第5話 暇つぶしの会話
ネズミの巣は観光地じゃない。
そもそも、人が暮らす場所として比較的まともなのは上から三層ぐらいで、その下はとても酷いことになっていると聞いている。
私も実際に下層を目にしたことは無かった。
キャプテン・ウォードに立ち入ることを厳しく戒められている。
上の三層だって見るべきもの、面白いものがあるわけではなかった。
三食昼寝付きの好待遇だが、お客さんは解放されるまですることがなく退屈する。
まあ、無事に解放されるか分からない不安があるので、大人しくしているのが普通だった。
その間の退屈しのぎは、自分の監視人との会話ぐらいしかない。
レッドは先ほどの話の続きを始める。
「キャズ。君があのとき行動しなかったら、まあ、私は明日の朝日は拝めなかっただろう。だから本当に感謝しているよ」
「どのみち、ここじゃ、朝日なんざ拝めないけどね」
私がまぜっかえすが、レッドは全く気にしなかった。
「そういう意味じゃなくて……」
「修辞だというぐらいは分かっているさ。お上品な人々がそういう話し方をするってこともね。クソくらえだ。僕に感謝しているというなら、もっとストレートに話してくれ。まだるっこしくてしょうがない」
「申し訳ない。つまり私が言いたかったのは、褒美目当てだろうが、私の命の恩人だということだよ」
「あー、はいはい。口ではなんとでも言えるさ」
「今は何もあげられるものがない。私が解放されたら、私の名誉にかけて必ず恩返しをする」
私は腹を抱えて笑ってしまう。
ハンモックがゆらゆらと揺れた。
「ははは。尊き者の名誉ってやつかい。そいつはいいや。せいぜい楽しみに待っているよ。ああ、そうか。抵抗して逃げ出さなかったのも、その名誉ってやつのためか。見苦しい真似をするのは尊貴な者に相応しくない、とかなんとか言うんだろ?」
「意外だな。キャズ。君は貴族のことに詳しいんだね」
その後に飲み込んだ言葉を想像する。実は君もいいところの生まれなんじゃ……。
私は余計な詮索を打ち切らせるようと大きな声を出す。
「そりゃそうさ。ここでは何人もあんたのようなお偉いさんを預かってるからね。僕が世話人になるのは初めてだけど、話を聞いたことは何度かある。そうすりゃ、自然と覚えるってもんさ。しかし、そんなに名誉って大事かねえ。僕があんたの立場なら敵わないまでも、捕まえていた奴に噛みつき引っかいて、目に指を突っ込んでやるけど」
しばらく黙っていたレッドが笑い声を漏らした。
私は声を尖らす。
「なんだよ。馬鹿にしてるのか?」
「いや、違うよ。君が大暴れをしているところを想像しただけだ。確かに君はなんとしてでも生き延びようとするだろうね。そういう生き方がちょっと羨ましいよ」
「はあ? ふざけんじゃないよ。こっちはあんたみたいに取り繕う余裕がないってだけさ。死んだら神様のところに行けるっていうけど、こんな穴倉までは神様の目も届かないだろうよ。だったら、僕は何をしてでも生き延びて、この世で今よりもずっといい暮らしをしてやるんだ。このクソみたいな三年分の埋め合わせだ、きっと素敵なことが待ってるに違いない」
レッドは感心したような顔でこっちを見ている。
ネズミの糞を集めて乾燥させたものを燃やしたランプの光で見ても、整った顔が魅力的なのは変わらない。
私は説教を垂れてみる。
「あんた、何か諦めたようにスカしてるけどさ。一度ぐらい死ぬ気でやったらどうだい。必死で戦え。……ああ。なんかムカついてきた。僕はもう寝る」
私よりも恵まれている境遇に対する羨望をぶつけてやったが、相変わらず平然とした顔をしていた。こういうところは可愛くない。
翌朝、キャプテン・ウォードのハンモックの近くの空中食堂で朝食を頂く。
夢見亭から取り寄せた穀物粥はまだ温かい。ベーコンも二切れも乗っていた。
こいつは冷えると脂が固まってまずくなるが、温かいうちは悪くない。結構なご馳走なのに目をつぶって匙を動かさないレッドを睨みつけた。
見るのも嫌なほど、不味そうってか? まったく、これだからお坊ちゃんは……。
食えと叫ぼうとする前にレッドは匙ですくって食べ始める。
あまり美味そうな顔はしていなかったが、全部残さずに完食していた。
そこではたと気づく。すぐに食事を始めなかったのは食前の祈りを捧げていたのだと。
呆れるより感心してしまった。どれだけ育ちがいいんだよ?
ふと気づくと、ノールの粘っこい視線が私に注がれているのに気が付いて、一気に嫌な気分になった。こいつは顔はまあまあで、ここの住民にしては身ぎれいにしている。普段は寸借詐欺でかなり稼いでいた。別にそれはいい。問題は、こいつが私に懸想しているということだった。しかも、こいつは過去に物乞いをしている少年に悪戯をした前科もある。
おえ。
吐きたくなったが我慢をした。せっかくのタダ飯がもったいない。
次にノールはレッドに対しても物欲しそうな顔で観察を始める。
部屋に戻ってから、レッドに嫌な気分のお裾分けをしてやった。
劣情を向けられていると知って、さすがに顔をしかめるかと思ったが、平然としている。
「そういう手合いはどこにでもいる。自分より弱い他者を蹂躙することでしか満足が得られないのだろう。でも、趣味は悪くないな」
「は? どういうことだよ?」
「キャズは顔がいい」
「そういう冗談は面白くない」
文句を言ったが、まったく意に介さないように綺麗な顔で笑いやがった。
なんだかんだでレッドと数日を過ごすうちに気心が知れてくる。
ついに交渉がまとまり、自由都市アヴァロニアの外壁の目立たない場所で取引が成立した。一方は金の入った袋、もう片方はレッドを手に入れて左右に分かれる。
一応その場に立ち会った私は大金を手に入れられるというのにあまり気分が晴れなかった。
レッドは外壁から梯子を伝って下りると、お付きのものの用意したであろう馬に乗る。
一度だけこちらを振り返ると、すぐに体を戻し、そのまま駆け去った。
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