新聞記事が取り上げる。テレビニュースが映し出す。情報雑誌が書き立てる。それを見た訳知り顔が、勝手に事件を解釈していく。恣意的な推敲が重ねられ、自慰のためだけに消費される。そうしてやがては記憶に埋没し、掘り返されることもなく消えていく。

 殺人事件とはそういう娯楽だった。その根底に辛うじて瞋恚しんにの炎はくすぶっているものの、ときどき息を吹き返したように燃え上がる他は、底意地悪く、誰かの足の裏をじりじり焼いている。本堂いずみが発見されてしばらくは警察を、今は悲劇の母親であったはずの女を。

 地獄のような責め苦にも負けじと、本堂静は今日にも会見を開いていた。十一月五日、通算五度目の会見だ。一度目の録画映像の使い回しを疑いたくなるほど、所作も口調も、泣くタイミングまで同じに見えた。涙の翳からときどき垣間見せる、赤い針のような視線さえも。

 それは本来なら中心に捉えるべきはずのわたしを見過ごした、自身を批判する人間をこそ貫く視線だった。彼女は〈ハーメルンの笛吹き男〉をもはやどうでもいいと思っている。確信したのは当事者であるわたしだけだろう。同僚にも察した人間は何人かいたかもしれないが。

 本堂いずみの遺体が発見されたと報じられたとき、まさかそれが自分の捨てた遺体だとは思ってもみなかった。単純に覚えていなかったのだ。被害者の名前を聞いても、顔写真が報道されても、まったく気がつかなかった。こんな子が死んだのか、と同情していたくらいだ。犯人が〈ハーメルンの笛吹き男〉であると報道されているのを聞き、ようやく気がついた。

 本堂いずみが四人目の被害者であるためか、大物政治家の一人娘であるためか、人員を増やした大規模な捜査がおこなわれるらしい。本格的に〈ハーメルンの笛吹き男〉を捕まえようとする警察の動きが見えた。

 あまり不安はなかった。たとえ捕まろうと、世間にどう責められようと、極刑に処されようと、それ自体はたいした苦ではない。わたしは恐れるのはたった一つだけだ。それ以外のものは何も怖くない。

 そして何より――

轟木とどろき。轟木理智りち。休憩は終わりだ。巡回に行ってこい」

「はい、交番長」

 わたしはその場で立ち上がって敬礼を返した。制帽をかぶり直し、素早く身だしなみを確認する。手帳、警笛、無線機、手錠、警棒。そして拳銃。

 すべて問題ない。わたしは再度敬礼をして、自転車にまたがった。

「では、行って参ります」

「ああ。気をつけろ」

 交番長はさび付いた、だがどこか親愛のこもった声で、わたしを送り出した。

 ――わたしは警察官だ。人を疑いこそすれ、人から疑われることはないだろう。どのような疑義を向けられようと、確証がない限りは桜の代紋が撥ねのけてくれる。

 警察は組織社会の最高峰だ。よほどのことがなければ切り捨てるようなことはしない。はぐれものの黒い羊にさえならなければいいのだ。牧畜された羊と同じだ。毛並みに大きな違いがないかぎり、仲間から迫害されることはない。

 わたしも昔は黒かった。だが今は違う。上手く溶け込めている。わたしの本来の色は誰にもバレていない。


 交番勤務を続けて六年目になる。パトロールにも慣れたもので、交通事故の多い細道や、人通りの少ない裏道はだいたい頭に入っていた。暗く、狭い、見通しの悪い道だ。泥酔者を保護することはよくある。不審者を見かけることも少なくない。薬物乱用者を捕まえることも稀にあった。そういった箇所を重点的に見回ることで、事件発生率が変わることには四年目に気がついた。その結果自分の評価が上がることも。

「試験を受けないか。お前なら現場に出られると思うが」

 四年目の春、一度だけ交番長からそう勧められたことがあった。いつでも巌のような態度を崩さない男だったのに、妙に落ち着かぬ様子だった。

 詳しく事情を聞くと、それは交番長ではなく本部からの誘いだった。わたしが〈夫婦惨殺事件〉の犯人を捕まえたとを聞きつけてのことだったらしい。

 逮捕というほど大袈裟ではなく、すべて偶然の幸運だった。

 大雨の日、パトロール中に泥酔者を見かけて声をかけた。すると男の呼気からはアルコール以外の甘い香りが漂っていた。不審に思って男のポケットを探るとやはり違法薬物が入っており、そして反対側のポケットからはタオルに包まれた包丁を見つけ、そして男に事情を聞こうとすると逃げだし、そして……といった具合で、男が〈夫婦惨殺事件〉の犯人だと突き止めた。ただそれだけのことだ。男は容疑の一切を否定していたが、すぐに懲役刑が言い渡された。今なお再審を求めており、最近それが受け入れられたと話題になっていた。

 男が捕まって以来、交番長はわたしの機嫌をとるように何度もわたしを褒めた。頑とした声で「よくやったな」と繰り返すので不思議には思っていたが、どうやらそういう理由だったらしい。上層部に気に入られたわたしに気に入られたいのだろう。

 わたしは彼が試験の話をしているのを遮って、

「ありがたいお言葉ですが、もうしばらくはここで勉強させていただく所存です」

 食い下がってくると思ったが、交番長は「そうか」とだけ言って、また岩石に身を包んだ。少しだけ意外だった。

 彼はもう二度と試験の話はしなかった。


 地域住人の生活動線も、ある程度は把握できていた。いつも同じ時間に出くわす仲睦まじげな老夫婦がいる。固定の曜日にのみ同じスーパーから帰ってくる主婦を見かける。一週間に一度だけ公園で遊ぶ子どもの顔を知っている。わたしは人の顔を覚えるのが得意ではない。本当はもっと多くの顔見知りとすれ違っているだろう。

 今日もわたしが知らないわたしを知っている人間に声をかけられた。巡回訪問を終え、交番に戻る道すがらのことだ。

「轟木理智巡査ですね。少しお話いいですか」

 若い女だった。二十六、七くらいで髪を明るい茶色に染めている。なぜ名前を知られているかは、女が差し出した名刺ですぐに分かった。

「月刊明鏡の加藤と申します。以前うちの烏丸がお世話になったと思いますが……」

「ああ、その節はどうも」

 二週間前にもわたしは取材を受けていた。月刊情報誌の中の、町のちょっとした事件を取り上げるという退屈な連載記事だった。

 こういった話が飛び込んでくることはたまにあった。〈夫婦惨殺事件〉以降、わたしを正義の味方と吹聴したがる者、逆に陥れたがる者、義務感から訪ねてくる者、動機は様々だった。どのように応じても角が立つことは目に見えていたので今まで断りつづけていたが、烏丸という記者は珍しくそれ以外の業務上の話を聞きたがったので応じた。目の前の加藤はその同僚なのだろう。

 わたしは優しい声を装って聞く。

「どうかされましたか。もし記事の掲載を取りやめるというお話なら、お好きにしていただいて構いませんが……」

「いえ、むしろその逆です。掲載記事にいくつか変更がありまして、改めていくつかお聞きしたいことがあったんです。轟木さんのいらっしゃる場所は茶山さやまさんから伺いました」

 茶山とは交番長のことだ。わたしが取材を受けたことは彼も知っていた。

「ご迷惑かと思いますが、少しお時間いただけませんか」

 わたしは意気込む加藤に首をかしげた。

「雑務をルポルタージュ形式で纏めると聞いていたんですが……。あいにく、これ以上ネタの持ち合わせはありませんよ」

「実はいろいろと社の方でも方針が変わってしまって。それも併せてお話ししたいので、もしよろしければどこか入りませんか」

 加藤は下手くそな笑顔を見せた。取材にあまり向いていないタイプだと思った。

「せっかくですが遠慮しておきます。まだ業務中ですから。長引くようなら失礼させていただきますよ」

 わたしは背を向けた。加藤は慌てた足取りで回り込んできて、

「すみません。わたしったら気が利かず。本当、すぐ終わりますので……」

 泣きそうな顔で何度も頭を下げた。烏丸から聞いていた雑誌の発売日は二十五日だ。校了日はその十日前くらいだろう。書き上げた記事にも手直しがいるはずだから、彼女の締め切りはもう一週間もないはずだ。

 少しからかいが過ぎただろうか。わたしは彼女に頭を上げさせ、五分を条件に応じることにした。

「ありがとうございます!」

 加藤はぱっと表情を華やがせた。あまりにも素直だ。記者よりも一般職の方が向いていいるのではないかと思った。

「でもお聞きしたいのは一つだけなんです。現在巷を騒がせている〈ハーメルンの笛吹き男〉事件の、世間への影響をどのように考えていらっしゃいますか。特に本堂静さんの件と併せてお聞かせいただければ」

 言葉に詰まった。ここで返答を間違えればわたしは容疑者への一歩を踏み出すことになる。思いも寄らない落とし穴だ。まさか犯人が自分の事件の取材をされるなんて! 立場を盾に言い逃れはできるかもしれない。しかしそこまで過敏になるような話題ではないのだ。世間話よりは重いが、事件取材にしては柔らかい。

 それに烏丸の取材で、わたしは過去のいくつかの事件について意見を述べてしまっている。〈ハーメルンの笛吹き男〉にだけ口を閉ざすのも不自然だ。

 沈黙が続く。だんだんと加藤の視線が怪訝なものへ変わっていく。わたしは咄嗟にあることを思い出し、精査することなく口にした。

「三件目が起きた直後は」

 加藤がペンを構える。

「マスコミが〈ハーメルンの笛吹き男〉と命名して大々的に報じたことで、事件への恐怖が高まっていました。地域の小中学校は集団下校の実施を義務づけられ、地域住民の有志によって防犯隊が結成され、もちろん警察もパトロールの強化と巡回訪問をおこなうようになりました」

「現時点でも集団下校は続けられているようですね」

 わたしは大袈裟に頷いて見せる。

「結構なことだと思います。危機感は持ちすぎても足りないくらいですから。特に有事の際には様々な場面で注意を払うべきでしょう。ですが最近では危機感がだんだんと薄れてきているように感じます」

 自分の声に白々しいものを感じた。

「……お伝えしたいことですが、まず地域の方にはもっと危機感を持っていただきたいと思います。四件目が起こって以降も子どもを一人で遊ばせている親御さんは多いです。何かあってからでは手遅れです。もっと警戒してください。そして――」

 効果を狙って言葉を切った。

「――他者を思いやる心も忘れないでほしいです。犯人以外の誰かを責めてもむなしくなるだけです。悪いのはすべて犯人です。本堂静さんをバッシングしても事件が解決するわけではありません。われわれ警察一同、事件解決に努めて参りますのでご協力をお願いします」

「本当にその通りですね。お忙しいなか、貴重なお話をありがとうございました。烏丸からお伝えしたかもしれませんが、雑誌の発売日は」

「二十五日ですね」

「ええ。よろしければ書店で確認してみてください。献本を差し上げることもできますが、いかがですか」

「いえ結構です。ではわたしはこれで」

 加藤に背を向けた。が、すぐに呼び止められた。

「轟木さん、最後にいいですか。これは全く興味本位での質問なのですが……」

「なんでしょう」

 振り返ると、加藤は思いのほか近くにいた。

「もちろん記事にはいたしませんし、答えられないのならそれでも構いません。ただ少し気になったことがありまして」

 声をひそめるように、

「……先ほど四件目以降にも子どもを遊ばせている親がいるという話でしたが、それで何か問題が起こった事例はあるのですか」

「なぜそのようなことを?」

「本当にただの興味なんです」

 言葉通り、メモ帳を構えてはいなかった。わたしは逡巡して、

「事例はある、とだけお答えしておきます」

 そう言って今度こそ立ち去ろうとした。だが加藤は粘った。

「どのような事例でしょう。殺人、ではなさそうですね。失踪ですか」

「お答えできません」

「そうですか。やはりそれも〈ハーメルンの笛吹き男〉の仕業でしょうか」

 無視して歩き出す。加藤も後ろからついてくる。

「轟木さんとしてはどのようにお考えですか。やはり〈ハーメルンの笛吹き男〉の可能性は高いでしょうか」

「一個人の見解は捜査の妨げになるだけですよ」

「記事にはしませんから」

「どちらとも言えません」

「気を悪くしたならすみません。でもお答えいただけませんか。轟木さんの不利益になるようなことにはしません」

 わたしは立ち止まった。ため息が漏れる。

「なぜそこまでわたしの意見を気にするのですか。現場に出たこともない一巡査ですよ」

「ご謙遜を。〈夫婦惨殺事件〉を解決したじゃありませんか。ひどい事件でしたのに、なんて言っても被害者が……」

 眉間に皺が寄るのを感じた。なおも食い下がろうとしていた加藤は声を途切れさせた。

「申し訳ありません。これ以上は過ぎた発言ですね」

「いや……」

 加藤は強いて笑い、

「そろそろ失礼しますね。本日はありがとうございました。また改めてお礼をさせていただきます」

 足早に去って行った。わたしはその背中からすぐ視線を外し、交番へ戻った。

「遅かったな」

 すぐ交番長に声をかけられた。

「なかなか戻ってこないから心配していた」

 誰のせいでとは思ったがおくびにも出さない。感情を隠す術を学べたのは警察官になって良かったことの一つだ。

「記者に絡まれましてね。児童連続殺人事件についての意見が聞きたいとかで」

 警察では〈ハーメルンの笛吹き男〉の呼称は使わない。幹部の失言によって損なわれた威厳をこれ以上失わないように必死なのだ。

 交番長は目を細めた。

「それで、お前はなんと答えたんだ」

「当たり障りなく。守秘義務を侵すようなことは答えていません」

「そうか、ならいい」

 毅然とした態度でわたしから鍵を受け取った。

「そろそろ交代の時間だ。明日は非番だろう。今日は帰ったらすぐに休め」

 よほどひどい顔をしているのだろうか。交番長がそのようなことを言うのは珍しい。あるいはポイント稼ぎかもしれない。きっとそうだろう。

 わたしは彼のしがない出世欲を軽蔑しながらも、やはり態度には出さなかった。

「お気遣いありがとうございます」

 とデスクに戻る。交番長のとがった視線の奥で、硬質な瞳が光っている。何かを訴えるようだった。それが何かわたしには分からない。作り笑いを返すと、彼は悲しそうな顔をした。

 それがなぜか、わたしには分からない。

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