性善説

冬場蚕〈とうば かいこ〉

〈今、お読みいただいた物語はフィクションに過ぎない  ――ポール・アルテ『第四の扉』〉

第一話 聖母 〈For sale: baby shoes, never worn(売ります。赤ん坊の靴。未使用) ――アーネスト・ヘミングウェイ〉

 女の瞳にはどこか捨て鉢で、厭世的な色が滲んでいた。

 虫の音が秋天に溶ける夕暮れ時。半分ほど開かれた障子から忍び込んだ夕陽が女の顔を明暗に切り分けている。女は眩しそうに静かな瞳を細め、壁や天井に染みついた生活臭に遠慮して身じろぎ一つも我慢しているようだった。

 女が見つめているのは彼女の母親が母親から受け継がれてきた庭だった。十坪程度の広さで夏には野菜が豊富に採れ、今の季節にはローズマリーやヒャクニチソウなどの多年草が目を楽しませた。だがすでに死んだ庭だ。世話をしていた女の母ももういない。

 だんだんと夜の気配が近づいてくるのを感じ取ったのか、女は音を立てることすら恐れるような慎重さで立ち上がった。視線は庭の端に釘付けになっていた。そこには何の植物も植わっておらず、ただむき出しになった土が秋夜の空気に冷えていた。

 女はうろんな視線で独りごちた。

「どうしてわたしを裏切ったの?」

 その問いに答えてくるものは何もなかった。


    *


 夫が浮気しているのではないかと感じたとき、これといって根拠はなかった。ただ、わたしに向けられたはずの瞳やくちびるが、他の女へ向けられたように余所余所しく、そして妙な熱を持っていると感じられただけのことだった。

 問い質すことはなかった。女やもめの母のため結婚後も家を出ないというわたしの我が儘を容認し、そればかりか休日には母の用事にも快く付き合ってくれる夫に疑義を悟られるのは避けねばならなかった。そうして全てを気のせいという言葉に押しつけ、平和的で姑息な日々をやり過ごした。

 三ヶ月くらいは順調だった。さざなみ一つ立つことなく、相変わらず夫の余所余所しさに変化はなかったが、それにも少しずつ慣れつつあった。

 夏至の翌日だった。少し前から悪心と頭痛が続いており、もしやと思い病院へ行くと妊娠が発覚した。看護師はわたし以上に喜んでくれて、額に深い皺の刻まれた医師も気難しげな顔の中にほんのりと笑顔を見せた。

 ようやくの妊娠にわたしは浮かれた気分のまま家に帰り、ひとまず母に報告した。母は一瞬だけ表情を凍り付かせ、すぐに口元に笑顔を張り付けると、

「おめでとう。紫津子しづこ。これから大変だけど、私もせめて支えになるからね」

 と正しい母親としての言葉を義務のように口にした。違和感を覚えたがすぐに忘れ、胃全体を握り潰されるような吐き気にすら幸福を感じていた。その日の夜には暗雲が心を陰らせるということも知らず、暢気に……

 気を利かせた母が赤飯を炊いてくれて、食卓で夫の帰りを待った。ふと外を見ると、今日の役目を終えた夕陽は青ざめた月に出番を譲ったというのに、押し流された暮色が未練がましく西の空で溜まり、宵闇を薄紫色に変えていた。未だ空の縁にへばりつくその色はわたしを不安にさせた。あってはいけないものがその場にあるような、あるべきものがその場にないような、過不足の両端が同時に出現しているような不和。わたしは視線を赤飯に逃がした。

 夫が帰ってきたのは暮色がようやく引き際を弁えて消え去り、色濃い夜に冴えた星々が輝き始めた頃だった。生来のなで肩は疲れをのせて更に落ち込んでいるように見えた。わたしはそれを拭うように、靴を脱ぐため三和土に座り込んだ肩に手を這わせた。

「ねえ、嬉しい報告があるのよ」

 と耳元に唇を寄せた。自分の吐息に熱っぽさすら感じていた。

 しかし夫は冷たかった。

「疲れてるんだ。飯の後じゃダメなのか」

 そう言って靴紐をつまんだまま本当にうんざりとした顔で振り向いた。その瞬間わたしは用意していたはずの言葉を失った。病院の先生の方が喜んでいた。その事実に一瞬頭がくらっとした。見かねた母が「将司まさしさん、それはさすがに……」と言ったことで、夫はハッとして、

「すまなかった。少し仕事で疲れていて、当たるつもりはなかったんだ」

 そう取りなした。

「それで、嬉しい報告ってのは?」

 わたしは少しだけ拗ねた、しかしそれを上回る嬉しさに弾んだ声で妊娠したことを告げた。

「まだ男の子か女の子か分からないんだけど、名前も決めていてね。男の子だったらまこと、女の子だったら紅葉もみじって……」

 とそこで言葉が止まった。夫は網膜の血管まで見せつけるように目を見開き、潔いほど唇をわななかせていた。数ヶ月の間わたしを悩ませていた夫に張り付いていた他人の顔は、皮肉なことにその驚愕の表情によって剥がされた。

「あなた?」

 にわかに不安を覚え、わたしは夫の肩にまた手を置いた。

「どうしたの、顔が青いわ」

 言いながらおおよその事情を察していた。夫は俊敏に立ち上がると持ち上げた唇を割って、「おめでとう」とだけ言った。

「やっぱり疲れてるんだ。すまない。今日はもう寝る」

 なで肩をさっき以上に落ち込ませ二階へ上がっていった。扉の閉まった音を聞いて、母はふっと息を吐き、わたしを一瞥してからダイニングへ戻った。わたしはなかなかその場から動き出せなかった。頭の中で夫の大書されたような驚愕の顔と、母が昼に見せた刹那的な驚愕の顔が二重写しになっていた。

 その後に母と二人だけで食べた赤飯は冷えて固くなっていた。


    *


 女はまた半分ほど開いた障子から庭を眺めていた。

 あれからさらに三日が経っていた。その間の女の行動はまるで変わらなかった。朝起きて夜寝るまでのほとんどの時間、修行僧のような熱心さでひたすらに庭を見つめ続けていた。そうしていれば事態が好転すると信じているふうでも、いつか救いがやってくると信じているふうでもなく、ただ死体を眺める目だった。

 だが今日は違った。昼時を少し過ぎた頃インターフォンが鳴った。一瞬だけ居留守を使おうとしたようだったが、思い直したのかゆっくりと立ち上がり来訪者を迎えに居間を出た。戻ってきた女は後ろによく似た顔の女をつれていた。彼女の双子の姉妹だ。名前をあおいと言った。

 蒼はがらんとした居間に入るなり訝しげに眉を寄せた。それから半分だけ開いた障子に目を向け、さらにその先の庭に咲く花々がしおれ始めているのを見て、考え込むように目を伏せた。蒼は母が庭を大切にしていることは知っていたのだ。

「今日は母さんもあの人も出かけてるの」

 女はさりげなく庭と蒼の間に入って笑顔を作った。

「お茶でよかった?」

 返事を待たず、足音を殺すようにしてキッチンへ向かった。蒼は気づかなかったようだが、女の静かな声はわずかに震えていた。

 湯飲みを二つ盆に載せて戻ってきた女は、蒼に座布団を勧め、自分は畳に直接座った。

「姉さん、母さんたち出かけてるってほんと?」

 蒼は疑心を隠す気はないようだった。女は湯飲みを両手で包み込むように持ち、

「どうしたの、突然。さっきそう言ったでしょう? 買い物に行ってるのよ」

 その声は聞き分けの悪い子どもを窘めるようだった。

「別に。でも少し前まであんた旦那さんにべったりだったじゃない。それなのに今日はなぜ……」

 女はその先を遮るように曖昧に微笑み、その僅かに持ち上がった唇に湯飲みを寄せた。それが女の癖だった。返答に困ったとき、言い返す言葉に詰まったとき、疚しいことがあるとき、女はいつも笑みの残った唇を隠したがる。

「……少し痩せた?」

 蒼は話を変えるように、自身の片割れの目を見つめた。蒼は彼女の癖をよく理解していた。一度話さないと決めたら万力で締められたようにその口が固くなることも、しかし人からの好意を無下にできない甘さを持っていることも、全て分かっていた。

「最近は涼しくなったけど、夏に落ちた食欲が戻らない人もいるって言うし。最近あんまり食べてないんじゃないの」

 女が湯飲みに視線を落としても、蒼は女を見つめ続けた。

「うちの娘もそうなのよ。前も言ったけど、少し前から全然ご飯を食べないようになって、小生意気にダイエットでもしてるのかと思ったら食欲がないって言い出して」

 蒼には今年で十五になる娘がいた。蒼に似て気が強い、少年のような少女だった。

「一度病院に連れて行こうと思ったんだけど。本人が嫌がってるから」

「そう……」

 女は茶渋に語りかけるような小さな声で、

「わたしも夏バテなのかもしれないわ……」

 それだけ言うとあとは黙り込んだ。

 蒼は立ち上がると、障子を開けて掃き出し窓へ顔を寄せた。

「ねえ、あそこにローズマリーを植えたときのこと覚えてる? 子どもの頃よ。今年も咲いているわね」

「覚えてるけど……」

「じゃあ――」

 蒼は土がむき出しになった花壇を指さした。

「あそこにタイムカプセルを埋めたのは? あの何も植わってないところ。わたしたちが高校生のときよ。いつか家族三人で開けましょうって言って母さんと。覚えてる?」

 女は口元を手で覆うようにしてまた黙り込んだ。蒼はその癖に注意を払いながらその目を見つめた。真摯な瞳の奥には燃えるような光が宿っている。かち合った視線を女がふいと切ったのを見て、

「……今日は帰るわね。また明日にでも顔を出すから」

 蒼は立ち上がった。

「明日なら母さんもいるんでしょう?」

「え、ええ。そうね……いると思うわ」

「思う?」

「いや、伝えとく。蒼が来たこと」

「うん。お願い」

 蒼は居間を出る直前、もう一度だけ庭に視線を流していった。遠い過去の思い出を見つめる切実な瞳だった。

 女は玄関のドアが閉まる音を聞き、体の奥から溜息を吐き出した。


    *


 夫の浮気はもはや覆らない事実としてわたしの前に立ちはだかっていた。少しの気遣いの言葉や、ネクタイを締める指や、わたしの声を聞く耳や、出勤していく背中や、不在の空白にすら他の女の体臭がうつり、それは日に日に濃度を増していくようだった。

 それでもわたしは夫を問い詰められなかった。母がここ最近体調を崩しているせいだ。本人はただの夏バテだと言っているが本当のところは分からない。来週の日曜日、一度夫に病院へ連れて行ってもらうように頼んだ手前、小さな波紋すらも立てたくなかった。

「ごめんね」

 わたしが濡れたタオルで体を拭いてやっているとき、母が独り言のように呟いた。わたしは一瞬だけ聞こえなかった振りをしようと思ったが、妙な質量を持った言葉に感じられて、

「いいのよ、これくらい」

 と答えていた。これくらいはいい。夫が浮気していることに比べたらこれくらい……

 そこでふと母に全てを打ち明けたくなった。母なら、わたしのこの悩みを解決こそ出来ないにしろ、なにか光明を与えてくれるかもしれないと期待した。

 気がついたときには、わたしはすべてを話していた。

 だが話を聞き終えた母は、表情という表情を排した顔のなか、うつろな目でわたしの目を見つめると、

「きっとあなたの思い込みでしょう」

 すげない言葉で話を打ち切った。その瞬間、わたしは母が〝母親〟である以前に〝女〟であることを思いだしていた。そして年齢以上に若く見える母の肌や、未だ線の崩れていない体を見て、手が震えた。

 そんなはずはない……母に限ってそんな……

 だがわたしはこの日から母と夫を二人きりにするのを意識的に避けるようになった。母の病院にいくときはわたしは何食わぬ顔でついていき、夫が母にあるいは母が夫に話しかけたときも、返答はわたしがした。

 全て徒労だった。

 怨念じみた残暑が舗道のアスファルトを揺らめかせる午後、母から頼まれていた買い物のためどうしても家を空けなくてはならない日があった。最後まで夫に付き合いを求めたが、彼はまだ体調の優れない母を慮って家に残ると行った。

「お義母さんのことはしっかり見ておくから。紫津子は安心して行ってきなよ」

 そんな急拵えの笑顔に惑わされず、無理にでも夫を連れて行けば良かった……いや、いっそわたしが家から出なければ……

 しかしその時のわたしは家を出てしまったのだ。「すぐに戻ってくるから」なんて言って、もしかしたら全てが自分の考えすぎかもしれない、妊娠のせいで神経過敏になっているだけだと言い訳し、それまでの不安を踏みにじるような足音で――

 三、四時間程度の外出だった。帰ってきてすぐ異変に気がついた。玄関の鍵や障子は開いており部屋の電気もついていたのに、そこには生物の気配がなかった。いや、生物はいる。淑やかな花々が、迷い込んだ虫が、そしてわたしが……。だが、わたし以外がいなくなった家は、わたしに対してどこまでも素っ気なかった。

 卓上には一枚の便箋が置かれていた。

 ――将司さんとは別れてください

 ボールペンで書かれているのに薄墨と小筆を使われているように頼りない字。母の手によるものだった。母の中に女を見て以来、いつかはこうなるかもしれないと身構えていた。それでも実の母親に裏切られたのは堪えた。泣いてもどうにもならないことは分かっていたが、目から溢れ出るものはどうしようもなく抑えようもなかった。

 わたしは救いを求めるように庭に目を遣った。そこに咲いている花々はわたしに対してどこまでも他人の顔をした。


    *


 蒼が帰っていってからもしばらく呆然としていた女は不意に紙とペンを取り出し、何やら書き付けた。それを二つに折ると今度は掃き出し窓を開け、サンダルをつっかけて外に出た。庭の端には使い古されたシャベルが置かれていた。赤錆の浮いた先端が血を浴びたように夕闇の中でも光っていた。古びてはいるがよく手入れされており、土で汚れているようなこともなかった。

 女は庭の端の、何も植わっていない花壇へ足を進めると、いきなりシャベルの先を突き立てた。庭を眺めていた目からは想像できないほど激しい目で乾いた土を掘り返していく。そのたびに土は血のように飛び散り、女の足を汚した。

 ゴツと鈍い音がした。

 女――紅葉はシャベルを放り捨てるとその場に屈み、土の中のわたしを見た。

「母さんが悪いんだからね。母さんが……」

 三日前、彼女は今と同じようにその言葉を口にした。わたしに刃先を突き立て、それと同じくらい鋭い視線で……。

 紅葉はわたしにまとわりついた土を払い落とすと、シャベルを軽く洗ってから、わたしを抱き上げ家の中に入った。ぽっかりと口を開けた穴の中には秋夜の闇が広がっている。その中でタイムカプセルだけが月明かりに輝いていた。

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