺人事件との関連性も含めて、警察は詳しい原因を調査中とのことです……』

 あまりの衝撃に呼吸すら忘れた。詳しく知るために、チャンネルを変え、ネットニュースや新聞にも目を通した。だが、遅刻ギリギリまで睨み合っても、その日は本堂静が自殺した以上の情報は得られなかった。

 しかし翌日、本堂憲久の記者会見をきっかけに、事件は大きく動いた。

 彼はこう語った。

「妻は自殺に際して、遺書を残しませんでした。きっと、もう、そんな気力もなかったのだろうと思います。心ない言葉を浴びせ続けられて、平気なわけがないんだ。私は妻を責め続けた人たちを絶対に許しません。特に、静の死の直前に取材に来たくせに、擁護すらしてくれなかった記者は。どうして静が死ななくちゃならないんだ……! お前らが、お前らが死ねば良かったんだ!」

 これはこれで問題発言としてSNSを賑わせたが、

「……確かに、静は責められるべき人間なのかもしれません」

そう続けられた言葉は、警察をも騒がせた。

「もう隠す意味もないので自白します。いずみを殺したのは静でした」

 テレビ越しにも会場のざわめきはひとしおだった。私と同じようにテレビで会見を見る人たちの息を呑む音さえ聞こえてくるようだった。だが憲久はまるで意に介した様子もなく、波間に石を投げるように声を落としていった。

「いずみはご存じの通り、私と亡き愛人との間に生まれた子です。静はいずみの中に彼女の面影を見ては苦しんでいました。しかし私はまったく気づいてやれなかった。それどころか、血のつながりなど関係ない、私たちは世界一幸福な家族だと、本気でそう信じていたんです。それが間違いだと分かったのはすべてが終わった後でした。あの日、家に帰ると、いずみが首をおかしな方向にねじ曲げて倒れ、その傍らには静が坐り、いずみよりもよっぽど死人らしい青ざめた顔で帰ってきた私を見つめました。状況をすぐには理解できませんでした。何度も繰り返しわけを聞くと、静はまるで感情のこもらない声で、『この子が日増しにあの女に似ていくような気がする』そう言ったんです」

 憲久は芯から絞り出すような溜息をはいた。

「私はいずみが帰ってこないと警察に電話をして、いずみの遺体を鞄に詰め、外に出ました。周囲からは捜索に出ていると見られるように。でも、実際はあの子を捨てに行っただけだ……。ちょうど同じような事件が起こっているから、隠れ蓑にできるだろうと思って、自首しようとする静を止めてまで実行したのは私だ。すべての元凶も私だった。それなのに、どうして静が死ななくてはならなかった! 私が……私が死ねば良かったんだ……」

 会見はそうして、多方面へ刃を向ける形で終わった。その白刃はやがて、世間の背中をつつき、記者の首筋を撫で、警察組織に斬りかかることになる。二日後のことだ。今度はある女性が記者会見を開いたのだ。林田の元妻、桜場さくらば文香だった。

 文香はこう語った。

「本堂いずみちゃんの遺体が発見された同日、栞も帰ってきませんでした。こんなご時世です。すぐ警察へ行き、〈ハーメルンの笛吹き男〉事件に巻き込まれたのではないかと話しました。ですが、ちょうどいずみちゃんの遺体が発見されたのと同時刻だったそうで、ただの失踪事件として被害届は受理されました。それから何度も署に赴いては捜索人員を増やしてもらえるようにお願いしましたが、〈ハーメルンの笛吹き男〉事件の捜査拡大をしているため、これ以上人員は割けないという回答でした。……栞が帰ってこなくなってもう一ヶ月が経ちます。栞は私の唯一の宝なんです。あの子の笑顔だけが生きがいなんです。返してください。栞を、しーちゃんを返して……!」

 その叫びは世間の義憤の背を押した。それまで二度にわたり信頼を落としてきた警察は三度目を避けるため、同日の午後にも会見を開き、死体がない以上は殺人事件としての捜査を原則できないこと、人員を割けないという話は栞の失踪を軽んじていたわけではないことを説明したが、SNSでの抗議、各マスメディアによるバッシング、〈ハーメルンの笛吹き男〉事件の再考を求める電話は相次ぎ、ついに再捜査が決定した。

 そして三日後に遺体が見つかり、栞は〈ハーメルンの笛吹き男〉事件の被害者として認められ、警察は三度目の失墜を味わい、この一件でまた警察幹部の首がいくつか飛ばされた。

 一連の騒動は各マスメディアで連日大きく取り上げられた。ある記事は憲久の現在を気遣わしげにつづり、ある雑誌は栞と母親の評判を過剰な美談に仕立て上げ、ある番組のコメンテーターは警察のみを「捜査機関の名折れ」だと罵った。

 そうして世間の関心が集まっていき、やがて月刊明鏡の十二月号は目をつけられる。本堂夫妻の元に訪れた最後の記者が書いた「呪いの書」として、あるいは本当の被害者である文香にいち早く目をつけた「予言の書」として話題となり、売り上げを伸ばしていったのだ。それに比例して、当該記事を書いた記者を取材したいという他誌からの依頼も増えた。どれも丁重に断っていたが、そのたびに誹りや苛立ちをぶつけられ、中にはしつこく食い下がっては「あなた達のせいで自殺した人がいるんです。説明責任は果たすべきじゃないですか」などと詰め寄ってくる者もあった。

 業界への嫌悪感を募らせていただけに、さっきの松添の言葉はいっそう骨身に沁みた。

 彼は今も私の向かいで寝息を立てながら、

「お前らは悪くない……悪くない……」

 と繰り返している。私はまた泣きそうになって、水を口に含んだ。

 そこに加藤が戻ってきた。酔いは大分醒めたようで、足取りはしっかりしていた。眠りこける松添と、テーブルに放り出された月刊明鏡を見て状況を察したのだろう、

「さっきまで絶対に仕事の話はしなかったのに」

 苦笑して私の隣に座った。彼女は机の上に置かれたジョッキを握って、半分ほど呷った。

「でも、編集長の気持ちも分かります。烏丸さん、最近あまり寝てないですよね。顔色悪いですよ」

「電話がかかってくるからね」

「取材のですか」

「それ以外にもいろいろ」

 私は肩をすくめて店員にウイスキーを頼んだ。加藤は顔をしかめた。

「みんな好き勝手な推測で騒ぐの好きですよね。誰々のせいであいつが死んだ、誰々のせいでこいつが殺されたって。馬鹿みたい。烏丸さんほど真面目に取材相手と向き合っている人、いないのに。なのに、なんで烏丸さんが……」

 ほとんど泣き声だった。

「加藤、もうやめといたら」

 私はジョッキを取り上げ、代わりに水を持たせてやった。加藤はグラスの水を一気に飲み干すと大きく息をはいた。

「すみません。でもこの記事を読んで烏丸さんを責めてるやつが許せないんです。予言者なんて言って面白がってるやつもですけど」

 加藤は苛立った手つきで月刊明鏡をたぐり寄せ、パラパラと捲った。そして突然、あ、と何か思い出したように声を上げた。

「そういえば、烏丸さんから引き継いで記事を書いたじゃないですか。それで改めて轟木さんにお話を聞きに行ったんですけど、そのとき失踪事件を仄めかすようなことを言ってました。あれ、栞ちゃんのことだったんですかね」

 加藤の記事を読み返すが、そんなことは書かれていなかった。轟木巡査の過去の活躍と、〈ハーメルンの笛吹き男〉事件に際しての注意喚起のコメントが載せられているだけだ。

 私は聞こえよがしに溜息をついた。

「また興味本位で動いて……」

「ごめんなさい」

 言葉とは裏腹に加藤はにっこりと笑っていた。

「でも、これで烏丸さんが予言者って言われても言い返せますね。轟木巡査から聞いた私から聞いたってことにすればいいだけですから」

 得意げな顔で言ってくるので、反応に困った。だが、加藤は顔を曇らせるとこう話を変えた。

「なんの根拠もない、勝手なことを言うんですけど」

「うん」

「轟木さんって、なんか怪しくないですか」

 確信に満ちた様子だった。私は上手く反応できなかった。

「はあ」

「だって、あんな事件があったのに普通に警察を続けてるのも変じゃないですか」

「あんな事件があったからこそじゃない?」

「でも、あんまり気にかけてる様子でもないですし」

「人前で顔に出さないだけじゃない?」

「でも私の質問にもしどろもどろで……」

「守秘義務でしょ」

「でも……」

 長い沈黙。私はウイスキーを嘗める。脇に置いたジョッキの氷が崩れて、加藤がふてくされたような顔になった。

「なんか、烏丸さん、えらい肩を持ちますね」

「そう? それより、憶測で騒ぐやつは嫌いだったんじゃないの」

 加藤は私の指摘に顔を蒼くし、一瞬後には赤くなった。誤魔化すように何も入っていないグラスに口をつけ、置いて、

「不快にさせたならすみませんでした」

 と頭を下げた。言い過ぎただろうか。私は手を振って、

「でも、美鈴ちゃんも同じようなこと考えてたみたい。轟木さんと偶然会ったときにね、その場に轟木さんのお姉さんもいたんだけど、お姉さんが子供用の髪留めをしているからって〈ハーメルンの笛吹き男〉だと疑い出しちゃって。その場では何とか収めたけど、もしかしたら轟木さんは怪しまれやすい星の下に生まれたのかも」

 と冗談めかして言った。加藤はやっと相好を崩して、

「だから美鈴はあんなに真剣に記事を読んでたんですね」

 と言った。初耳だった。

「そうだったの」

「ええ。校正に出す前からずっと、轟木さんの記事ばっかり気にしてましたよ」

 私は美鈴が勝手な行動を起こさないよう内心で祈った。

 ふと店の中が静かになった。まだ八時だ。座がしらけるには早いと思うのだが。

 不審に思って振り返ると、さっきまで騒いでいた何人かは上を向いていた。店の隅にテレビが吊り下げられている。

 ニュースが流れていた。

『――十一月二十七日に遺体で発見された高校二年生の神田かんだ真央まおさんを、警察は七月頃から発生している〈ハーメルンの笛吹き男〉事件の被害者として捜査を進めていく方針を発表しました。この発表に真央さんの母親は――』

 私は店員に頼んで音量を下げてもらった。テレビから目を背けると、ちょうど加藤と目が合った。

「今のって、確か……」

「美鈴ちゃんの学校の子だよ」

 十月に殺された本堂いずみや桜場栞の話が大きくなりすぎて、あまり取り沙汰されていないが、十一月の下旬にも一名、神田真央という高校生が他殺体で発見されていた。神田は美鈴と同じ高校に通う二年生で、美鈴をいじめていた一人だった。あの日、立ち去り際に美鈴を撮っていった少女だ。

 神田は首に緑の紐を巻き付けられた状態で、裸で発見されたらしい。場所は美鈴が連れ込まれ、いじめられていた囲繞地だった。近くにはポロライドカメラで撮られた写真が捨てられており、これらの遺留品から犯人の特定を急いでいたはずだった。

 だが――

「なんで〈ハーメルンの笛吹き男〉の被害者になるんでしょう」

 恐らくニュースを聞いた全員の疑問だろう。同時に、全員が薄々答えを感じ取っている疑問でもある。

「同じ轍を踏むのを恐れたんでしょ」

「桜場栞のですか」

「そう。年齢から見ても〈ハーメルンの笛吹き男〉の被害者ではないはず。だけど、もしその予想が外れたらいよいよ警察の信頼は地に墜ちる。だから保険だよ。これなら〈ハーメルンの笛吹き男〉が犯人じゃなかったときも言い逃れはしやすい」

 加藤は深く頷いた。

「目立つ方に引っ張られたって言えばいいだけですもんね」

「そういうこと。でも、それで世間が許すとも思えないから、浅はかな保険だと思うよ。下手したら、本当の犯人に与してると思われかねない」

「このこと、美鈴はどう思っているんでしょう」

 加藤は真剣な表情で聞いてきた。美鈴が神田にいじめられていたことを知らないのだ。

 私は丁寧に、神田がどのような人間であるかを教えてやった。加藤は目に汗が入ったときのような顔で嫌悪感を顕わにした。

「そんな……」

「それでも美鈴ちゃんは悲しんでると思うよ。もしかしたら自分の手で本当の犯人を捕まえたいと思ってるかもしれない。あの子、いい子だから」

 加藤はぐっと眉間を寄せた。

「自分をいじめていた人間まで哀れもうなんて、自分を蔑ろにしてるだけですよ。それで周りがどれだけ心配するか分かっていない。ただの強迫観念じゃないですか。美鈴はいい子なんかじゃないです」

 それから、とっくに温くなったジョッキを机の脇から引き寄せて、一気にあおった。アルコールの刺激にむせながら、加藤は続けた。

「烏丸さんも、そういうところありますよね。いつも自分が損する分にはいいと思ってるじゃないですか。取材の電話だってさっさと編集長にでも投げちゃえばいいのに、自分で何とかしようとして。編集長も言ってましたよ。抱え込みすぎだって。もっと周りを頼ってくださいよ……」

 加藤なりに今回の一件には思うことがあったのだろう。いよいよ声を上げて泣き出してしまい、私は慰めるのに手を焼いた。加藤はその間も「もっと自分を大事にしてくださいよ」と酒を飲んでは、「烏丸さんは悪くないです」と泣いた。

 私は店員に水をもらって一気に飲み干した。だが、もうその程度では涙を飲み下すことはできず、こみ上げてくるのはなかなか押さえられなかった。

 加藤の目にもその格闘は見えていただろうが、何も言わないでくれた。

 

 その後、泣き疲れて寝てしまった加藤を起こし、ついでに松添も叩き起こし、店を出た。タクシーで帰る加藤とは店先で分かれ、私と松添は駅に向かって歩き出した。

 まだ十時を回ったところで、夜化粧の飲み屋街はいっそう賑わっていた。スーツを着た何人かのサラリーマンが大袈裟に騒いでは、酸素を求めるように大衆居酒屋の暖簾をくぐり、髪をカラフルに染めた学生の集団が妙に気張った顔で、甘い蜜を求めるように薄暗いバーの敷居をまたいでいく。客引きの声も電飾看板で染められた冬空によく響き、飲み屋街はさらに濃密に彩られていった。

 ふと友人が生きていた頃を思い出した。あのときは私と友人と編集長の三人で、社内外問わず、誰かを連れ立っては毎週のように飲み歩いていた。それはライバル誌の記者であったり、フリーのカメラマンであったり、行きずりの学生であったりした。そしてどんなときでも大抵友人は酔いつぶれ、私と松添が家まで送り届けたのだった。彼女の醜態を見たのだって一度や二度ではない。

 松添も思い出しているのか寂しげな微笑を浮かべ、口笛を吹き始めた。「イエスタデイ・ワンス・モア」。友人の好きだった歌だ。

 それが終わると、彼はぽつりと言った。

「さっき加藤も言っていたが、お前はもっと周りを頼ってもいいんだぞ」

 私は立ち止まって振り返る。起きていたのか。

「加藤のことまだまだ子どもだと思ってましたけど、成長は早いですね」

「うちに入ってからもう三年だからな」

「そんなにですか」

才川さいかわが死んでからは八年だ」

「……そんなにですか」

 私は指折り数えて、間違っていないことを確かめる。八年前といえば私がフリーに転身して間もないころだ。そして、フリージャーナリストという肩書きに誇らしさ以上に不安を感じていたころだ。

「お前には向いてない」

 大学卒業後に入社した新聞社で、フリーの記者になりたいと話すたび言われた。確かに女一人がフリーで活動するなど、地獄を綱渡りで歩くようなものだった。いつ挫かれ、どこに沈められるかも分からない。それならまだ舗装された道で地獄を歩いた方が利口だ。それでも夢を捨てられず、入社から三年後、私は新聞社を辞め、フリーの道を選んだ。友人はそんなとき私の道標となってくれた先輩でもあった。

 才川千歳ちとせといった。私と同い年で、生きていたら三十三になる。皮肉屋で正義感が強く、それを隠すために憎まれ口を叩くようなところがあった。好きなものは酒と弟と音楽、嫌いなものは猫と嘘だった。千歳はいつも「音楽だけは嘘をつかない」と言って、その時々に気に入っている音楽を聴かせてくれた。ポップスからノイズミュージックまでその趣味は幅広く、思えば、千歳の口から音楽について「知らない」という言葉を一度も聞いたことがなかった。カーペンターズもルッソロも、彼女にとっては友人のようだった。

 新聞記者として働いているときから、千歳と顔見知りではあった。専門学校を出てからずっとフリーで活動していた彼女は、仕事をもらいによく新聞社に出入りしていたのだ。だが会話をしたことは一度もなく、ただ彼女が記者として有能であることだけ社内の噂で知っていた。

 交流を持つようになったのは私がフリーに転身した後のことだ。終わりを逆算するような毎日にせっつかれながら、ある旅行雑誌のフランス特集の仕事を受けた際、補助員として千歳がついたのだ。木枯らし吹きすさぶ十二月のことだった。

 彼女は私のことを覚えていたようで、会ったときからずいぶんと好意的だった。真冬だというのに、彼女はその身に太陽を宿しているように温かく、眩しかった。

「烏丸さんだよね、関西新聞の。フリーになったんだ。この業界、女性が少ないから嬉しいな。これからよろしくね」

「よろしくお願いします」

「同い年でしょ? 私のことは千歳でいいから。敬語もやめてよ」

 だがその余裕のある笑顔が、余裕のなかった当時の私には不愉快で、

「分かりました、才川さん」

 と当てつけてやった。だが彼女は声を上げて笑い、「けい、面白いね」と名乗ってもいない私の名前を呼んだ。顔見知りと仕事ができることがよほど嬉しいのか、千歳はその後もほとんど喋り通しで、機内では客に、眠れないから黙れと注意されるほどだった。

 だが現地についてからは、仕事以外の話をしなくなり、ときどき思い出したようにフランスにまつわる雑学を披露する程度だった。食事中も記事をどのような構成で書くかを質問責めにされた。

 千歳は噂通り有能な記者だった。海外取材ではたいていの場合、旅行会社のコーディネーターをつけるが、彼女はそれを必要としなかった。自分で流暢なフランス語を操りながら取材の通訳をし、観光スポットを巡り、私をおいしい料理屋へ案内してくれた。トラブルに巻き込まれそうになったときも彼女が助けてくれて、五日間、一度も怖い思いをすることなく日本へ帰ることができた。

 帰りの機内では、千歳はまた好き勝手に喋り出したが、私はもうそれを不快だとは思わなかった。

「またね千歳」

 別れ際、私が言うと千歳は目を大きくして、すぐに細めた。

「うん、またね。景。あなたは記者に向いてるよ」

 それから私たちの交流が始まったのだ。記者という括りで見たら、千歳は私の二つ先輩で、当然のことながら私よりも忙しくしていた。それでも週に一度は必ず会っていたし、一度だけ仕事と関係のない旅行に行ったこともあった。千歳とは妙に気が合い、出会って半年もする頃には、まるで十年来の親友のような関係になっていた。

 春は過ぎ、夏が絶え、秋も枯れた。気がつけば千歳と交流するようになってから一年が経っていた。それに気づいた千歳はその日、ずいぶんと楽しそうに酒を飲んで当時を振り返った。

「一年前はさ、景はもっととげとげしてたよね。フランスのときだっけ。私に噛みつくためだけに、わざと現地の人と揉めようとしてたでしょ」

 私は顔が熱くなるのを感じた。気づかれていたのか。

「そのときはいらついたけど、でもフリーでやるならそういう反骨心は必須だからね。善悪の垣根を越えてでも自分の芯を優先できる強さが。それがなくちゃ、記者は潰れちゃう。だからあなたは記者に向いてるって言ったんだ」

 また顔が熱くなった。千歳がケラケラと笑っておしぼりを差し出してきた。私は無言で受け取り、誤魔化すようにウイスキーに口をつけた。

 不意に真面目な顔になった千歳が、私に向き直って言った。

「ねえ、景。私は死ぬまで記者でいるつもりだよ。十年後も二十年後も、私はきっと今日と同じように生きていく。朝から取材に出かけて、夜まで記事を作って、週に一回だけ居酒屋に飲みに来る。それの繰り返し。この地獄みたいな業界を、地獄みたいなスケジュールで生きていくんだ。でも悲観はしてないよ。だって友達ができたし。だからさ、景。あなたも死ぬまで記者でいてよ。約束」

 差し出された小指に、私は年甲斐もなく緊張して、しかし大して迷うこともなく自分の小指を巻き付けた。

 その翌日のことだった。朝早くに千歳から電話がかかってきた。

「今、松添さんから殺人事件の記事を任されていてさ」

 当時、松添は今とは別の会社で有名な総合雑誌を作っていた。

「ストーカー男が人妻を刺し殺したやつ。確か景も記事を書くって言ってたよね。情報交換しましょう」

 こういうことはこれまでにもあった。何も千歳に限った話ではなく、そもそも記者が情報を交換し合うのは通例なのだ。他社が持っている情報の掴み損ねを避けるため、どこの会社でもまず記者になったらたたき込まれることだった。独占したい情報でもない限りは出し惜しみするなと、私も新聞記者時代に先輩から教えこまれていた。

 千歳はさすがに慣れた様子で、互いが把握している事件の概要に間違いがないかを確認してから、加害者の男が過去にもストーカー行為で裁判所から接近禁止命令を出されていたことを教えてくれた。

「このときの被害者女性にも取材を申し込んだけど、空振りだったわ。『もう終わったことですから、思い出したくありません』って泣かれちゃった。他にめぼしい情報はないから、男の過去を書きながら、事件を纏めると思う。そっちは?」

 聞かれて、少し迷った。このとき私は、恐らくまだどこにも出回っておらず、今後も出回らないだろう情報を持っていたのだ。

 情報元は加害者の男性が住んでいたアパートの大家だった。ある新聞記者の口から、「大家は大のマスコミ嫌いで、取材なんか取り合ってくれない」と聞いており、私も駄目元で訪ねたのだが、話に反して大家は私の取材を快諾してくれた。

 そして、加害者男性と殺された女性が本当は不倫関係にあったこと、殺された女性とその夫が美人局で過去に二回、警察に捕まっていたことを聞いた。

 取材の後、マスコミ嫌いについて聞くと大家は、「あんたは死んだ娘によう似とった。優しい子だったんだよ」と懐かしむような目で言った。

 だが私は、この情報を千歳に渡した。感傷や馴れ合いではない。この一年間、フリーの記者として生き残れたのは、千歳のサポートがあったおかげだ。千歳にはこの業界の歩き方をずいぶん教えてもらった。その恩返しのつもりだった。

「これ、本当に私が記事にしていいの?」

 思いがけない情報に、千歳は困惑しているようだった。それも当然だ。もし私が記事にしていたら、フリーになって二年目の女性記者が独占スクープを発表することになる。しかも刑事事件でだ。きっと業界でニュースになるだろう。しばらくは仕事に困ることもなくなり、さらなる成長が望めるかもしれない。

 ここでならまだ引き返せた。引き返して、「やっぱり私が書く」と言うことはできた。

 しかし私は快諾したのだ。

「いいよ。もし話題になっても、そういうのって大抵は長続きしないから。大丈夫、独占スクープなんてまたすぐ作れるよ」

「生意気。……でもありがとう」

 そうして千歳はこの事件をただのストーカー男の一方的な殺人事件ではなく、情事のもつれによって引き起こされた、双方に非のあった事件として世に送り出した。この事件はそれまで単に〈ストーカー殺人事件〉と呼ばれていたが、この記事をきっかけに〈美人局殺人事件〉と名付けられた。雑誌は飛ぶように売れ、才川千歳という名前も業界では知らぬものがいないほどになった。私が書いていれば、と惜しむ気持ちもあった。だがそれ以上に、千歳の名前が売れていくのが嬉しかった。

 千歳はテレビにも出演するようになり忙しそうだったが、それでも週に一度は必ず飲みに誘ってくれた。三月十一日が彼女と飲みに行った最後だった。その日、千歳はこんな話をした。

「私が記者を目指したのは、高校生の頃。クラスでいじめが起こっていたんだ。ゆるせなかった。でも止めたところで効果がないことは分かっていたから、証拠写真を揃えて学校に提出してやった。もし何も対策を講じないなら、これを警察にも提出するって釘も刺した。効き目は抜群だったよ。いじめていた全員が停学になって、そのうちの何人かは退学処分にまで繰り上げられた。私が正しさを表明して、悪は裁かれたんだ。それが最初のきっかけ。それで今は記者になって、虚実と善悪のせとぎわで正しさを探してる」

 独り言を呟くような声で、自分の立ち位置を再確認しているように思えた。化粧で隠しているが、千歳の目の下には濃い隈が見えた。そこにアルコールも手伝ったのだろう。普段よりも千歳はずっと弱気だった。

「最近、そのときいじめられてた子から連絡が来たんだ。その子、今は結婚して子どももできたって。嬉しかった。でもその子はこうも言ったんだ。『私をいじめてたやつ、まともな職に就けなくて最近自殺したって。いい気味だよね。私、今人生が最高に楽しいよ。全部千歳ちゃんのおかげ。ありがとう』」

 千歳は私のウイスキーも奪い取り、一気に流し込んだ。

「ねえ、私は正しかったのかな。いじめてたあの子は本当に死ぬほど悪い人間だったのかな。いじめられてたあの子は人の不幸を喜ぶようになっちゃって、それっていじめと何が違うんだろう。私が信じてた正しさって、こんなに脆かったんだ」

 千歳の真っ赤に充血した目に、真っ黒な闇が見て取れた。

「虚実も善悪も、簡単には判断できないって分かってた。でもいつかは正解が掴めると信じてたんだ。それなのに……」

「千歳……」

「この世に正しいことなんてないんだね。きっと私の正しさは誰かを傷つけていて、私の間違いは誰かを救っているんだ。私たちが歩いてるのはそんな不安定な道なんだよ……」

「千歳、違う」

「もう、疲れた……もう死にたい……」

「千歳!」

 彼女の手を取った。思った通りに冷たく、思った以上に頼りなかった。

「……帰ろう、千歳。きっと寝不足なんだよ。だから悲観しちゃうんだ。ちゃんと寝たら、きっと、良くなってる。だから、今は休もう?」

 求められている言葉ではないと分かっていた。だが、私に言えるのはそれくらいだった。

 千歳は案外素直に頷いて、足をふらつかせながら帰路についた。私は家まで送ろうとしたが、千歳は一人にさせてほしいと言った。だからそうした。

 その翌日、才川千歳は遺体で発見された。


 真っ先に心配したが、自殺ではなかった。殺人だった。頸部圧迫による頸椎骨折が直接の死因だったが、腹部にも数カ所刺された痕が見つかったらしい。服を剥ぎ取られ、体内からは微量だが精液も発見されたという。怨恨だろう、となじみの警官がのんきそうに言っていた。千歳の住むマンションの前での凶行だった。

 犯人はすぐに捕まった。〈美人局殺人事件〉の被害者の夫だった。男は動機をこう語った。

「あいつがあんな記事を書いてから、俺がどんな生活を送ってたと思う。仕事はクビにされて、住んでたマンションも追い出された。〈美人局殺人事件〉だ? ふざけるな! あんなデマ流しやがって。俺たちは被害者だったんだ。それなのにこんな仕打ち、おかしいだろ。殺人犯を庇うやつは殺人犯と一緒だ。それなのにあいつは平然とテレビにも出てやがる。だから殺した。犯してもやった。文句あるか」

 デマ情報というのは本当だった。もっと後に分かったことだが、私に情報をくれた大家は娘に先立たれたショックでだいぶ認知症が進んでいたらしい。テレビか何かで見た記憶を、現実の事件と混ぜて話してしまったのだろう。ちょうどその頃、不倫を題材にしたドラマがはやっていた。

 通夜には参列した。遺族の誰も私を責めなかった。むしろ、今まで仲良くしてくれてありがとう、と礼まで言われた。同業者の姿もいくつかあった。彼らも私を責めることはなく、慰めようとする者すらいた。柔らかいタオルケットを押しつけられているような息苦しさを感じて、早々に会場を辞去した。

 千歳の事件を記事にする機会は何度かあった。千歳が殺された翌日から、中小の雑誌社や、ニュースサイトの運営会社、大手の新聞社から依頼は舞い込んできた。どこも千歳に紹介してもらったおかげで付き合いのできた会社だった。すべて受けたが、結局一文字も書けず、原稿を落とした。

 信頼だけが物をいう業界だ。その後一年間はなんとかフリージャーナリストを名乗れていたが、すぐに立ちゆかなくなった。

 千歳は色々なことを教えてくれた。業界の歩き方はもちろん、地図の読み方や裏道の見つけ方、絶対に朝起きられる方法から野宿でも快適に寝られる方法まで、彼女は経験豊富で、それ以上に話し上手だった。でも、仕事で友人を亡くしたときにどうするべきかは教えてくれなかった。

 記者を辞めることは何度も頭によぎった。だが裏切ることはできなかった。最初からもらってばかりで、最後まで求められた言葉すらかけられなかったのだ。一生記者でいるという約束くらいは守らなくては、千歳の友人ですらいられなくなると思った。

 そんな折、松添から連絡があった。

『今どんな状況だ』

 短いメールだった。後から聞けば、私の名前をどこにも見なくなったことを気しての連絡だったそうだが、そのときの私はこの唐突な連絡を、地獄に垂らされた糸のように思って縋った。

『もう無理かもしれません』

 そう返事を送ると、すぐに電話がかかってきて、その数日後には松添が編集長を務める今の会社に就職が決まった。

 あまりの手際の良さを不審に思って問い詰めると、

「才川から、もしお前がフリーでいられなくなったらうちで雇うように言われてたんだ。あの子は記者が天職だからって。あいつもようやく友達ができて嬉しかったんだろ。まさかこんな形に実現するとは思わなかったけどな」

 彼はまるで父親のようなことを言って、くたびれたように笑った。

 春は過ぎ、夏が絶え、秋も枯れた。そうして気がつけば八年も経ち、また冬が訪れた。私は未だにその糸に浅ましく縋り、糸の方も私に絡みついたままでいる。

 八年ぶん老けた松添は、あのときよりもずっとくたびれた顔をして、

「お前が取材の同行に美鈴を選んだとき、頭のどこかではそうなるだろうと思っていた。美鈴はあいつに似てたから。でも、だからこそ止めたんだ。どっちにとっても良くないと分かっていたから」

 苦々しくそう言った。

「まあ止められなかったけどな。お前、自分の要望は全部通そうとするから」

 彼は私の性格を本当によく分かっている。記者には自分の芯を押し通す強さが大事だと教わったのだ。

「……なあ」

 松添は思いきったように言った。

「何度も言うがお前は悪くないぞ」

「聞きましたよ」

「いや、本堂静の件じゃなくて、才川の事件のことだ。お前、この八年間ずっと気にして生きてるだろ。もういいんじゃないのか。忘れろってわけじゃない。でも、何でもかんでも自分が悪いって思うのは違うだろ。あれは事故だったんだ。確かに情報を渡したお前が悪かった。でも同じように、仕事を依頼した俺が悪かったし、仕事を受けたあいつが悪かった。そもそも事件を起こしたストーカーが悪かったし、あいつを殺した男が悪かった。責任はみんなで少しずつ分けるべきじゃないのか」

 自分の眉間に皺が寄るのが分かった。

「私が責任から逃れることと、忘れることにどんな違いがあるんですか。私は間違えたんです。あのとき私が余計なことをしなければ、私が書いていれば、千歳は死ななかった。私が殺したも同然じゃないですか。その責任は死ぬまで背負わなくちゃいけない」

「そんな償い、あいつは求めてない。美鈴にあいつを重ねるのはやめろ」

「むなしいことをしているのは理解してるつもりですよ」

 ちょうど駅前の分かれ道にさしかかった。私は暗がりの路地へとつま先を向けた。

「今日はありがとうございました。失礼します」

「おい、そっちじゃないだろ」

「歩いて帰りたい気分なので」

 それだけ言って、喧噪とは逆に歩き出す。等間隔に立ち並ぶ外灯は、むしろ夜の闇を濃いものにしていた。松添はまだ何か言っていたが、私は一度も振り返らなかった。

 無心で歩き続け、ようやく最寄り駅に着いたところで、目の前に人影が現れた。いや、人影からすれば、私が現れたのかもしれない。通り過ぎていくヘッドライトが彼女の顔を浮かび上がらせる。耳を真っ赤にして、ずっと私を待っていたのだろう。

「ずっとここにいたの?」

 しかし彼女はそれに答えず、

「烏丸さん、お話があります」

 そう言った美鈴は、いやに思い詰めた、まるで崖から飛び降りる直前のような表情で私を見た。

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