蒼は玄関の扉を閉め、長く息を吐き出した。まさか母が不在だったとは思わず、とんだ取り越し苦労だった。だがどこかおかしい。母が出かけるときは大抵、紅葉も一緒に出ていた。たとえ紅葉の夫の浩治こうじがついていても――いや、むしろ浩治と二人きりにするのを避けるようですらあった。

 その気持ちは蒼にも分からないではなかった。母の紫津子は昔から年若く見られ、蒼と紅葉が学生の頃などは一緒に歩いていると、年の離れた姉妹か仲のいい友人同士だと思われることが多かった。還暦を超えた今ではそのようなことも減ったが、それでも母の実年齢を聞くと納得する人よりも驚く人の方が多かった。そしてときおりふと垣間見せる脆く崩れそうな翳りのある表情には、娘である蒼すら庇護欲を掻き立てられることがあった。

 蒼が高校生の時だ。友人と遊ぶ予定がなくなり、いつもより早く家に帰ったところ、母のすすり泣く声が居間から聞こえてきた。居間の入り口からそっと中を覗き込むと、母はくしゃくしゃと皺の寄った手紙を胸に抱き、頭を伏せていた。

 見なかったことにするため一度家を出ようか考えていると、紅葉が帰ってきてしまった。その音に母はハッと顔を上げ、それから蒼の姿を認めると、泣き腫れた目元をごしごしとこすって、

「お帰り、帰ってたのね」

 と妙に気の張った声で笑いかけてきた。蒼は何も言えなかった。

 母の赤い目に紅葉は駆け寄っていったが、母は「目にゴミが入っちゃって……」と誤魔化しながら、いつもの気丈な笑顔を見せた。それから蒼に泣き腫れた目をやり、もう一度「お帰り」と言った。

 その声からはもうほんの少しの違和感も聞き取れなかったが、赤い目元に浮かべた微笑には確かに深い翳が染みついていた。それからも蒼はたびたび母の瞳の奥に決して拭い去れない、うらさびしい暗色を見ては、そこに普段の気丈な母とは相反する、触れれば壊れてしまうような腺病質な母を夢想した。無防備とも言えるその表情は実年齢よりも若く見える母を一層うつくしく見せるのだった。

 紅葉はそんな母に必要以上に気を張っていた。それなのに浩治と母を二人きりで買い物に行かせるだろうか。そしてあの花壇を話に出したときの、ぞっとするほど冷ややかな視線。本当に母は買い物に行っているだけなのだろうか。明日には帰ってきているのだろうか。もしかしたら紅葉は母を――

 悪い想像だ。

 蒼は頭を振って靴を脱ぐと、そのまま二階へと向かった。二階は一人娘である桐江きりえの部屋とその対面に物置部屋があった。蒼は桐江の部屋をノックすると声をかけた。

「桐江、帰ったわよ」

 返事はなかったが、勝手に開けて入った。部屋のカーテンは一部の隙間もないように閉め切られ薄暗く、ベッドの脇には吐瀉物の入った汚物入れと、真新しい袋が置かれていた。ベッドの上では掛け布団を頭から被った桐江が、苦しげな寝息を立てている。

「桐江、体調少しは良くなった?」

 蒼は掛け布団の隙間から手を差し入れ、桐江の額に手を当てた。少しだけ熱があるが一時ほど高くはなかった。母の帰宅で目を覚ました桐江は、体を気遣うように緩慢な動作で起き上がった。

「おかあさん……みず……」

 母を見上げる瞳には薄い涙の膜が張っていた。蒼はサイドテーブルに置いておいた水入れを桐江の口元に運んでやった。不健康に痩せて筋張った首筋が水を飲みこむたび上下に動いた。学校には風邪をこじらせていると連絡を入れてあるが、実際いまの桐江の姿を見ても疑うものはいないだろう。

 今年十五になる娘は数ヶ月前まできちんと学校に通っていた。蒼譲りに気が強く、小学生の頃などはよく男子と取っ組み合いの喧嘩していた。勝ってしまうことも多く、何度クラスメイトの家まで頭を下げに行ったか分からない。

 蒼にとってこのときの桐江は娘と言うより息子のような存在だった。小さな体躯に有り余った元気を発散させるため好奇心の触覚を常にうごめかせ、一度興味を惹かれたものには飽きるまで没頭する。そういう少年のような少女だった。

 ある真夏日。朝から虫取りに出かけた桐江が夜まで帰ってこないことがあった。普段なら夕食の時間には帰ってくるのにと不安になった蒼は、桐江が当時よく出入りしていた山へと赴いた。夜中の山道は薄暗く、両脇から垂れ下がった枝々は風が吹くたび木の葉を擦り合わせ、不気味なざわめきを下ろした。日中より気温が低く肌寒いくらいだったのに、蒼は知らず汗をかいていた。低い鳥の鳴き声が恐ろしい獣のうなり声に聞こえた。

 幸いにも桐江はすぐ見つかった。山の中腹辺りで太い根を下ろした大木に寄りかかり、眠っていたのだ。白いワンピースを着ているにも関わらず大きく足を広げているせいで、日に焼けた太腿は内側まで丸見えだった。隣に置かれていた虫かごの隙間から這い出てきたバッタがその太腿の辺りで跳ねているのを見て、蒼の一瞬覚えた安堵は真っ赤な怒りに塗りつぶされた。このとき初めて桐江のことを撲った。桐江はなぜ撲たれたのか分からないという顔をしたが、眉を吊り上げた母の顔に泣きわめき、何度も何度も謝った。

「なんで女の子らしく出来ないの!」

 山からの帰り道、蒼は感情的にそう口走ってしまった。桐江がつながれた手を痛そうに捻るのさえ苛立ちの種だった。

「もっと女の子らしくいなさい! あんた再来年には中学生でしょ⁉」

 そのときは何も思わなかったが、今ベッドで臥せっている娘の顔を見ているとふと後悔に襲われる。あのときわたしがもっと言葉に気をつけていたら、もしかしたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに――。

 静かな寝息を立て始めた桐江の長く伸びた髪を、慈しむような手つきで何回か梳くと、蒼は部屋を出た。

 一階へ下りてリビングへ入ると男の割には細い背がこちらを向いていた。手には専用のマグカップを持ち、入ってきた蒼に気がつくと気恥ずかしそうに笑った。蒼は驚きを咄嗟に目元の微笑に隠し、

「あなた、起きてたのね」

「おはよう。昨日はごめんな。酔い潰れるなんて本当にどうかしてた」

 彼は頭に手をやった。

「もう飲み過ぎないようにするよ」

「本当にもう気をつけてね。次は連れ帰ってこないから」

「参ったな」

 ははは、と彼は朗らかに笑った。蒼も同調して口元を覆い隠しながら笑った。自分たちは今、円満な夫婦の会話をしている。そう自分に言い聞かせ、ただひたすら自身の考える正解をなぞり続けた。薄氷を踏むような時間だった。すぐに蒼は耐えられなくなり、家事を言い訳に席を立った。

「ぼくも手伝おうか」

「大丈夫よ。しばらく仕事は休みなんでしょう? あなたはゆっくりしていて」

 蒼は口角を持ち上げて見せた。

「それと、二階がいま散らかってるから入らないでね。臭いもひどいのよ」

 彼の返事を待たずリビングを出た。そのままの足でまた二階へ上がり、桐江の部屋と向かいの部屋の扉を少しだけ開け、体を滑り込ませた。

 部屋は生温い臭気が充満していた。保冷剤を当てておいてもあまり効果はないらしい。蒼は呼吸を浅くしながら、毛布にくるまれた〝それ〟に近づいた。めくれた端から血の気を失って青紫に変色した毛深い足が覗いていた。蒼は胃の底を突き上げるような吐き気を覚え、目をそらした。

「お母さん、あたし妊娠した……」

 三ヶ月前、桐江が不安と焦燥をない交ぜにした視線でそう告白してきた。そのときからこの犯行は始まっていたのかもしれない。

 このときほど自分の言葉を恨んだことはなかった。確かに女の子らしくしろとは言った。だが妊娠しろとまでは言っていない! あれから山に行かなくなり、日に焼けることもなくなった桐江の白い頬は緊張で固くなっていた。あのとき太腿の上を跳ねていたバッタがなぜか思い出された。

 しかし桐江が腹を決めた形相で「産みたい」と言ったとき、蒼は反対しなかった。娘の進みたい道を応援し、もしその道が悪路ならば鋪装してやるのが母親のつとめだと思っていた。だから殺したのだ。邪魔な男を。

 蒼は温くなった保冷剤を取り払い一度部屋を出た。リビングに戻り、まだコーヒーを飲んでいた彼に適当に言い繕いながら、新しい保冷剤を出した。彼は不思議そうな顔をしていたが追及はしてこなかった。二階へ戻り保冷剤を毛布の中に詰めていく。男の肌が柔らかくなっているような気がして悲鳴を飲み込んだ。もう一度触れるとやはり冷たい皮膚はぶよぶよとたるんでいた。ふと思い浮かんだ、死体が起き上がってくる妄想を、蒼は軽く頭を振って追い払った。もしそうなったとしても恐れることはない。もう一度殺せばいいだけのことだ。わたしならきっと出来る。娘のためならなんだって……。

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