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四人目の犠牲者は三歳の女児だった。十月十四日のことだ。被害者が子どもであること、性的暴行の痕跡がないこと、遺体に移動させられた形跡があること、過度に痛めつけられた様子がないこと、前回からちょうど一ヶ月の猶予があることから、七月以降に起きた三件の殺人事件と同一犯であると警察が正式発表した。
認めたといった方が正しい。マスコミ各社は三件目が起きた時点で三つの事件が同一犯である可能性を指摘し〈ハーメルンの笛吹き男〉という符牒を既に使用していたのだ。
警察はどれだけ追及されようと「あり得ない話ではない」「現時点では確かなことは言えない」と曖昧な態度を取り続けたが、四件目の記者会見に列した警察官幹部の一人が誤って〈ハーメルンの笛吹き男〉と犯人を呼称してしまったことで世間の反応は決まった。
発表から一週間程度は警察を責める記事が各メディアに横溢した。今回の被害者――
だが十月の末になると警察への批判はなりを潜め、取って代わって被害者の母親である本堂
事件当日、静が娘をひとり公園で遊ばせたまま、マンションで眠りこけていたことが明るみに出たのだ。事件が発覚したのも、九時ごろ帰宅した憲久がいずみの不在に気づいたからだった。すぐ警察へ連絡され、捜索から数時間後、遊ばせていたという公園から五百メートルほど離れた高架下で遺体となって発見された。死亡推定時刻は同日の午後六時ごろ、発見したのは実の父親である本堂憲久だった。
バッシングの火勢は、静が捜索に加わらなかったと報道されたことで激しさを増した。一部では誘拐の可能性を視野に入れ、犯人からの電話を待っていたとも報道されたが、世間はそれをよしとしなかった。ある記事は憲久が複数の女性と浮気していた過去を赤裸々につづり、ある雑誌はいずみと母親に血のつながりがないことを暴露し、ある番組のコメンテーターは静を「母親失格」だと罵った。
十一月一日に開かれた会見で静は涙ながらに謝罪をし、自分が事件当日に体調不良だったことを訴えた。また記事に書かれていることの大半が真実であることも認め、その上で自分は娘を愛していたことを強く繰り返した。
「血のつながりがなくとも、親子の絆は強固であったと信じています。私はいずみを愛し、いずみも私を愛してくれていました。それだけは絶対です。夫の浮気の件に関しましては、当人どうしの話し合いですでに解決したことです。今さら取り沙汰して騒ぎ立てるようなことはおやめください。どうか、いずみの安らかな眠りのためにも、そっとしておいていただけませんか。お願いします」
この言葉に胸を打たれた人間も多かったが、本堂静を擁護する声をルサンチマンのシュプレヒコールが上回っていた。その後も根気強く会見を繰り返しているが、十一月五日現在にいたるまで、各メディアの「本堂静をバッシングする」という方向性は変わっていなかった。
本堂静の会見翌日から、私が所属する編集部も決断を迫られていた。
月刊明鏡という地方情報誌を刊行している小さな会社だ。地元のちょっとしたニュースを紹介する連載記事「はっけんウォーカー」や、学生記者の担当する学習コーナー「物知り学」が人気な、平穏だけが取り柄の月刊誌だ。本来なら刑事事件を取り上げることはあまりない。平穏な誌面を好む、平穏な読者にとってゴシップなど嫌悪の対象でしかないのだ。実際、過去に何度か取り上げたこともあったが、反応は良くなかった。
だがここまで大きな話題になっている事件に触れないのは不自然であり、何よりジャーナリズムの精神に反する。また月刊明鏡を全国展開しようとする動きが、細々とではあるものの数年前から取られており、この事件を取り上げないことはすなわち、その悲願を裏切ることでもあった。
月刊誌にとって情報の速度はあまり重要ではない。重要なのは密度と精度だ。それでも方針は早いうちに決めておく必要があった。この事件を取り上げるか、否か。そして取り上げるなら、静を責めるか否か。暇を見つけては会議を繰り返し、そのたびに行き詰まり、なかなか答えは出なかった。社員のほとんどが本堂静に同情的であり、それ以上に読者の目を気にしていたのだ。進歩か停滞か。悪変か平穏か。
決まったのは昨日、十一月四日のことだった。有給を取っていたはずの編集長の
「本堂静の擁護記事を書くぞ。今月号に間に合わせる。デッドラインは十日。出来るやつ、いるか」
オフィスはざわめきだった。松添の独断も性急な締め切りも、異常事態だった。月刊明鏡の校了日は十五日、発売は二十五日だ。普通ならこの時期に決まった記事は来月に回される。
皆の視線に気がついた松添はばつが悪そうに笑った。
「実はさっき本堂憲久から擁護記事を書くようにせがまれてな。彼とはちょっとした知り合いで、むかし俺が政治記者をしてたとき、色々世話になってたんだ。今月号に間に合うようにって向こうの頼みだ」
ざわめきが大きくなった。中小の雑誌社にそこまで頼むとは、本堂憲久はよほど追い詰められているらしい。
「それで、誰か書いてくれるやついないか」
当然誰も反応しなかった。見越していたのか、松添は大して間を置かずに続けた。
「じゃあこっちで勝手に決めるからな。
指が私に向けられた。いくつかの同情的な視線も一緒に向く。
「私は他の記事がありますし、締め切り的に難しいかと」
一応そう言ってみるが無駄なことは知っていた。
私の受け持ちは「はっけんウォーカー」だ。コンセプトは地元の事件を紹介すること。今月号に掲載予定だった〈町のお巡りさん〉や〈町の本屋さんの危機〉をすべて本堂静の擁護記事にすればいくらでも間に合う。
それどころか松添は条件を付け足した。
「いつもは見開き二ページだったな。今回はその倍のページを用意する。うち一ページは写真。他にも数枚撮ってきてくれ。必要なら補助もつけよう。二、三人持って行ってもいい。頼めるか」
周囲から驚きの声が上がるくらいには破格の条件だった。松添の瞳は懇願するように潤んでいた。こちらもよほど追い詰められているようだ。
私は諦めて頷いた。
「でも補助人員は選ばせてください。一人でいいので。誰でもいいですか」
「もちろん。誰にする」
「
途端に安心しきった顔が固まった。
「いや、でもそれは……」
「誰でもいいんですよね?」
松添は困り果てていた。
「さすがに高校生はなしだろう」
「単なる高校生じゃなくて、学生記者ですよ。それに美鈴ちゃんはそこらの記者よりよっぽどいい文章が書けます」
「加藤なんかはどうだ。お前と年も近いし、経験値もある」
「加藤は文体が柔らかすぎます。それに彼女に事件取材は向いてないでしょう。その点、美鈴ちゃんには実績がありますから。経験値という点でも問題はありません」
美鈴は半年前、小学校の教師が恋人を殺した事件の記事を担当した。浮気がきっかけのありふれたものだったが、美鈴は遺族の声を綴ったあと、加害者の教師が学校では人格者として通っていたこと、学校を辞めると知った子どもたちがひどく悲しんだことも併せて掲載した。
犯人を擁護しているとも取れる記事に、読者からは苦情の連絡が相次いだが、私はそれ以来、彼女に一目置いていた。
「美鈴ちゃんの成長にもつながると思います。編集長だっていつも言ってるじゃないですか。若いころの苦労は買ってでもしろって」
「でも美鈴にも担当記事はあるし……」
「それこそ加藤に任せられるじゃないですか」
「でもあれは高校生だから意味があるわけで……」
美鈴は「物知り学」を受け持っていた。
「じゃあ今月は休載にして、代わりに私が書く予定だったものを載せたらいいですよ。もし加藤が他にやりたいことがあるならそれを優先してもいいですし。どうかな二人とも」
首を巡らせ、加藤と美鈴を見る。後輩の加藤は事件取材から外されたことにむしろ喜んでいる様子で、美鈴はいつも通りの無表情で頷いた。
「二人はいいそうです」
「お前、ほんと。いつか覚えとけよ……」
松添は頭を抱えていたが、すぐに諦めたようだ。彼は私の性格をよく知っている。
「分かった。ただし絶対に単独行動はするなよ。それから取材が終わったらすぐ俺に連絡を入れること、直帰するなら必ず美鈴を家まで送り届けること。いいな」
「分かりました」
「よし」
松添は満足げに頷き、私と美鈴を見た。
「本堂静を擁護するという一点さえ守っていれば記事の書き方は任せる。繰り返すがデッドラインは十日。本堂憲久の頼みだ、くれぐれも遅れてくれるなよ」
「分かりました。美鈴ちゃん、いいね」
美鈴は素早くメモを取り、こっくりと頷いた。その目はどこか濁っていて、それなのにあらゆる真実を見通そうとする澄んだ力強さがあった。
ジャーナリストの目だ、と私は思った。
今日は昨日と同じく町の反応取材に終始した。単独行動を禁じられてはいたが、歩きながらの取材ではどうしても分かれてしまう。目の届く範囲にいればいいと、すぐ一緒に動くことを諦めた。
興味がないという答えは一件もなかった。普段なら取材したうちの一割程度は必ずそうした答えを口にするものだが、やはり世間の関心は高いようだ。「母親失格」の烙印を押す高齢女性もいれば、犯人への怒りをあらわに静に同情する中年男性もいた。母親の不注意で死んでしまった子どもを哀れがる若い男性もいれば、静に冷たい世間に冷たいコメントを残す女子大生もいた。
取材はいかに主観を交えず、客観的に話を聞けるかが重要だ。取材対象の発言に共感や反感を抱いたりしてはいけない。恣意的に解釈したり、作為的に要約するのはもっての外だ。そういうのはすべて終えたあと、一人きりの部屋で勝手にやっていればいい。
加藤が事件取材に向かないのはそういった理由からだった。彼女は情にもろく、取材対象が悲しめば一緒になって目を赤くし、怒れば一緒になって顔を赤くしてしまう。さらに一度気になったことにいつまでもこだわり続ける癖があり、それも記者にとっては大切な素質だが、相手を怒らせてしまっては元も子もない。本人もそれが悪いことだと分かっているようで、次第に事件取材を遠ざけるようになった。
その点、やはり美鈴は向いていた。あの氷を思わせる瞳をときおり細めながら、年功の記者のように如才なく取材を進めていく。取材対象がどれだけ赤くなろうが、彼女は宿命づけられたようにペンを走らせていた。
終業後、どのような話が聞けたか帰りの車中で訊いてみた。助手席に座る美鈴は、取材のときと同じ目をメモ帳に向けながら言った。
「大人には烏丸さんが取材をするだろうと思い、私は学生を中心に取材しました。擁護派は全体の四割くらいで、主に高校生に多かったです。悪いのは犯人であって、母親も被害者であるという意見でした。大学生のほとんどは本堂静にあまり良い印象を抱いていないようで、水商売をしていた過去やいずみちゃんと血のつながりがないことを引き合いに出す人が多かったです。『三歳の子どもを公園に一人置いておくなんておかしい』『本当は子どもを殺したかったのではないか』。そういった意見もあります」
私は試すような気持ちで聞いてみた。
「美鈴ちゃんはどう思った? 本堂静は子どもを疎んでいたと思う?」
美鈴はメモ帳から顔を上げ、言い淀むことなく答えた。
「町の人に意見に取り合う必要はないと思います。本堂静が子どもを愛していたと思われるエピソードだけひたすら書いておけば、本堂憲久を満足させられるでしょう。本堂静は慈善団体の代表でしたし、そこを推していけば擁護記事としては申し分ないと思います」
私は面食らった。想像以上の答えだった。
「いいね。美鈴ちゃんは記者に向いているよ」
だが美鈴はメモ帳をしまうと、眉間に皺を寄せて目をつむってしまった。まつげが濡れているように見えた。
「褒め言葉だよ。その年で、ちゃんと全体を見ながら物事を考えられるのはなかなか出来ることじゃない。美点だわ」
慌てて言うと、美鈴は目を開き、しかし私の方を見ずに言った。
「ごめんなさい。質問とズレた答えだって分かっています。でも、今の時点で自分の意見を持つのは嫌なんです。どんな意見を持っても不正解な気がして……」
美鈴はそれきり黙ってしまった。彼女が感性的な悩みをもらすとは思わなかった。悲しげな目を車窓の外の景色に向け、しかしその目はさらに外にある何かを見つめているようだった。
もうすぐ美鈴の家に到着する。私は道の端で車を止めた。サイドブレーキをかけ、体ごと助手席に向ける。
「美鈴ちゃんは今二年生だよね。なんでこのバイトを続けているの? もっと楽なバイトも、たのしいバイトもあるでしょう」
美鈴は私を見た。冷たい目ではなくなっていた。年相応に繊細な視線を迷わせ、適切な言葉を迷わせ、それから言った。
「ある人に、世の中には公にしない方がいいこともあるって言われたことがありました。そのときはそれを間違いだと思っていました。悪いことはすべて周知され、裁かれなくてはならないと思っていたんです。でもその結果すごく嫌なことが起こって、それで分からなくなったんです。何が正しくて、間違いをどう正せばいいのか。その指標が」
「だから記者を?」
美鈴は控えめに頷いた。
「そう……」
私は暗澹たる気持ちになった。彼女はまだ若い。そしてもっと若いとき、世の中の汚泥に触れてしまったのだ。
「ねえ、美鈴ちゃん。私はあなたの姿勢が利口だとは思えない。もちろん、世の中に対して誠実であるのは大切なことよ。正しさを知ろうとするのも尊いことだわ。でも、美鈴ちゃんのは過剰に見える。自分の手の届かないところまで手を伸ばして、傷つきにいっているみたい」
美鈴は俯いた。私はその肩に手を置いた。震えているのが分かった。
「何が正解か、私はあなたに教えてあげることはできない。それは自分で気づかなくてはならないことだからよ。私に言われて決めることではないの」
そこで言葉を切り、
「でも、一緒に悩むことはできる。しばらくの間あなたの指標を預けてくれないかしら」
「預ける、ですか?」
「そう。乱暴な言い方になるけど、あなたの正解を私が決めるの。少なくともこの記事を書き終えるまで、あなたは何が正解か迷わなくてもいい」
強引だが、他に妙案もなかった。美鈴は顔を上げ、探るような視線で私を見つめた。
「美鈴ちゃんが苦しそうなのは、私も見ていてつらいのよ」
私は彼女が目を見やすいように、少しだけ前傾姿勢をとった。
やがて美鈴が言った。
「分かりました。烏丸さんを信用します」
「うん。ありがとう」
私はシートベルトを締め、車を発進させた。
「もし私が正しいと思った行動を、美鈴ちゃんが間違っていると思ったらすぐに言ってね。きっとそれが答えだから」
美鈴は神妙な顔で頷いた。改めて見ても、あどけない面立ちだ。そのなかで悲しげな瞳はひどく浮いて見えた。ハンドルがギシリと音を立てる。彼女を変えてしまった事件に場違いな怒りを覚えている自分に気がついた。
「ここで停めてください」
走り始めて数分も行かないうちに、美鈴が突然そう声を上げた。言われたとおりにするが、まだ美鈴の家ではない。
「どうしたの。もう少し先のマンションでしょ?」
「そうなんですけど……」
美鈴の視線の先には売家があった。こぢんまりとした一軒家だ。広めの庭がついているが、雑草で荒れ放題だった。その向かいの一軒家も売家になっており、こちらの庭も荒れていた。まるで双子のような様相だ。
しばらく固まっていた美鈴は、
「烏丸さん、別の用事ができました。やっぱり友人の家に送ってもらえませんか」
と私を見た。指定されたのはここから少し離れたアパートだった。このあと特に用事もないので承諾した。
「でももう十八時も過ぎるわよ。友達の家なら明日でもいいんじゃないの。それに帰りの足は? 用事が終わるまで待っていようか」
しかし美鈴は首を振った。
「お気持ちだけで充分です、帰りは電車を使いますので」
そう言ってまた一軒家に視線を戻した。崖からの飛び降りを決意したようないやに思い詰めた顔だった。
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