「じゃあ本当は昨日には既にいなくなってたわけね?」

 カーテンの閉め切ったリビングで、蒼は母の書き置きだという手紙を挟んで、紅葉と向かい合っていた。再度手紙に目を通す。そこには娘の夫との三人暮らしは精神的に堪えること、ずっと言えずに我慢していたこと、しばらく一人にしておいてほしいこと、そして一ヶ月程度で帰る意思があることが綴られていた。

「警察には連絡したのよね」

「ええ。でも置き手紙があるから失踪届は受理できないって言われて、町内会の人にも聞いたけど、姿は見ていないって……」

 紅葉はお茶を両手で包み込んだ。

「蒼、どうしよう。わたし母さんのこと何も分かってなかった。母さんはずっと我慢してたんだ。それなのにわたし……優しさに甘えていたんだ」

 泣き出しそうな声だった。だが蒼は流されることなく、冷静な目で紅葉を観察しながら頭を回していた。

 まずこの手紙は本物なのか? 母の字にはこれといった癖がなく、そんな親に育てられたおかげか蒼たち双子の字も似たような癖のないものだった。紅葉が真似て書いたのなら筆跡鑑定の知識がない素人くらいなら騙せるだろう。たとえ家族であっても、これが母の書いたものだと断言は出来ないし、紅葉の書いたものだとも断言出来ない。

 次になぜ母が出て行ったことを隠していたのか。昨日蒼は紅葉を訪ねている。そのときに家出のことを言えばよかったのに、なぜ紅葉は黙っていたのだろう。昨日は言えなかった事情があったのではないか?

 そして何よりも一番の懸念は――

「ねえ、浩治さんにこのことは説明したの?」

 紅葉はゆっくり考え込むようにグラスに口をつけてから言った。

「実は……浩治さんも帰ってきてないのよ。母さんがいなくなったのと同日に」

 蒼は驚きの表情を作った。

「それは、警察に言ったの?」

 紅葉は静かに首を振った。

「そんなどうして……」

 これは本心からの言葉だった。一番の懸念はそこだった。自身の夫が帰っていないというのになぜ紅葉は警察に通報の一つもしないのだろうか。警察の訪問を受けることくらい蒼も覚悟していたのだが……

 しかし紅葉は何も答えず、グラスに口をつけるだけだった。唇を湿らすだけの行為をひたすら続けている。

 蒼はその癖を気にかけながら重ねて聞いた。

「浩治さんがどこに行ったのか、心当たりはないの? 職場に泊まり込んでいるとか」

 これにも紅葉は首を振った。

「それも考えて塾に電話してみたの。そしたら浩治さんはしばらく謹慎処分だって。何も聞いてないのかって怪しまれたから急いで切っちゃって理由は聞けなかったけど……」

「そう」

「本当に、どこに行っちゃったんだろう」

 うつむき加減にため息を落とした。蒼は紅葉の肩に手を置くと、

「そのうち帰ってくるわよ。そんなに気を落とさないで。きっと何もないわよ」

「そうね。もう少し待ってみる。浩治さんも子どもじゃないし。もしかしたら母さんみたいな何かすれ違いがあっただけなのかも」

 と席を立った。

「ごめんね、なんか愚痴っぽくなっちゃって。わたしもどこかに出かけてみようかな」

 笑顔を作ろうとしたのだろう。唇の端を持ち上げて見せたが、その表情は自身を嘲笑っているように蒼には見えた。

「じゃあ帰るわね。また何かあったら来るから。……桐江ちゃんは学校?」

「ええ、もう快復したから」

 蒼は息を吐き出すのと同じ軽さで頷いた。

「そう、よろしく伝えておいて」

「ねえ、紅葉」

 リビングを出て行きかけた紅葉を呼び止め、

「母さんと浩治さんが不倫関係にあって、二人して家を出て行ったとは考えなかった?」

 冗談めかした口調ではあったが、蒼は本気で紅葉がそう考えているのではないかと思っていた。

 案の定、紅葉は一瞬目を大きくして、

「そんな、ドラマじゃあるまいし。そんなことあるわけないでしょう」

「ならいいの。変なこと聞いてごめん。気を悪くしないでね」

「別に。じゃあまたね」

「ええ、また」

 玄関のドアが閉められた。蒼は紅葉の背を追うようにじっと無機質なドアを見つめていた。間違いない。紅葉は浩治が浮気していたことを知っており、その相手を母だと思っていたのだ。蒼の中でまた暗い想像が鎌首をもたげ始めていた。

 やはり紅葉は母を殺しているのではないか? 浩治の浮気相手を母だと思い込んで、その恨みを晴らしたのではないか? もしそうだとしたら、桐江こそ危険だった。

 インターフォンが鳴った。紅葉が忘れ物でもしたのかと思ったが、カメラに写っていたのはセーラー服を着た少女だった。ストレートの黒髪は背中を覆うほど長く、前髪はきちんと切りそろえられている。ふっくらとした頬に色素の薄い唇、その上にちょこんと据わる鼻が少女をあどけなく見せるが、強い意志の宿った目がその印象を裏切っていた。

 少女は桐江の学友で、名前を玉野たまの美鈴みすずといった。礼儀正しく上品で、育ちの良さが内外からにじみ出ている才女だった。桐江と同じ塾に通っているが、成績は常に上位らしい。わずかな所作にも優雅さが匂い立ち、大人を相手にしていると思うことも珍しくなかった。

 再度インターフォンが鳴る。蒼は紅葉のコップを片づけ、彼が部屋で眠っているのを確認してから応対に出た。

「いらっしゃい美鈴ちゃん」

「ご無沙汰しております。こちらお口汚しですが」

 美鈴はそう言って桐江の好きなマドレーヌを差し出した。蒼は笑顔でドアを大きく開けた。

「ありがとう。きっと桐江も喜ぶわ。さ、どうぞ入って」

「お邪魔します」

 美鈴はぺこりと頭を下げて敷居をまたいだ。

 桐江が休み始めたころは他にも何人かが見舞いに来てくれていたが、今なお訪れてくれるのは美鈴だけだった。そしてそのたびに手土産を持ってきてくれる。蒼はその几帳面さに好感を持っていた。

 美鈴はローファーをきっちりそろえて脱ぐと、

「今日お父様はお休みなんですか?」

 と玄関に置かれた革靴を見て言った。蒼は片付けておかなかった自分を悔やんだ。紅葉は気づかなかったようだが、この子のことだ、もしかしたら挨拶をしたいと言い出すかもしれない。だが夫に会わせることは出来ない。断る理由をいくつか思い浮かべていたが美鈴は違うことを言った。

「桐江ちゃん、お父さんと喧嘩したって聞きましたけど、その……大丈夫なんですか」

 美鈴にしては抽象的な質問だ、と蒼は思った。

「大丈夫よ。色々話し合ってもう丸く収まっているから」

「そうですか……」

 美鈴はまだ何か言いたげだったが、蒼の視線に気づくと愛想笑いに韜(とう)晦(かい)してしまった。

 蒼がお茶の準備をしている間、美鈴は客人としての礼儀をわきまえ、行儀よく椅子に座っていた。家に来るようになってから長いのに、なぜか食器棚や冷蔵庫をじっと凝視していた。

「あまりジロジロ見られると恥ずかしいのだけど」

 蒼は美鈴の視線を切るように彼女の正面に腰掛け、お茶とマドレーヌを置いた。

「なにか気になることでもあった?」

 何気なくキッチンまわりを見る。掃除は三回も繰り返したし、少なくとも一目で分かるような痕跡は何もないはずだ。しかし美鈴の正鵠を射るような目は見えないものまで見通してしまいそうだった。

「いえ……ごめんなさい。お茶とマドレーヌいただきます」

「ええ、どうぞ。桐江にも後で食べさせてあげなくちゃね」

 蒼は依然キッチンを気にしている美鈴を気にかけながら紅茶をすすった。

 三十分ほど経ち、それまでの雑談が自然と消えると、美鈴はティーカップを脇によけ、蒼を正面から見据えた。蒼も持っていたカップをおろした。

「どうしたの? 桐江のところへいく?」

 美鈴は緩く首を振った。緊張の糸が張ったのが分かった。美鈴は身じろぎ一つせず、まっすぐな目を蒼に向けて言った。

「桐江ちゃんが風邪っていうの嘘ですよね」

 唐突な物言いに蒼は面食らった。

「どうしてそう思うの?」

 だがそれには答えず美鈴は続けてこう言った。

「桐江ちゃん、妊娠しているんじゃないですか」

「どうしたの、突然。桐江がそう言った?」

 蒼はマドレーヌの包みを持って席を立った。背後から美鈴の慌てた声が聞こえた。

「桐江ちゃんの様子を見ていたらそうかなって思っただけです。お父さんと喧嘩したっていうのもいきなりでしたし……もし間違っていたなら謝ります」

 そう言いながら既に美鈴は頭を下げていた。蒼はふっと息を吐き出し、ゴミを捨てると席に戻った。

「謝らなくていいわよ。それ本当のことだから」

「やっぱり……」

「気にかけてくれてありがとね。でもどうしてそんなことを?」

 美鈴はカップの持ち手を指でいじりながら、視線を机に二、三度滑らせた。

「私、その相手が誰か知ってるんです」

 沈黙して続きを待った。美鈴は紅茶で唇を湿らせてから、

「柏木浩治先生っていう、私と桐江ちゃんの塾の先生でした。桐江ちゃんが休むようになってからもしばらくは来ていたんですけど、先日から突然休むようになって。他の先生は体調不良だって言ってますけど、私知ってるんです。柏木先生と桐江ちゃんの関係がバレて謹慎処分になったこと」

「そう」

 蒼は素っ気なく答えた。訊くまでもないことだった。桐江の妊娠が発覚してすぐ、その男はこの家まで〝話し合い〟に来ている。そのときの男の表情、仕草、口調のすべてを覚えていた。阿るような笑顔、差し出された封筒の薄さ、わざとらしい謝罪の言葉。その全ての不愉快さを忘れていない。

 美鈴は強い目を向けて言った。

「連絡したのは蒼さんですよね」

「どうかしらね」

 そう誤魔化してみるが美鈴はほとんど聞いていなかった。

「私が分からないのは、なぜ塾だけに報告を上げたのかと言うことです。柏木先生の奥様は何も知らないんですよね。だから桐江ちゃんは何事もなく眠っている。そして蒼さんもできれば事を荒立てたくないと思っている」

「そういう見方も出来るかしら」

「それなのに塾には報告するなんて、なぜそんなことを」

「塾講師が生徒に手を出しているなんて、道徳的に許されないでしょう?」

 投げやりな反応に美鈴は眉を寄せ、確信的な声で言った。

「別の目的があったんじゃないですか」

「どんな?」

「それは……」

 美鈴は惑うように視線を泳がせた。だがそれは分からないからではなく、言いづらいからではないかと蒼は思った。つくづく理知的で大人びた子だ。普段なら好感を持てるその性格が今はひたすらにうっとうしく思えた。

「ねえ美鈴ちゃん。柏木と桐江はおじと姪の関係にあるの。それは知ってた?」

「ええ、知ってます」

「だから事を荒立てたくないのよ。塾に連絡を取ったのは、さっきも言ったように、それは道徳的に許されないことだからよ。これで納得してくれないかしら」

「……」

 蒼は諭すような口調になって、

「美鈴ちゃん。あなたが何を考えているのかは知らないけど、今の桐江にとって、そして柏木の妻にとっての最善は黙っていることなのよ。桐江はただ体調を崩しているだけ。柏木先生は別の生徒に手を出して謹慎処分になった。それでいいじゃないの。誰も不幸にならない嘘よ」

「でも、それじゃあ桐江ちゃんが……」

「桐江なら大丈夫よ。あの子は強い子だわ。わたしと似て、とってもね。父親がいなくても自分の足で立てるわ。もし転んでしまいそうになってもわたしが支えるって決めているんだから」

 美鈴はかなしみにあふれた目を大きくして蒼を見つめた。

「でも……」

「ごめんね、美鈴ちゃん。でも分かってね。世の中には公にしない方がいいこともたくさんあるの」

 蒼は立ち上がり、リビングのドアを開けた。

「さあ桐江に顔を見せに行ってあげて。あの子も喜ぶわ」

「……いえ、今日はもう帰ります」

「そう。まあ美鈴ちゃんも忙しいわよね。いつもわざわざお見舞いに来てくれてありがとね」

 本心だったが美鈴はどう判断したのか、肩を縮こめ小さく頭を下げた。

「お邪魔しました。紅茶おいしかったです」

 美鈴はそういって家を出て行った。ドアが閉まりきる瞬間、美鈴は肩越しに哀れむような目を向けてきた。それは妊娠している娘のためだったのか、それとも娘をかばうための嘘を積み重ねる母親に向けたものなのか、蒼には分からなかった。不意に落ち着かなさを感じた。ドアは閉まりきっているのに、美鈴の真摯な視線がいまだ自分に突き刺さっている気がした。あの子は一体、何をどこまで見抜いているのだろう……

 蒼は宗一の部屋を覗き、彼が依然しっかり眠っていることを確認してから階段を上がった。彼はいま蒼によって薬で眠らされているのだった。夫の職場にも長期休暇の電話を入れてある。邪魔が入ることはない。

 桐江の部屋をノックし、返事がある前にドアを開けた。

 ベッドに座っていた桐江は突然の母の来訪に驚きの表情をさらし、焦った手つきで何かを枕の下に隠した。蒼は机の上にスマートフォンが置かれているのを横目で確認しながら、

「美鈴ちゃんが来てくれたわよ。これお見舞いだって」

 とマドレーヌを差し出した。少なくとも浩治と連絡を取ろうとしていたわけではないようだ。

 桐江は自分の好物に一瞬頬を緩ませたが、すぐ怯えた目に変わった。

「美鈴、何か言ってた?」

「心配していたわよ。今日はこの後用事があるみたいですぐ帰っちゃったみたいだけど」

 先ほどのやりとりはおくびにも出さなかったが、桐江の表情は暗いままで、受け取ったマドレーヌを再び蒼に返した。

「今はいらない。食欲ない。後で食べるから机に置いておいて」

 布団を頭からかぶった。蒼は言われたとおりにして、部屋の戸を開けた。

「おやすみ桐江。夕飯が出来たら持ってくるからね。体はそのときに拭いてあげるから」

 そのまま部屋を去りかけたが、

「ねえお母さん」

 縋るような声に足を止めた。振り向くと、桐江は布団から頭を飛び出させ、蒼の顔をじっと見ていた。

「あたしに隠してること、何もないよね」

 ドキリとした。自分の体に何かついていただろうか。桐江の手前確認することも出来ず、蒼は平静を装いながら頷いた。

「どうしたの、突然。わたしは桐江の味方よ。なにがあっても絶対にお母さんが守ってあげるから。絶対に……」

 その頭を撫でてやると桐江は目をつむり、わずかに頷いた。

「ゆっくり休みなさい。大事な時期なんだから、身体は大事にね」

 蒼は部屋を出た。体を見回すが何もついていなかった。まさか臭いでもしたかと危惧したが、あれはまだ一階の風呂場だ。蒼自身もしつこいくらい全身を洗い、消臭剤を使い、服だって新しいものに変えた。少なくとも自分の体から怪しい点は何も発見できないはずだ。何だったらこのまま警察署に行ってもいい。

 しかし、なぜ娘もその友人も自分を怪しむのだろう。まるで既に起きたことを知っているような……

 いや、そんなわけはない。蒼は頭を振り一階に下りた。もう一度彼が起きていないことを確かめ、風呂場に向かう。すぐ鍵を閉め、紅葉からの電話で中断されていた作業を再開した。タイル敷きの床の隅には黒い袋がいくつも積まれていた。

 蒼はスポンジで風呂場のあらゆるところを磨いていった。タイルの隙間にまで入り込んでしまった赤いぬめりはなかなか落ちてくれず、スポンジを四つダメにしてしまった。天井、排水溝、壁、シャンプーボトルやシャワーヘッド、泡立てネットやかみそり一本にいたるまで神経質になり、やり残したことがないかを再三確認してから風呂場を出た。

 体感では五時間以上にも感じられたが、実際には三十分ほどしか経っていなかった。まだ日は高く、風呂場の窓を通して下校する子どもたちの声が聞こえてきた。

 ふと洗面所の鏡を見る。写った女の瞳は幽鬼のような冷ややかさで蒼を捉えていた。それが自分自身であると気づいたとき、不意に口元を引き裂くような笑いが起こった。

 これでは怪しまれて当然だ。鏡からこちらを睨む瞳は鉛のように乾いた、殺人を犯した女の目だった。声を漏らしていけないと意識するほど、身を震わせる笑いは大きくなっていく。鏡の中の女も本当におかしそうに弾けんばかりに笑っている。

「あのゴミはどうしようかしら」

 鏡に向かってあえて楽しげに言った。当然返ってくる答えはなかったが、蒼の中では既に決まっていた。

 あと八ヶ月の我慢だ。それまでわたしは何をしてもこの秘密を守らなければならない。全ては娘のために――

 蒼は笑いを抑え息を整えると、鏡に目を向けて言った。

「邪魔するなら誰だって容赦しないわ」

 先刻訪ねてきた娘の友人の顔が、蒼の頭に浮かんで、消えた。

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