母の松恵まつえと夫の将司が置き手紙を残して消えてからというもの、わたしは抜け殻のような日々を送っていた。空洞だらけの体内にもはや生きる気力は塵ほども残っていなかった。へその緒から胎児に全て奪われているのではないかと、まだ少しも膨らんでいない腹を見ながら思った。

 中絶も考えた。生まれてきた子どもをわたしはきっと上手く愛せないだろう。夫のせいではない。もし夫だけの血を引いている子どもだったら迷わず生んでいた。違う。わたしはわたしの血が許せないのだ。娘の夫を横からかすめ取る母親と同じ血が……。いつか自分の子どもにその母親の面影を見てしまうかもしれない。そうなる前にこの子を――

 だが、わたしは結局そうはしなかった。二ヶ月目を迎えたとき胎児が双子だと聞いて、三人なら手を取り合えって生きていけるのではないかと考え直したのだ。いや、もっと単純にわたしが子どもの顔を見たかったからかもしれない。

 二人の子は無事に生まれてきてくれた。産着に包まれた娘をこの手に抱いたときの幸福は筆舌に尽くしがたい。わたしのかわいい娘達。「紅葉」「蒼」と名付けて際限なく愛情を注いだ。周囲から片親であることに嫌みを言われようと、白い目を向けられようと、すべてを撥ねのけ、三人だけで生きてきた。この子たちだけは何があっても守る。産声を聞いたときからそう決めていた。

 娘は二人とも健やかに成長した。紅葉はやや引っ込み思案なところがあったが、淑やかで楚々とした女性に、蒼はがさつで気性の荒いところがあったが、愛情深く義理堅い女性に。どちらもわたしにとって最高の宝だった。だから蒼が大学在学中に婚約者を連れてきたとき、もちろん寂しさはあったが、それ以上に誇らしく思った。

 蒼は卒業と同時に籍を入れ、その翌年には子宝にも恵まれた。孫の顔を見たときはあまりの幸せにこのまま死んでもいいとすら思った。

 引っ込み思案だったのが災いしたか、紅葉にはそういった話は一度もなかった。男性に対して苦手意識があるようで、思えば学生時代から、蒼が持ち出した恋愛話に耳を傾けながら時々卑屈な表情を浮かべている子だった。それを見るたびわたしは自分が母親にしかなれないことを心苦しく思っていた。もし父親がいれば紅葉だって。そう思わずにはいられなかった。

 だが本音を言えば紅葉にいい相手がいなかったのは嬉しかった。これまで二十三年間、三人で暮らしてきた家だ。突然二人もいなくなってしまっては、夫と母が消えたときと同じ孤独が寂寥感をつれてきてしまう。蒼が出て行っただけでも家には空白が目立つようになったのだ。紅葉も寂しく思っているのか、まるで蒼の代わりを務めるように口数が増えた。

 話の種は昔のことが多かった。大学時代に蒼と二人だけで旅行に行ったこと、高校時代に蒼と間違われて告白されたこと、中学時代に蒼と喧嘩し三日間口を利かなかったこと……。紅葉はそういった一つ一つの思い出を、静かだが熱っぽく大切そうに語った。

 わたしもつられるようにして、紅葉と蒼が小さいときの話をいくつか聞かせた。中でもわたしが好きな話は、二人が幼稚園児のとき母が出て行ってから手つかずで荒れ放題だった庭を三人で再興した話だった。他愛のない思い出だが、二人が選んで植えたローズマリーが花を咲かせるたび、わたしはそのときの幸福を思い出し、特別な感傷に浸るのだった。二人が高校生になってからはタイムカプセルも埋め、ますます庭への感情は濃くなった。

 惰性的な停滞のなか、ささやかな幸福を睦み続ける生活が続いた。日々の変化は花に託し、自分たちは同じ一日を繰り返すだけ。退屈と老いだけは敵だったが、それすらどこか牧歌的で、ときには親しい顔もした。

 今から五年前、蒼が家を出ていってから十年を数える年だった。紅葉が突然、婚約者だと言って同僚の男を家に連れてきた。このとき紅葉は三十三歳になっていた。

 男は浩治と名乗った。神経質そうな見た目の割に多弁で、まくしたてるように紅葉のどんなところを好きになったか語った。

「ぼくは中途で今の会社に入ったのですが、紅葉さんが教育係についてくれて。正直な話、初めは不安だったんです。こんな年下のしかも女性が教育係なんて、と。まったくの視野狭窄でした。恥ずかしい限りです。入社して一ヶ月ですぐ彼女の魅力に気がつきました。紅葉さんはどんなことがあっても決して弱音を吐かず、文句の一つも言わないんです。仕事を押しつけられたときですら悪口も言わないで一人静かに机に向かっている。彼女と一緒にいると自分がいかに小さい人間か学ばされます」

 やけに芝居がかった喋り方に違和感を覚えたが、男が紅葉の外見ではなく内面を褒めたことに気を取られてすぐ忘れた。そうなのだ。引っ込み思案であったが故に今まで誰の気にも留められず、外発的な蒼と比較されては誹られていたが、紅葉には静かな優しさと芯の通った強さがある。彼はそこを見抜いてくれた。このときわたしは紅葉よりも喜んでいたかもしれない。

 浩治はふと神妙な顔になり、背筋を伸ばすと、

「ぼくのような若輩者では頼りないかもしれません。ですが必ず紅葉さんを幸せにします。どうか結婚を認めてください」

 そう頭を下げた。わたしはこの時点で疑うことを放棄していた。自分の子育ての成果に鼻を高くしていたのだ。

「こちらこそ、不甲斐ない娘ではありますが、どうぞお願いいたします」

 このとき目の前にぶら下がった幸福に垂涎することなく、その先に待ち受けているものに気がつけていたなら、こうして紅葉に殺人者の汚名を着せることもなかっただろう。

 しかしわたしは二人が籍を入れたときも、紅葉がわたしとの同居を望んだときも、浩治がそれに同調したときも、ただ母親としての勲章を手に入れたような誇らしげな顔をしているだけだった。同居が始まってからも、浩治の意外なだらしなさや紅葉の妻としての横顔を見ることに喜びを覚えるばかりで、内奥を見ていなかった。


「お義母さん、少し相談があるのですが……」

 二人が籍を入れて五年目の初夏、浩治がそう話しかけてきたのが始まりだった。

 わたしは素直に驚いた。紅葉は蒼の元へ出かけており、家には浩治とわたしの二人しかいなかった。彼はそういうとき、決して自分から話しかけてくることはなかったのだ。

 不穏だった。蝉の鳴き声がやけに耳障りだった。

「紅葉には内密にしていただきたいのですが……」

 いよいよなにかあると思い、少しだけ身を引いた。

「どうしたの」

「実は……」

 彼はしきりに唇を舐めていた。

「近く、まとまったお金が必要でして」

 わたしの頭に真っ先に浮かんだのは、会社の金の使い込みだった。だが彼に限ってそれはないと思い直し、次に詐欺に引っかかったのではないかと疑った。彼にはお人好しのきらいがある。引っかかったとしても不思議ではない。

 わたしは彼の正面に座り直して聞いた。

「何をやったのですか」

「……」

「答えられないんじゃ、貸せないことは分かってくれますね」

 それでも彼はなかなか答えなかった。長い沈黙が時間を停滞させた。

 やがて彼は小さな声で、

「浮気相手が子供を……」

 その先は聞き取れなかった。わたしが知らずその頬を張っていたからだ。鋭い音は波紋を作り、部屋の隅まで響いて消えた。

「浮気なんて、どうしてそんなこと……」

 怒りは自分の体内ではなく、ここではないどこか遠くから降ってくるようだった。わたしはそれを冷静に観察している。かつての夫の顔が目の前の彼と二重写しに見えた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 畳と接吻するくらいに頭をこすりつけ、彼は泣きそうな声で繰り返した。

「どうか紅葉には内密に……」

 この後に及んでまだそこに拘るか。わたしは膝に手をついて立ち上がり、部屋の隅にある桐のタンスを開けた。四段目だ。大事なものは全てここに入れている。そこから封筒を取り出すと、そのまま彼の前に差し出した。

「中を確かめなさい」

 浩治は太腿に手を擦りつけると恭しく頭を下げ封筒を手に取った。二、三度金を数え直してからわたしを見た。

「これって……」

「分かるでしょう。相手の娘さんには申し訳ありませんが、あなたは妻のある身。それできちんとお断りしてきなさい」

「ですが、それは……」

「紅葉には黙っておきましょう。けれどいずれは自分の口から伝えなさい。いいですね。大体、なぜ初めから紅葉に言わないのですか。こんなこといつまでも隠せるわけ――」

 そのとき玄関戸を開く音がした。紅葉が帰ってきたのだ。浩治は封筒をポケットに押し込み、居住まいを正した。戸襖が開く。紅葉は出て行くときには持っていなかった袋をぶら下げていた。

「ただいま」

「お帰り、早かったじゃないか」

「そう? もう七時近いけど……。そうそう、蒼から惣菜をもらってきたわよ。きんぴらごぼう、浩治さん好きでしょ?」

 紅葉は床に下ろした袋の中からタッパーを取り出して見せた。

 結婚してからというもの蒼との間には双子であると一体感に加えて、主婦であるという連帯感まで生じたようだった。月に一、二回こうして夕飯時まで話しては、惣菜をもらって帰ってくる。初めは結婚生活で悩みでもあるのかと気を揉んでいたが、どうやら蒼の相談に乗ってやっているらしい。桐江が思春期に入り何かと苦労も多いようだ。二人はどちらが姉か決めるのを嫌っていたが、このときばかりは紅葉の方が姉のようだった。

 紅葉は相談のお礼としてもらったものを袋から出しながら続けた。

「桐江ちゃんが夏バテでやられてるんだって。大分長引いてるようだし、心配ね。これ以上続くなら病院に行くよう言ってあるんだけど。もしかしたら良くない病気かも……」

 そこで、ふと気づいたように顔を上げた。

「浩治さんは何か聞いてない? 桐江ちゃん、確か受け持ちだったでしょ」

 浩治は塾講師だった。桐江はそこに通っている。

「さあ、どうだったかな。少し前までは元気だったけど」

 どこかとぼけた感じのする声だった。ふと彼を見ると、頬に緊張を走らせていた。その硬い横顔は、わたしにいやな想像を抱かせるには充分だった。

 だが紅葉は気にした様子もなく、

「早く良くなるといいんだけど……すぐ夕飯にするから。ちょっと待っててね」

 と居間を出た。薬指で指輪が光っている。浩治はあいまいな笑みを浮かべて、

「たまにはぼくも手伝うよ」

 と、立ち上がった。紅葉は嬉しそうに笑ってから、少しだけ怪訝な顔をした。

「浩治さん、そのほっぺたどうしたの。赤くなってるわ」

 わたしが叩いたのが腫れてきたのだろう。浩治は頬を掻きながら、

「さっきまで畳で寝ていたんだよ。その痕がついちゃったんだと思う。ぼくもさっきお義母さんに言われて気づいたんだ。ねえ、お義母さん」

「え、ええ。そうなの。浩治さんったらぐっすり眠っていてね、起こすのも可哀想だから放っておいたらそんな風になっちゃって」

 紅葉はわたしが話している間じっと、かみつくような目を見せ、

「そう」

 と視線を外した。ほっと息をついたのも束の間、

「母さん、化粧崩れてるわよ」

 紅葉は自分の唇を指でなぞって見せた。言われたとおり口紅が取れかけていた。

 わたしがティッシュで拭っているのを、紅葉はさっきよりも激しい視線で見つめていた。やがて、今度は何も言わず部屋を出て行った。浩治もへつらいの笑みを見せてからその後に続いた。

 ティッシュに滲んだ口紅は血を拭ったように見えた。

 

 その夜からだった。

 上階にある彼らの寝室から、物音が漏れ聞こえてくるようになった。ときおり交じる媚声には聞こえよがしな響きがあった。ほんの小さな音だったが、一度気になると脳内でどんどん重みを増していった。このときのわたしはなぜ紅葉が突然そんなことをし出したのかまるで分かっていなかった。

 わたしは頭から布団をかぶり耳を塞いだ。寝室を上下階に分けたのは偏に夫婦の時間を邪魔したくないからだったが、正解だった。

 静寂とは呼びがたい孤独の中で、浩治が万が一にも相手との関係を優先したらどうするべきかを考えた。わたしは母として紅葉にどう振る舞うべきだろう。どう慰めるべきだろう。そして、蒼になんと声をかけるべきだろう。

 まだ決まったわけではない。だが桐江の体調不良といい、それを訊かれた浩治の反応といい、また二人の塾講師と生徒という関係も、いかにも怪しいではないか。それともただわたしの考えすぎだろうか。

 わたしは寝入る直前、二人が高校生だった頃に見つけた母からの手紙の冒頭を思い出した。

 ――このような形でしかあなたを救えないこと、許してください。

 あれも四段目に入っていた。今は土の中だ。

 浩治が万が一にも相手との関係を優先したらどうするべきか。

 光明を得た気がした。


 悪い予感とは往々にして的中するものだ。

 三日後のことだ。その日紅葉はパートに出かけており、夕方まで帰ってこない予定だった。浩治が手つかずの封筒を差し出しながら深々と頭を下げ、

「お返しします」

 このためだけに仕事を休んだと後から知った。

「ごめんなさい、申し訳ありません。でも、無理です。あんないたいけな子に子どもを堕ろせだなんて、そんなことぼくには到底……」

 いたいけな子。やはりわたしの想像は当たっているのだろうか。

「蒼にはなんと説明するつもりですか」

 かまをかけるつもりだった。浩治ははっきりと答えた。

「もう既に知っています。子どもをどうするかは決めていませんが……少なくとも、ぼくが堕ろさせるようなこと、したくありません」

 息が止まる思いだった。蒼が何も言ってこないのは、紅葉に配慮してのことだろう。

「それでもし桐江が子どもを産みたいと言い出したらどうするのですか。いいえ、きっと生みたいと言うに決まってます! 桐江はまだ中学生ですよ? 教育者という立場にありながら、どうしてあなたって人は……」

 浩治は肩を縮めて、視線を畳の継ぎ目へ逃がした。

「……大体、なぜわたしより先に紅葉に打ち明けないのですか。いずれバレると分かっているならなおさら――」

「紅葉には、紅葉だけには、言わないでください!」

 浩治が突然弾かれたように詰め寄ってきた。

「お願いします。もしこのことがバレたら桐江が……」

「少し落ち着きなさい。桐江? 桐江がなんですか」

 浩治ははっと息をのみ、突然黙り込んだ。相変わらず視線は慌ただしく空を薙いでいた。

 やがて、

「紅葉は恐ろしい女です」

 ぽつりと、言った。

「は」

「ぼくの子どもを身ごもっているなんて知ったら、紅葉は絶対に桐江のことを許さない。それこそお腹の子を殺し、桐江すらも殺すでしょう」

 震えが来るほど衝撃的な言葉だった。

「あ、あなた、自分が何を言っているのか分かっているんですか!」

「お義母さん、ぼくは正気です。別に普段の紅葉がおかしいと言っているわけではありません。でも紅葉には異常に嫉妬深く、独占欲が苛烈な節がある。それはお義母さんだって分かっているでしょう?」

 否定はできなかった。確かに紅葉は、時々ぞっとするほど人に執着することがあった。

「でも、まさか殺すだなんてそんな……」

「昨日、紅葉から浮気を疑われました」

 暗い声だった。

「紅葉はこう言っていたんです。『ねえ、浩治さん、もしわたしのことを裏切っていたとしてもあなたのことは許すわ。でも、相手のことだけは絶対に許せない。許さない。ねえ、言っている意味分かる?』」

 紅葉は温厚な子だ。思春期に荒れていた蒼とは対照的に、紅葉に手を焼いた記憶はほとんどなかった。怒っているところも数えるほどしか見たことがない。

 しかしわたしは紅葉が浩治に詰め寄る様を容易に想像できた。

 桐江が生まれて三年ほど経った頃のことだ。家の購入を検討していた蒼夫妻がときどき相談に来ることがあった。市外にも足を運んでみているが、いまいちピンと来ないらしい。二人がそのとき住んでいたのは、ここから徒歩で五分ほどにある、鉄筋コンクリートで出来た集合団地だった。築年数が四十年余りと年季が入っており、幽霊の噂が立つような外観をしていた。だから余計に全ての家がよく見えて、決められないのだという。

「不動産屋の人が親切にしてくださるのですが、どうしても指標が分からなくて……」

 蒼の夫の宗一そういちは苦笑いで、

「なるべくここと近いところにしようと蒼とは話しているのですが……」

 とも零していた。

 そんな折だった。この家の向かいの一軒家が空き家になり売りに出されたのだ。二人は早速内覧へ行き、そして今までのどの家よりも条件に合致していたと喜んで帰ってきた。

「似たような物件が市外にもあるそうだから、不動産屋の手前見に行くけど、あそこになると思う」

 蒼はそう嬉しそうに笑い、それを聞いた紅葉も同じ顔で笑った。

 しかしその二週間後、ばつの悪そうな顔をした蒼が、

「やっぱり市外の家にする」

 と報告に来た。あれだけここの近所に住むことを望んでいたので少なからず驚いたが、理由を聞けばどうやら金銭面の問題らしかった。宗一の勤めている会社は今でこそ一部上場の大企業になったが、当時は人員整理が度々おこなわれることで有名な、事業に波のある会社だった。そんな中、人生で一度きりの買い物をするのだ。慎重にならざるを得なかったのだろう。

 とはいえ蒼はそちらの家を気に入っており、夫の宗一も「静かでいいところでしたよ」と買う前から満足げだった。築年数が三十年と少し古かったが、そのぶん値段は安く、部屋数も多かった。

「期待させるようなこと言ってごめんね。でもやっぱりお金は大事にしたいからさ……」

 蒼はわたしの顔を気遣わしげに窺い見ていたが、異論はなかった。市外と言っても車で三十分ほどの距離だ。離れてしまうのは寂しいが、いつでも会いに行ける。

「気にしないで。あなた達が納得できたならそれが一番いいわ」

 だからわたしはそう答えた。

「宗一さん。蒼のことお願いしますよ」

「はい」

 宗一が恭しく頭を下げた。この話はこれで終わるはずだった。

 しかし会社から帰ってきた紅葉にこのことを話すと、彼女は激しく動揺した。裏切られたような顔に目だけをとがらせ、「どうして止めなかったの⁉」と詰め寄ってきた。

 わたしは根気強く何度も説得した。夫がある蒼にいつまでも干渉していてはいけないこと、行こうと思えばいつでも会いに行けること、そして二人が納得して決めたこと。

「紅葉、いつまでも蒼にくっついていないで、あなたもそろそろ大人になりなさい。あちらにはあちらの家庭と、そして事情があるんです」

 しかし紅葉は聞く耳を持たなかった。夜半過ぎだというのに蒼に電話をかけ、今すぐ家まで来るように激しく迫った。蒼はただごとではないと感じたのか、眠い目をこすりながら一人でやってきた。

 紅葉は落ち着きを取り戻していたが、その視線は変わらず熾烈なものだった。

「こんな時間にごめんなさい。紅葉がどうしてもと聞かなくて」

「別にいいよ、母さん。……それでどうしたの、紅葉。桐江のこと主人に任せてきちゃったから出来れば早く帰りたいんだけど。家のことでしょ?」

 蒼の声には棘があった。当然だ。しかし紅葉は悪びれることもなく、

「なんで突然家を変更したの? 真向かいの家がいいって言ってたじゃない」

「母さんから聞いてるでしょ?」

「お金がなに。別にそれくらい言ってくれたら出すのに! 知ってる? わたしって結構貯金あるのよ」

「そういうことじゃないの。それにあっちの方が部屋も多いのよ。外観だって洋風建築で洒落てるし。きっと紅葉も気に入るよ」

 紅葉は不服そうにかぶりを振った。蒼はため息を押し殺し、

「ねえ、紅葉。わたしのこと心配してくれてるのは分かる。好いてくれてるのも嬉しい。でもだったら行動で示してほしいな。まずこんな時間に呼び出さないで。それからこれはあの人とわたしが決めることなの。紅葉には関係ないことよ。分かるでしょ?」

 噛んで含めるような口ぶりだった。しかし紅葉は聞かなかった。

「なんで? なんで、そんなこと言うの? わたし達双子なのに、なんで蒼はいつも離れていこうとするのよ」

 今にも泣きだしそうな声で、

「お願い。蒼、お願いだから向かいの家にしてよ。余剰したぶんのお金は出すし、干渉したりもしないから。ただ手の届くところにいてほしいだけなの。お願い」

 泣き落としにも似た態度に、さすがの蒼も呆然として、

「主人と一度相談してみるわ」

 と帰っていた。

 翌日、二人は真向かいの家を購入する旨を伝えに来た。当然余剰したぶんの金を工面するという約束が守られることは絶対条件だ。

「宗一さんが紅葉の好意を汲んでやれってうるさくて……」

 蒼はふてくされた顔で言った。昨日の今日で気まずいのか、紅葉も蒼も互いを正面から見ようとしなかった。

 宗一は照れたように頭を掻いて、

「一人っ子だったので姉妹きょうだい愛に憧れが強いんです。それにぼくとしては元々気に入っていた家が同額で手に入るならメリットは大きいんじゃないかって」

 そして蒼を前へ押し出すと、

「ほら、蒼。お義姉さんにちゃんとお礼を言おう」

 そう言って頭を下げた。紅葉はすっかり憑きものが落ちた顔だった。このときわたしは初めて紅葉の底知れない恐ろしさを意識したのだった。今もこのときの瞳を柔和な表情の奥に垣間見ることがある。浩治に詰め寄ったときもその刃のような視線を向けていたのだろう。

「紅葉は本気です。本気でぼくの浮気を疑い、本気で桐江を殺そうとしている」

 浩治はそう言ってから、

「――」

 ぼそりと呟いた。本心がうっかり漏れてしまったのだろう。わたしの耳はそれを聞き逃さなかった。彼は何食わぬ顔で続けた。

「どうにか桐江との関係は内密に終わらせます。なのでお義母さんも紅葉には黙っていてください」

 深く一礼し、立ち上がった。わたしはその背中を呼び止め、

「あなたは紅葉が、本当に人を殺すと思っているの?」

 浩治はこちらに向き直った。

「紅葉がどうして会社を辞めたか知っていますか?」

「あなたと結婚したからじゃないの」

 そういえば詳しくは聞かなかった。勝手に寿退社だと思い込んでいた。

「いえ、婚約してからもしばらくは結婚後も働く意志を見せていました。夫婦で同じ会社に勤めるのも悪くないとそのときは僕も思っていました。でも……」

 浩治はふっと息を吐いた。投げやりな笑いを漏らしたように見えた。

「紅葉は同僚の女性を殴ったんですよ」

「殴った?」

「ええ、幸い向こう側が事を荒立てるのを好まなかったので、内々に終わりましたが。あの会社に勤めていた人間なら誰でも知っている話です」

 信じられなかった。あの子がそんな。どうして。

「原因はぼくにあったんです。その同僚と遅くまで残業していたことが何度かあって、紅葉に関係を疑われたんです。そのときはもちろんきっぱりと否定しました。仕事上のパートナーは彼女かもしれないけれど、人生のパートナーは紅葉だと言って。しかしその後日、うっかり紅葉のことを同僚の名前で呼んでしまって。しかもそのまま仕事の話を続けてしまったから余計に紅葉は怒って。偶然近くを通った同僚は笑っていましたが、紅葉はそれが頭にきたようで手を上げたんです」

 浩治は戸襖に手をかけ、

「桐江との関係はきちんと片付けます。ですから紅葉には何も言わないよう、くれぐれもお願いしますね」

 今度こそ部屋を出て行った。

 わたしは足を崩し、ため息とともに庭に視線を投げた。日が傾き始めている。芝生は燃え立つように輝き、花壇は影の中に沈んでいた。静謐なローズマリーが風にあおられ、今にも吹き飛びそうだった。

 さっき浩治が漏らした言葉を思い出す。

 ――そうなる前に、紅葉から逃げないと……

 頭皮にかゆみを感じた。全てを壊してやりたい衝動に駆られて、机にこぶしを振り下ろす。グラスが倒れ、温くなった麦茶を吐き出した。視界の端に日差しが煩わしい。熱した鉄を背筋に通されたように体が熱かった。蝉の声が濁流となって、部屋の空気を掻き回している。

 濡れてしまった畳を拭いていると紅葉が帰ってきた。浩治が出迎えたらしい。戸襖を隔てて話し声が聞こえてきた。ときどき混じる笑い声には空々しいものを感じた。

 戸襖が開かれ、紅葉が笑顔を見せた。わたしが布巾を手にしているのを見ると、

「それ、どうしたの? なんで濡れてるの」

 その顔に一瞬影が差したように見えた。

「お茶を零しただけよ。夏だしすぐ乾くから気にしないで」

「そっか」

 紅葉は背後の浩治を見上げてから、またわたしを見た。

「気をつけてね、臭いとかも染みついちゃうんだから」

 その言葉の意味も分からないままわたしは頷いた。紅葉は一瞬瞠目してから眉間にしわを寄せ、なにも言わず部屋を出て行った。なんの反応だったかも、このときのわたしにはまるで分からなかった。

 ただ麦茶を吸い込んだ畳からは確かに湿っぽい嫌な臭いがしていた。


 そしてわたしは浩治の殺害を胸に決めた。

 娘の幸福を守るため、わたしは病魔を取り除かなくてはならない。ふと、母の手紙の二行目が脳裏をよぎった。

 ――しかしあなたを守ると思えばこそ、私は鬼になれたのです。どうしてあなたを裏切ることがありましょうか。

 母もきっとこのような気持ちだったのだろう。まるで殉職者が戒律のために身をやつすような、使命感と畏怖が混じり合う熱された感情。そして利他心を支えとした全能感。

 だが失敗した。

 わたしは娘を守るどころか、殺人犯の汚名を着せてしまったのだ。浩治の言っていることは本当だった。紅葉は自分の独占欲のためなら殺人も厭わなかった。

 殺害を実行しようとした当日のことだった。本来なら紅葉がパートで家を不在にし、浩治は休日で家にいる予定だったのだ。しかし浩治は職場から急遽呼び出され家を出て行ってしまい、そしてなぜか紅葉はパートへ行かず家にいた。

「休みをもらったの。なんだか頭が痛くって」

 紅葉はそう言って顔をしかめた。

「風邪かもしれないわ」

 わたしは薬を用意してやろうとキッチンに立った。薬箱はいつも上の棚に入っていた。

 そのときだった。

 紅葉が背後から音もなくにじり寄ってきて恨みのこもった声で言った。

「母さんが悪いんだからね」

 振り向いたときには遅かった。わたしの腹部に深く包丁が刺さった。突然膝の関節を抜かれたような虚脱感に襲われ、その場にへたり込んだ。生暖かい血が服に染みこんでいく。痛みはすぐ後にやってきた。痛みと混乱と恐怖で回らない頭をもたげ、娘を見上げた。その手には冗談にしてもやり過ぎなくらい真っ赤な包丁が握られている。

「どうしてわたしを裏切ったの」

 紅葉は目尻に失望の涙を浮かばせていた。その目は昔の自分によく似ていた。母に裏切られたと勘違いし中絶を考えていたとき、鏡の中からわたしを睨んできた目だ。このときようやく勘違いさせていたことを自覚した。兆候はいくつもあったのにわたしは気づいてやれなかった。だからこれは罰なのだ。

 わたしは朦朧とする意識の中、彼女が取り落とした包丁の指紋を拭ってやった。償いになるかも定かではない。ただわたしは彼女が捕まることも、己の勘違いに気づくことも望んでいなかった。

 しかし――

 わたしは今、押し入れに入れられていた。紅葉が蒼の視線を危惧し、土の中から移したのだ。大量の保冷剤に包まれ、わたしの血の通っていない肌はさらに冷たくなっていく。これから紅葉がわたしをどうするのかは分からない。発覚せず、ただ失踪したということにしてくれたらいい。蒼のことは不安要素だが、紅葉には何か考えがあるようなのでわたしはそこまで心配していなかった。昔から嘘や隠し事は紅葉の方が上手かった。

 しかし、浩治は一体どうしたのだろう。土に埋められてからというもの姿を見ていない。初めは紅葉がわたしを殺すため、浩治を家から追い出したのだと思っていたがそういうわけではないらしい。浩治はあの日、本当に職場に呼ばれて家を出て行き、そのまま帰ってきていないのだ。そして紅葉もその行く先は知らないようだった。

 彼はいったいどこで何をしているのだろう。紅葉が思い詰めていないだろうか。それだけが心配だった。

 紅葉は今何人かに電話をかけていた。さっきまでは浩治の職場にかけていたらしい。少し慌てた声で、何やら弁明する声が聞こえてきた。その前には町内会へ、さらにその前は警察にもかけていた。そして今は蒼と電話している。短く言葉をやりとりし、

「じゃあ今すぐ行くわ」

 受話器を置いた。紅葉はすぐに着替えると机の上に置かれた二つ折りの紙を手に取った。昨日作っていた手紙だ。それをポケットに入れ、

「行ってきます」

 と呟いた。無意識だったのだろう。ばつが悪そうな顔でわたしの入った押し入れに一瞥をくれた。その目はひどく悲しげに見えた。

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