6
インターフォンが鳴らされた。蒼は初めそれを幻聴だと思っていた。ここ数日の寝不足と数ヶ月の不安感とわずかに残った良心の呵責がどろどろに溶け合い、彼女の全身にまとわりつき、あらゆる感覚を鈍重にしていた。三回目が鳴ってようやくそれが現実のことだと気づいた。ぬかるみに嵌まったように重たい足で立ち上がり、インターフォンのカメラで来訪者を確かめた。
美鈴と紅葉だった。蒼はもうすべて知られてしまったことを悟った。鏡に映った幽鬼が思い出され、二人とも殺してしまおうかと一瞬考えたが、階段を下りてくる音にそれもたち消えた。
「ずっとインターフォン鳴ってるよ」
桐江は不審な目で母と玄関ドアを見比べた。蒼はなるべく優しい声を心がけて言った。
「美鈴ちゃんと紅葉おばさんが来てくれたのよ。リビングで待っててくれる? 紅茶も用意してあげて」
かそけき母の声に桐江は意外にも素直に頷いた。不穏な予感を感じ取ったのかもしれない。その目はひきつり、どことなく動作もぎこちなかった。
蒼は五回目のチャイムの音を聞いてからドアを開けた。
「お待たせ。さ、中に入って。紅茶が入ってるわ」
二人は蒼の素直な応対に面食らっていた。美鈴などあからさまに疑わしげな視線をぶつけてきた。
「お邪魔します」
紅葉は美鈴の緊張した肩と固い声に、不安げな顔を向けてきた。蒼はにっこりと微笑んで背を向けた。
リビングに入ると桐江が座って待っていた。カーテンを閉め切っているため電気をつけていないと薄暗い。各席にはカップが置かれている。蒼は桐江の隣に、美鈴と紅葉がその対面に腰を下ろした。
「美鈴、久しぶり。マドレーヌおいしかったよ」
桐江が軽い調子を装い声をかけたが、美鈴に鋭い視線で黙殺され、気まずそうにうつむいた。それきりしばらく沈黙が続いた。
口火を切ったのは蒼だった。美鈴がカップに指を引っかけたまま迷うようにしていたのが目について、
「それ飲んでも大丈夫よ。変なものは入ってないから」
蒼の声に悪意がないことに気づいたのか、美鈴は厳しい顔を一転させ、気まずそうに目礼した。
「すみません、いただきます」
つられるように紅葉もカップに口をつけた。蒼と桐江もそれに倣った。
「それで、今日はどういった用件かしら」
蒼は再び沈黙が流れるのを嫌って、自分から訊いた。
「楽しくお茶会ってわけではないでしょう?」
「ええ。ですがその前に、私は蒼さんに謝らなくてはいけません」
美鈴は深々と頭を下げ、
「今回、事件を解決するにあたって、紅葉さんに桐江ちゃんと柏木先生の関係を伝えてしまいました。桐江ちゃんもごめんね」
緊張の糸が再び張り詰めた。空気が無数の針となって場を支配していた。桐江に何かされるのではないかと蒼は警戒したが、当の紅葉は傷ついたような、それでいて諦観の滲んだ顔つきで姪を見つめているだけだった。淀んだ瞳からはどんな考えも読めなかった。
二人の視線が同時にそらされたのを見て、美鈴は鞄から遠慮がちに真空パックに入れられた手紙を取り出した。
「それは?」
「タイムカプセルに入っていたの。高校生のとき埋めたの、覚えているでしょう?」
紅葉が答えた。
「もちろん覚えてるわ」
「これは母さんが埋めたものよ。読んでもらえる?」
差し出された手紙にのたうつ文字は薄墨と小筆を使って書かれたように頼りなかった。
冠省
このような形でしかあなたを救えないこと、許してください。
しかしあなたを守ると思えばこそ、私は鬼になれたのです。どうしてあなたを裏切ることがありましょうか。
将司は最低な人間でした。彼はいくつもの悪行を隠していました。結婚は遺産が目当てであること、余所で何人も女を囲っていること、そして秘密裏にあなたに多額の生命保険をかけていること。他にもいくつも、目を覆いたくなるような陰惨なことを彼はおこなっていました。そうして私は密かに彼の殺害を決めました。
あなたの思い込みを利用するような形を取ってしまうこと、それだけ申し訳なく思います。しかし結婚してからの幸せそうなあなたを見ていると、水を差すのがどうしてもためらわれました。将司がいかに最低な人間であろうと、あなたにとっては一度愛した男、それを汚すのがどれだけ残酷か。だから差し違えてでも殺すことに決めました。
この手紙が読まれることなく、あなたが何も知らないまま幸福に生きていくことをただ願っています。
不一
母・松恵
紫津子様
顔も見たことのない祖母の筆だと何度か読み返してからようやく理解した。
「どうして突然こんなものを……」
蒼はこの手紙に覚えがあった。高校生のころだ。母が手紙を握りしめながら涙ぐんでいたのを一度だけ見たことがある。あれはこの手紙だったのではないか。
紅葉はそのときの母のように目尻に涙を浮かばせていた。
「蒼、ごめんなさい。わたしが、わたしが母さんを……」
その先は聞かなくても理解できた。すべて想像通りだったのだ。紅葉は母と浩治の関係を疑い、母を殺した。勘違いに気づかないまま母の家出を偽装し、警察にも連絡を取ることで自らを被害者に仕立て上げた。自由意志による家出を警察が取り合わないことは知られた話だ。浩治の失踪を警察に言わなかったのもそのやましさからだろう。
蒼は美鈴へ視線を移した。母の失踪に隠された嘘をこのうら若き探偵はたやすく見破ったのだ。タイムカプセルが掘り返されたということは、当然あの死体も見つけたのだろう。やはり利口な子だ。
蒼の視線に気づいた美鈴は、今度はビニール袋に入った財布を取り出した。
「これは、タイムカプセルと一緒に掘り出したものです。そしてこれと一緒にバラバラに小分けされた死体も発見しました」
隣の桐江が死体という言葉に息をのんだ。財布を見つめる目を大きくして、
「その財布って……」
「そう、柏木先生のだよ。免許証も保険証も、名刺まで入ってる。間違いない」
「そんな」
桐江の瞳からじわじわと涙が溢れ出してきた。
「誰が先生を……」
涙でふやけた瞳はしかし烈火に燃えていた。やがて彼女なりの一つの結論にたどり着いたようだ。怒りでつり上がった目を蒼の持った手紙に向けて、
「おばあちゃんがやったんだ。そうでしょ? 紅葉おばさんはだからおばあちゃんを――」
「桐江ちゃん、落ち着いて。おばあちゃんが犯人のはずないわ」
紅葉が身を乗り出すようにして桐江をなだめた。
「だってわたしが母さんを殺したの、浩治さんが職場に出かけていった直後だったから。母さんに殺せたはずないの。ね、別の誰かがやったのよ」
「誰かって誰よ! 誰がバラバラなんてそんな……そんな、むごいことを」
「バラバラにしたのはそうしたい理由があったから。そうですよね」
ひどく冷静な声で、美鈴が言った。その視線は蒼に向けられている。桐江は表情を引きつらせながらも美鈴を睨んだ。
「美鈴、撤回して。お母さんがそんなことするはずない。お母さんはあたしと柏木先生の関係を知っていたんだよ?」
「桐江、いいのよ」
蒼は興奮する桐江を落ち着かせながら、
「どうしてわたしが犯人だと思ったのかな」
と、とぼけた。自分の罪を自分の口から吐き出すことほど酸鼻極まることもない。美鈴は損な役回りを押しつけられたことに一瞬だけ眉をひそめ、
「蒼さんを犯人だと言ったのは当てずっぽうじゃありません」
そう言ってから、桐江に水を向けた。
「もし桐江ちゃんが犯人だとしたら、死体をどうする?」
「そんなの、わかんないよ。あたし犯人じゃないし」
桐江はいじけたように言った。同級生から子ども扱いされるのが面白くないのだろう。
美鈴はめげずに質問を変えた。
「じゃあもし桐江ちゃんが警察だとしたら? 犯人が死体を埋めるとしたらどういう場所だと考える?」
「それは……山とか、林とか?」
「それはなんで?」
「なんでって、そりゃあ人目につかないから……」
「でも死体は紅葉さんの家の庭から発見された。これだったらまだ自分の家に置いておいた方がいいのに、犯人はなぜか人の目につきやすいところに死体を移したんだ」
桐江は黙ったまま美鈴の言葉を待っていた。
「そちらの方が家に置いておくよりも安全だと思ったからだよ。いや、それどころか山や林に埋めるより安全だと考えた」
「だからって、なんでお母さんが犯人になるの? 全くの他人が紅葉おばさんの家に埋めたのかもしれないじゃない」
「それはないよ。あまりにもリスクが大きすぎる。紅葉さんの家の庭に埋めるには最低限、紅葉さんがどの時間帯に庭を見ていないか、庭のどこなら埋めやすいか、そういうことを知っていなくちゃいけない。赤の他人ではあり得ないんだ。その点、この家と紅葉さんの家は瓜二つだから、まさに自分の家のように動き回れただろうね」
桐江は唇をとがらせた。
「それは、そうかもしれないけど。でも……」
「それだけじゃない。重要なのは、なぜ紅葉さんの家が安全なのかだよ。これには今の紅葉さんの状況が関係するんだけど……」
「あ」
桐江は目を大きくした。美鈴は頷いた。
「そう、紅葉さんは実の母親の死体を家に匿っていたんだ。だからたとえ死体が発見されても紅葉さんが進んで警察に通報する可能性は低いと考えられる。そして、それを推測できるの人間は限られている」
美鈴は再び蒼を見た。桐江はぎこちない笑みを浮かべた。
「嘘だよね、お母さん」
だが蒼の表情を見て察したらしい、絶望的な目を見開かせ、「でも、でも」とはげしくかぶりを振った。
「そんな、お母さんが人殺しなんて、そんなこと絶対にない。絶対、あり得ない!」
やがて狂乱はすすり泣きに変わった。しゃくり上げながら母を呼ぶ声は悲痛に響いた。突き上げるようないとおしさが湧いて出て、蒼は娘をそっと抱きしめた。
「ごめんね、桐江。ごめんね。こうするしかなかったの。あなたのためを思ってのことだったのよ」
桐江は母の胸に顔をうずめ、一層声を高くした。蒼は我が子をあやしながら、どうかこのまま終わってくれないだろうかと願った。もうこれ以上娘の傷を増やすことはない。真実を明るみに出すことなく終わってくれないだろうか。
だがそれが無理なことは蒼がよく分かっていた。たとえ目の前の少女が口を閉ざしても、自分が捕まってしまえば全て露見してしまう。そして目の前のうら若い探偵は口を閉ざしてはくれない。
「まだですよ。まだ全容は明らかになっていません。なぜ蒼さんが死体を解体する必要があったのか考える必要がある」
これには紅葉が答えた。
「その方が埋めやすいからでしょう? わたしの家まで持ち運びやすいようにしたかったのもあるかも。目の前とはいえ、さすがに死体を担いでいたら目につくから」
「一見そのように思えます。でも、成人男性を細かく切り刻むのには果てしない労力がかかるものです。それなら切り刻むことなく、自分の家の庭にでも埋めてしまったほうがいくらか安全なはず。この家には桐江ちゃんだけでなくお父さんもいるわけですから。いつ見つかるか分かったものではありません」
「それは、確かに」
「そういえば……お父さんは?」
桐江がふと顔を上げて聞いてきた。美鈴は何か言いかけていたのをやめて、蒼の答えを待った。その目は何かを訴えかけてくるようで、それ以上に苦しそうだった。
「まだ寝てるわよ。そのうち起きてくるんじゃない」
蒼はすげなく答えた。それでも美鈴の目が和らぐことはなかった。美鈴は続けた。
「……それなのに蒼さんは遺体を細かくすることを選びました。つまり遺体を解体するのは遺体を捨てる上で絶対条件だったんです。遺体を裁断することで得られるメリットと言えば、持ち運びとあとは遺体の匿名性くらいのものです。しかしそれも、遺体と一緒に埋められていた財布で台無しです」
そこで考えさせるような間を置いた。しかし実際はそうではなかった。美鈴は耐えるようにきつく目をつぶって、ゆっくりと息を吐きだした。
「ここからは私の想像……いや、妄想の類いです。事実と違うことがあったらその場で訂正をしてください。紅葉さん、柏木先生は何か病気を患っていませんでしたか。たとえば、人の顔を正しく認識できない病気、とか」
紅葉は驚愕の顔をさらした。
「どうして。知っているの?」
「じゃあ、やっぱり……」
「ええ。その通りよ。浩治さんは重度の相貌失認を患っていたわ。後天的なものだそうよ。わたしが知ったのも婚約した後だったの。前職の会社でわたしと同僚の女性を間違えて呼んでいてね」
紅葉がその同僚を殴って会社をやめたことを蒼は知っていたが、今は関係ないと思い何も言わなかった。
「でも、ずっと誰にも秘密にしていたのにどうして……」
「先生はよく人の名前を間違えていました。そして間違えるたびにその場では直すのですが、またすぐ間違えることも珍しくなくて。それでもしかしたら相貌失認……いわゆる失顔症ではないかと思ったんです」
「でも、それが事件と何か関係あるの?」
桐江の質問に美鈴は頷いた。
「あるよ。先生がもし妻の顔さえ見分けられないなら」
美鈴は紅葉を窺った。紅葉は一瞬だけ迷い、首肯した。
「浩治さんの病気はまるでよくならなくて、親しい人でも服装や声音で判断していると言っていたわ」
「そこに蒼さんは目をつけたんですよ。柏木先生の病気を利用した誘拐を思いついたんです。この家は紅葉さんの家と同じ間取りで、調度品も大小にかかわらず揃えてありますよね。そしてお二人は双子ですから、上手くいけば柏木先生に家を誤認させることが出来るかもしれない。そう考えたのではないですか」
紅葉と桐江は驚きのあまり言葉を失っていた。蒼はあえて何も言わず、次の言葉を待った。
「……ですが一つだけ懸念がありました。蒼さんの夫です。桐江ちゃんは部屋に引きこもっているからたとえ柏木先生がいても鉢合わせることはない。でも夫はそうではなかった。だからあなたは夫を殺害し、浩治さんの代わりに埋めたんです。もともと桐江ちゃんの妊娠を反対していたようですから、動機もあったでしょう」
沈黙が降りた。紅葉は目を剥いて息を詰めていた。抱きついていた桐江は怯えた顔でおずおずと体を離した。
そして、美鈴はやはり苦しげに顔を歪めていた。
「間違っているならそう言ってください! こんなの……あんまりです」
蒼は三人を見回し、ゆるく首を振った。
「美鈴ちゃんはえらいね。全部その通りだよ。この部屋カーテン閉めてるから昼なのに薄暗いでしょ? 他の部屋もそうなの。家の中はいくら似せられても、外の景色はやっぱり少し変わっちゃうから。なるべく見せないようにしてるのよ」
桐江は喜びと困惑の中間の顔をした。
「じゃあ柏木先生は今も……」
「ええ。別の部屋で眠ってるわ。薬でね。もうすぐ効き目も切れるからそのうち起きてくると思う」
蒼は紅葉に向き直った。紅葉は体を固くしていた。
「紅葉ごめんね。正直に言うわ。もしこの計画が上手くいっていたら、桐江が子どもを産んだ時点で紅葉の前から消えるつもりだった。もちろん柏木も一緒に。そして二度と関わらないつもりだったの。そのために埋めたのよ。あなたには自分の夫が死んだと思わせておく必要があったから」
「そんな、どうして……」
紅葉ははっきりと傷ついた顔を見せた。蒼はむしろ開き直った気持ちだった。
「あなたは子どもがいないから、分からないかもしれない。柏木に自分の娘を穢されて、そのうえ子どもまで孕まされたと知って、最初は殺してやろうと思った。堕胎のための金を持って訪ねてきたときは本当に包丁を突きつけてやった。でも桐江は彼を愛していた。子どもを産みたいと言った。だったらとことん責任を取らせてやろうと思ったの。柏木が塾に呼びだされて謹慎処分になったでしょ? あの電話、わたしなの。誘拐するためよ。紅葉と同じ服を着て迎えに行ったわ。彼はまんまとわたしを紅葉だと思っていた。そして居酒屋に入って薬で眠らせたらタクシーを使って帰ったわ。間の悪いことに、帰ってきたら夫と鉢合わせちゃって。柏木に責任を取らせる計画を話すと、桐江に説教するとか何とか喚き始めたからすぐに殺してやった。夫は桐江の出産には大反対でね、発覚したときはそれはもう怒って、桐江にひどい暴力を振るったわ。また繰り返されるんだと思うと我慢できなかった」
「それで、殺したんですか」
美鈴の目は真っ赤に充血していた。彼女は怒りながら悲しんでいた。
「何その顔? 娘を守って何が悪いの?」
「もし柏木先生が桐江ちゃんのことで責任を投げ出したらどうするつもりだったんですか」
「そのときは――もう一人分死体が増えるだけね」
美鈴はさっと絶望した顔を伏せた。
「ごめんなさい、桐江。こんな母親で。でもあなたが産みたいと言ったから。あなたを思ってこそなのよ」
「お母さん」
「なあに?」
「実は……」
「紅葉、こんなに集まってどうしたんだ?」
そのとき桐江の言葉を遮るように、不可解な顔をした浩治が入ってきた。
「あれ、お義姉さん? それに――」
「先、生……」
桐江が漏らした声に浩治は固まった。か細い声で、
「桐江、なのか。どうしてここに……」
答える声はなく場は重く沈んだ。蒼だけはどこか憑きものが落ちたようになって、
「すべてあなたが引き起こしたことです」
と困惑する浩治に経緯を説明した。話が進んで行くにつれ、徐々に浩治の顔は引きつっていった。
最後には顔を真っ青にしてうなだれていた。
「そうか……そんなことが……」
そして突然その場で土下座した。
「申し訳ありませんでした!」
蒼は狼狽し、それでもかろうじて軽蔑の目を向けた。
「謝罪なんて求めていません。誠意を見せていただければ良いだけです」
しかし浩治は一向に頭を上げず、何度も同じ言葉を繰り返すだけだった。
さすがに不審に感じたところで、桐江が声を震わせながら言った。
「お母さん、ごめん。実はもう中絶しちゃってるんだ。一週間くらい前に。お母さんが出かけていたとき、先生とこっそり病院で会って……」
言葉をすぐには飲み込めなかった。
蒼の頭に桐江がまだ赤子だったころがフラッシュバックした。お食い初めで初めての味覚に泣き喚いた桐江、七五三で歩き疲れてぐずついていた桐江、幼稚園で友達と喧嘩して涙をこらえていた桐江。小さい頃の桐江も思い出は泣き顔ばかりだった。
小学生に上がると徐々に活発になっていった。泥だらけで帰ってくることも多かった。虫をポケットに入れたまま洗濯に出すものだから毎日ヒヤヒヤしながら洗っていた。門限を破られたときは本気で怒った。直らなかった。そして桐江は深夜近くまで帰ってこない日がくる。何事もなく眠りこけている娘に、ついに堪忍袋の緒が切れた。蒸し暑いのに背筋だけが薄ら寒い気候に。ワンピースを着ているのにがに股で眠る愛娘に。太腿の上ではねるバッタに。「女の子らしくしなさい!」あれは本心だったのか、今では分からなくなってしまった。
中学生に上がった桐江は髪を伸ばし始めた。化粧品に興味を持つようになった。体形を気にするようになった。お菓子作りを好むようになった。虫を嫌うようになった。両親に生意気を言うようになった。スマートフォンを欲しがった。友達を連れてきた。塾に通い始めた。
そして妊娠した。
「お母さん、ごめんなさい。でも子どもを枷に付き合いを続けるくらいならそんなのはやめようって。二人で話し合った結果なの」
桐江はボロボロ涙をこぼしていた。そういえば部屋に行ったとき何かを枕の下に隠していた。あれは中絶後の服用薬だったのだろう。
「紅葉おばさんもごめんなさい。あたし浮かれていたんです。先生に褒められて、一人で本気になって、『付き合ってくれないなら死んでやる』って脅して。あたしの方から迫ったんです。あたしが、あたしが全部悪いんです……」
「桐江ちゃん……」
紅葉は哀れむような目で桐江を見ていた。過呼吸になるほど泣きじゃくる桐江に、美鈴がそっと近づいていった。頭を下げ続けている浩治からもすすり泣きの声が聞こえてきた。
「紅葉、すまなかった。謝って済む問題じゃないのは分かってる。必要ならどんな罰でも受ける。だから、桐江を責めるのだけはやめてくれ」
ようやく顔を上げた浩治はリビングを横切り、中学生の娘の横に並んだ。その肩に手を置く。
一瞬、時が止まった。理解するのに時間を要した。
桐江は声を殺すように息を呑んだ。美鈴は困惑し身じろぎ一つ出来ないようだった。紅葉は顔いっぱいに失望を浮かべた。
蒼は、ただ笑うしかなかった。
だが浩治はそれらの表情を、顔を認識できないのだ。彼は泣き笑いを浮かべて言った。
「ぼくは桐江を愛しているんだ」
手を置いている娘が美鈴だとも知らず、幸せそうに肩を抱いている。そして美鈴の頭に愛情深いキスをした。
「桐江、愛しているよ……」
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