第9話




「梨奈ちゃんがいてくれて本当良かったよ。ありがとう。」



 ハナちゃんとお母さんを見送り、撮影機材を片付けていると、佐藤さんから笑顔でお礼を言われた。



「い、いえ。」


「ハナちゃん、とっても楽しそうだったし、お母さんもとても喜ばれていたよ。ハナちゃんがこんな風に思いっきり楽しんでいるのを見るのは久しぶりだって、涙ぐまれていたよ。」


「それは……。」



 ハナちゃんは保育園に入園しておらず、一日中家庭にいる。子どもと二十四時間二人っきりということで、疲弊してしまうお母さんも多い。今朝のハナちゃんのように愚図りやすい時期だと余計に難しい。今日のハナちゃんはたまたまにゃんこマンのパペットを気に入ってくれて、たまたま遊ぶ気になってくれただけだ。そんなことを佐藤さんに説明し終わってから気付くーーーまた余計なことを言ってしまった、と。だが、佐藤さんは予想に反し、変わらず笑顔で最後まで話を聞いてくれていた。



「この仕事も人間相手だからね。思ったような反応じゃないことが殆どなんだけど、梨奈ちゃんみたいにそれを理解して対応してくれた方が助かるんだよ。」



 上手く出来るって自信がある人は、良い表情を引き出せなかった時に焦っちゃうからね、と佐藤さんは続けた。


「そう、ですか。」


「うん。それにね、ハナちゃんと遊ぶ梨奈ちゃん、楽しそうだったよ。さすがだなぁ、って思ってた。」


「……。」



 保育園で働いている時、絶対に自分のプライベートな感情は職場に持ち込まないと決めていた。だが、ある時、気持ちが漏れ出てしまったようで子どもたちに心配を掛けてしまった。


 ”りなせんせい、だいじょうぶ?”


 ”りなせんせい、おなかいたいの?”


 ”りなせんせい、おはな!どうぞ!”


 子どもたちの声が鮮明に思い出せる。子どもたちの優しさに、心の奥まで癒され、そして、自分に絶望した。保育士として失格だと、突き付けられたようだった。保育園を退職したことも、引っ越したことも、別の理由だが、このことは私の温かくも苦い思い出となり、退職のマスへ一歩近づいていた。



「梨奈ちゃん?」


 急に言葉を失った私を、佐藤さんが心配そうに覗き込んだ。


「あ、すみません。」


「俺、何か変なこと言っちゃった?」


 眉尻を下げた佐藤さんを見て、私は慌てて首を振った。


「いえ……ただ……。」


「うん?」


「……私、自分が駄目な保育士だとずっと思っていて。」


「うん。」


「だけど、今日ハナちゃんと遊んで。佐藤さんに褒めてもらって。少しだけ、ですけど、保育園で頑張って良かったなぁと思えました。」


 私の言葉に佐藤さんはいつもと変わらない笑顔を見せ「そうだね。」と頷いた。少しだけ、ほんの少しだけ、苦い記憶を受け入れられたような気がした。




12



 出張撮影終わりに、佐藤さんに連れて来て貰ったのはカレー専門店だった。スパイスの香りが食欲を誘い、急に空腹が感じられる。



「あ、チーズナン。」


「美味しいよね、ここのはオススメだよ。」


 つい溢した言葉も、佐藤さんはいつも拾ってくれる。私は嬉しい筈なのに、身体の奥底がモゾモゾするような落ち着かない気分になる。



 私は豆カレーを選び、佐藤さんはマトンカレーを選んだ。勿論チーズナンも注文し、トロトロのチーズともっちりした生地を楽しむ。



「美味しい!」



「良かった。梨奈ちゃん、こっちも食べてみて。」



 そう言って佐藤さんはマトンカレーを差し出す。私はつい意識してしまうが、佐藤さんは私に美味しいものを食べさせよう、という気持ちしかないようだ。気まずい気持ちはありながらも、私は食欲に抗えなかった。



「お、美味しい。」


 私が頬を緩めるのを、佐藤さんは優しい眼差しで見ている。その視線に気付くと、また居心地が悪くなり、私は目を逸らした。





「セットでデザートも付くんですね。」


 食べ終わった頃、ミルク味のジェラートが運ばれて来る。熱くなった口の中を冷やしてくれて心地良い。ジェラートに夢中になっていると、佐藤さんが徐ろに口を開いた。



「ちょっと気になっていたんだけど……。」



「はい?」



「梨奈ちゃんは、こっちに来るまで随分遠方にいたんだよね?ここが地元では無いみたいだし、どうして引っ越してきたのかなって。」


 不思議そうに尋ねる佐藤さんの言葉を聞き、私の心は口の中と同じようにひんやりと冷えた。大丈夫、大丈夫。自分で自分を慰めた後、私は話し始めた。



「子どもの頃は、この近くに住んでいたんですよ。中学生の頃、祖父母の介護があって引っ越しましたけど。」



「そうだったんだ。」



「縁あって、県外の保育園に勤めて……だけどさっき言ったように保育士にあまり向いてないと感じていたのと、激務だったのもあって。体調を崩しがちになって退職を決めました。」



「……大変だったね。」



「いえ、今は元気なので……それで退職するなら、子どもの頃暮らしていたこの街に引っ越そうと思ったんです。実家へも一時間くらいで帰れますしね。今までは飛行機の距離で不便だったんです。」



「なるほど。」





 説明が終わり、特に不審がっていない佐藤さんの顔を見て内心ホッとする。この質問はいつか来ると想定していたから、準備していた答えを伝えただけだ……勿論嘘は一つもない。退職の理由も、引っ越し先を決めた経緯も本当のことだ。




 ただ、話していないことがあるだけ。



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