第二話 贖罪 〈誰でも構いません。どうか私に救いの手を差し伸べて下さい ――城平京『名探偵に薔薇を』〉

 夕方の公園に降り注ぐ初秋の日差しは哀愁に満ちていた。雲をついばむように羽ばたくスズメも、それを背後から狙う気高いカラスも、この世の真理を見通すように宙をにらむネコも、その足下で労働を続けるアリも、それに運ばれていく死に絶えたセミも、そこら中に生い茂る雑草でさえ、烈日の日々に思いを馳せ、落ち葉すら切り裂くような鋭い空気に身を縮み込ませている。

 そんななかでも子どもだけは平常と変わらなかった。まるで牧場に放たれた羊のように無軌道に、しかし一定の秩序を持って動き回る姿は寂しさとは無縁で、彼らの周囲だけはいまだ賑やかな夏の陽光に包まれているようだった。

 しかしわたしの目には彼らの姿こそ哀れに映った。秩序通りに馴れ合いながら、互いを見張り合う群羊。その秩序を外れた者は砂場やブランコを避暑地として、あるいは核シェルターとして、ひ弱な孤独と懇ろがる。はぐれものとそうでないものの間には透明の憧憬と、永遠の軽蔑が、茫洋たる大河のように流れていた。

 その少し離れたところにもう一つの群れがあった。額を寄せ合って井戸端会議に専心している、羊の保護者たちだ。とはいっても彼女らは羊飼いではない。野生を忘れ、孤独と離れ、一つの秩序に寄り集まる、ぶくぶく肥った老羊だ。彼女たちの間に流れるどぶ色のせせらぎは、かすかな音を立てながら各々を線引きしていた。

 この公園に羊飼いの代わりを成すものは誰一人いなかった。

 ただ一人、わたしを除いて。

 スマートフォンに目を落とす。各ニュースサイトは最近巷を騒がせている、ある事件の報道で持ちきりだった。

〈未だ行方が知れぬ「ハーメルンの笛吹き男」。怯える保護者らの声、集団下校が開始して一ヶ月。気の緩みも〉

 そう題されて、これまでの事件の概要が図入りでまとめられていた。この事件をどこまで深掘りできるか、それだけに命を賭けているような緻密さにも関わらず目新しい情報はまるで見つからなかった。

 遅すぎる。どこもかしこも。あまりにも。

 わたしは一人ほくそ笑んだ。〈ハーメルンの笛吹き男〉などと呼ばれる十年あまりも前から害意に身を焦がし生きてきたのだ。わたしの体内には今や、血液の代わりに殺意が流れ、臓器の代わりに悪意が詰め込まれている。今さら騒ぎ立てたところで手遅れだ。きっと証拠も死体も出てこないだろう。なにせわたしですらどこで殺したのかもう覚えていないのだから。

 一人目は七月に殺した。二人目は八月に殺した。三人目は九月に殺した。

 だが彼らの顔も声も性別すら思い出せないのだ。ただ彼らが太陽をかすませるほど溌剌としていたことは知っていた。そして頭の中にいつも流れる、母の好んだ題名も知らない洋楽。わたしはそれを聞いている。それだけを聞いて、人を殺している。

 公園に五時のチャイムが流れ始めた。『蛍の光』だ。老羊が子羊を呼び戻し、帰路についていく。静謐な音が鳴り止むまでにほとんどの親子が公園を出て行った。

 残っているのは友達と二人で遊んでいる少女、砂場で孤独を慈しむ少年、滑り台を逆から上ろうと試みている一人の男の子だった。わたしは狙いをつけて立ち上がった。

「遊具にやんちゃしたらダメだよ」

 滑り台の中腹あたりまで上った男の子を後ろから抱き上げた。春の日差しのような温もりに満ちる体躯は、腐りかけた死体のようなやわらかさを持っていた。少し力を加えればバラバラに砕けてしまいそうなあばら骨も頼りなげで、彼が息をするたび伸縮する皮膚は神秘性に満ちていた。

「落ちたら怪我もしちゃうから、危ないよ」

 わたしは彼を地面に下ろし、視線を合わせた。優しい声を作るのは得意だった。男の子はまるで物怖じした様子もなく、欠けた歯を見せびらかすように悪戯っぽく笑うと、

「やだ、いーちゃんまだ遊ぶの。これお山なの」

 ミニソーセージのような指を滑り台に向けた。舌っ足らずで語彙も不十分なところを見ると未就学児なのだろう。保護者はいないのだろうか。

 わたしがそれとなく周囲をうかがっている間に、いーちゃんはまた滑り台を上り始めた。わたしはまた彼を抱き上げる。目を盗んでまた上り始める。また抱き上げる。上り始める。抱き上げる……。

 いーちゃんはそういう遊びだと思っているのか、飽きもせず繰り返した。わたしは根気強く付き合ってやった。元気のない子どもはいない。少なくともわたしは未だ見たことがなかった。

 頭の中のカウントが十四になったところで、ようやくいーちゃんは上るのをやめ、その場にしゃがみ込んで今度は砂をいじり始めた。何をしているのかと思えば、アリを潰していた。

「ねえ、お母さんやお父さんはどうしたの?」

 彼はわたしの方を見ず、公園をのぞき込むように建っている高層マンションを指さした。どうやら行きすぎた放任主義の家庭の子らしい。

 わたしは彼の頭を撫でた。

「そう。僕一人じゃ寂しいね」

 いーちゃんは地面を見たまま短い髪をふるふると揺らした。

「いーちゃんはいーちゃんだよ」

 理解するまでに時間がかかった。どうやら自分が女の子であると言いたかったらしい。確かによくよく見ればかわいらしい顔立ちをしている。なおさらこの子の育つ家庭を憂えた。足下では何匹かのアリが糸くずのようになって悶えていた。

「ねえ、いいところ連れて行ってあげようか」

 わたしが手を差し出すといーちゃんは抵抗もなく頷き、犬が自分の小便にするようにアリに砂を蹴りかけた。

 手を握ってやるとやわらかく握り返された。信頼されたものだ。

「じゃあ行こうか。きっと気に入ってもらえるよ」

 公園を出るとき壊れた笛のような鳴き声がかすかに聞こえた。見ると、カラスがスズメを捕らえたところだった。


 いーちゃんはあまり話さなくなった。遊び疲れたのか歩くペースも牛歩で、公園から少しもいかないうちに、炎色で焼け爛れた空は濃紺の海に洗われた。貝殻のような冴えた月がその中をぷかぷかとたゆたい、あぶくのような星も浮かんでいた。

 さらに歩き続け、さびれた公園にいーちゃんを導くと、ある質問をした。

「君は命をどう考えているのかな」

 降って湧いたような質問なのに、いつも口ずさむ曲のようななめらかさで舌の上を転がった。いーちゃんは理解出来なかったようで、わたしの目をじっと見つめた。星の輝きを思わせる清純な瞳だった。

「君はどうして遊具にやんちゃしてたの?」

 いーちゃんはふいと目をそらした。彼女の顔を強引にこちらへ向かせた。

「アリも潰してたよね。いつもやってるのかな」

 鼓膜の奥でいつもの音楽が流れ始めた。題名は知らない。ただわたしはこの曲を口ずさむことができた。

「君は大きくなったら人をいじめる?」

 だんだんと夜が濃くなっていく。すすり泣きの風が枝葉を大きく揺らした。

「君みたいな子がいると困るんだよ」

 わたしは彼女の口を塞いで頭を抱いた。その段になってもこれを遊びだと思っていたようだ。身をよじり、喉の奥で笑っている。鼓膜の奥にいた音は今や脳に入り込み痛みに変わっていた。包みこむような旋律が脳をガリガリ削り、撫でるような声が頭をガンガン揺らしている。だんだん肥大化していくガリガリとガンガンは交互にやってきてわたしの脳をいじめた。

 一瞬、強烈な光が目の中で散った。

 音楽がどんどん遠のいていく。痛みは音の少し後をついて行った。なぜか急にそれが名残惜しく感じられ、わたしは全身を耳にしてそれを追った。何とか絡め取ろうと意識を集中するがやがて何も聞こえなくなった。

 夜の静寂に耳鳴りがこだましているのに気がつき、目を開けた。

 何をしていたかはすぐに思い出した。

 わたしの足下には首をねじった子どもが倒れていた。光を喪ったうつろな瞳は、夜空の星に輝いている。

 わたしは犬が自分の小便にするように、子どもに砂を蹴りかけた。もうその子の名前が何であったか忘れてしまった。


     *


 名も知らぬ子どもを車に乗せて、わたしはさびれた公園を出た。この近辺で、警察があまりマークしていない、人目のつかないところを思い浮かべて車を走らせる。

 見つかることはないだろう。わたしですらどこに捨てたのか覚えていないのだから。

 一人目は七月に捨てた。二人目は八月に捨てた。三人目は九月に捨てた。

 だがわたしは彼らの顔も性別も思い出せない。ただ彼らが太陽をかすませるほど溌剌としていたことは知っていた。そして頭の中にいつも流れる、母の好んだ題名も知らない洋楽。わたしはそれを聞いている。それだけを口ずさんで……

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