第2話 変身ステッキが光った。
そんな、希望に満ちた日から8年が経った。
鈴木晴香、32歳。職業:フリーター。交際経験なし。
「いらっしゃいませー。」
このコンビニでのアルバイトも、8年たった。今日も笑顔を貼り付ける。レジに並ぶ人が増えたのに、いまだに陳列している同じバイトの佐藤君に苛立ちながら。
「佐藤君。レジお願い。」
「うぃーっす。」
お客様もいるんだから「はい」か「すみません」かを言え!なんてこと、口には一切出せないけれど。のんびり来てレジを開ける佐藤君。彼は私よりも12歳も若い。そんな子に、イライラする自分が嫌だ。
私の毎日はいつも同じだ。6時から14時まで働き、買い物をして家に帰る。帰ったら、ご飯作って、食べて、小説を書いて寝る。この繰り返し。
「にゃん。」
家の扉を開くと、私の帰りを待ってくれていた黒猫のにゃん太が足元にまとわりついてきた。
「ただいま、にゃん太。」
私はかわいいわが子の頭を撫でまくった。今日一日の怒りが浄化されるようだ。
「さて、まずはご飯だね。」
6畳一間の押し入れを開けて、にゃん太の餌をきっちり計って入れる。この子だけが日々の癒しだ。保護猫で女一人暮らしに中々了承もらえなかったけれど、どうしても一緒に住みたかった。古い家だからか猫可物件だった。家に自作でキャットをウォークを作り、頼み込んだ。そしてようやく譲渡してもらえた子だった。必死にご飯を食べるにゃん太に癒されたら、部屋着に着替えて、さっそく小説を書き始める。
大学時代から使っているパソコンだった。賞を取ったら、そのお金で買い替えると決めてずっと使い続けている。最近、キーボードの「O」とエンターの利きが悪くなっている。
キャラクター設定、環境設定、プロット全部作っている。小説の書き方の本もたくさん買って、勉強して、破綻しないように書けている。もう何十回賞に出しただろう。
棒にも箸にも引っかからないわけじゃない。地方の小さい小説の賞では最終選考まで残ったことがある。あの時は嬉しかった。でもそれだけだ。それだけなのだ。
エンターが利かない!利かない!利かない!!!
ダン!
大切なパソコンを叩いてしまった。にゃん太が驚いて飛び上がった。
「あ、ごめん、にゃん太、にゃん太。」
もう嫌だ。こんな生活は。どうやって諦めたらいい?みんな、夢をどうやって諦めるのだろう。母親には実家に帰って来て、地元でゆっくり職を探しなさいとよく催促が入る。それだけは嫌だった。私は、母親のお金も、時間も労力もすべて無駄にして今ここで小説を書いている。これ以上はどうしても嫌だった。何もかも嫌だった。
「にゃあん。」
「お前意外は、だよ。」
驚かしてしまったにゃん太をそっと撫でる。でももう、いい加減、このままじゃいけない。押入れを開ける。にゃん太がおやつをもらえるのかと嬉しそうにしているけれど、違う。押入れの奥、まだ残っているはずのリクルートスーツを取り出した。幸いまだ何ともなかった。就職活動をするべきなのだろう。
だけどそれならなぜ去年しなかった。なぜ一昨年しなかった。なぜ20代の頃に。なぜ学生の時の就職活動を私は放棄した。
就職活動の時期、私はもう一つ放棄した。それは、生まれて初めて告白されたことだ。冬賀道照君。今でも名前を憶えている。就職活動の面接で何度か一緒になり、会うようになった人だった。無口な人だったが、なぜか気にならなかった。好き、だったのだろう、私も。それはまだ淡かったけれど。何回か会って、送り届けてくれて、告白された。私の回答を今でも覚えている。
「本当に本当にごめんなさい。私、小説に専念するの。」
そう言ってふったのだ。我ながら何を血迷っていたのだろう。でも当時、二つの新しいことはできない。そう思ったのだ。今、もう一度戻れるなら、もちろん受けるのに。
カタン。
押し込んでいたリクルートスーツを出すと、奥で何か音がした。古い、ディズニーランドの本型のお菓子箱。亡くなったお父さんとの思い出を入れた大切な箱。こんな奥に押し込んでいたんだ。蓋を開くと、お父さんの写真。そして、小さい頃、お父さんに買ってもらった大好きだった魔法使いの変身ステッキ。お父さんは、私がこれを使って永遠に一人で戦士ごっこをするのをニコニコしてみていた。毎日毎日、新しい物語を作って見せた。お父さんは心臓が弱くて、寝たきりなことが多かった。結局、発作で私が6歳の時に亡くなってしまったけれど、その前日も私は新しい物語を作って披露していたっけ。
そうか、だから私は物語を書くのが好きになったのかもしれない。少し黄ばんだそのステッキを手に取る。
「お父さん、私、変身できなかったよ。」
電池も入れていない、つく筈のない、その変身ステッキのスイッチを私は淹れてみた。それが、光ったのだ。とても眩しく。
「にゃいん!」
最後に、にゃん太の声が聞こえた気がする。
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