第9話 忘却と異変
絵を描いている時だけはすべてを忘れることができた。痛みも苦しみもどこかへ行ってしまったような、そんな錯覚に陥る。
今も昔も、転生前も転生後も絵を描いている時だけは痛みが消える。
エインフェルトは太ももを撫でる。鈍い痛みがずっと続いている。
「痛みますかな?」
「うん、少し、痛い」
黒いアザのある脚、まったく動かない両脚。触っても叩いてもつねっても何も感じないのに、何もしていないのに、痛い。
王家の血を引く者に現れる呪いのアザ。
今は脚が痛いだけですんでいる。激しい発作は起きていないし、気を失うほどの激痛を感じているわけでもない。今のところただ脚が痛むだけだ。
それなら問題はない。絵を描いていれば忘れてしまえる。
やっていることは転生前と変わらない。
絵を描く。木炭、インク、筆、絵の具、カンバス。紙の質は転生前の物より良くはない。絵の具もチューブの絵の具など存在しないので、自分で調合しなくてはならない。デッサンやスケッチには木炭を使うから手が真っ黒になってしまうこともある。
前よりも絵を描くのは大変だ。けれど、楽しさは前とまったく変わらない。
楽しい。楽しくてたまらない。ずっと、ずっと絵を描いていたい。
そう、ずっと、ずっと、すっと。
ずっと絵を描いていたい。それがエインフェルトの今の願いだ。
ずっと、いつまでもずっと。
「……ずっと」
呪い。死の呪い。
死ぬ。
絵を描くエインフェルトの手が止まる。
エインフェルトは太ももを撫でる。
エインフェルトは絵を描き続けている。そして、いつの間にか3ヶ月が経っていた。
その3か月の間に誕生日を迎えた。
特に感慨はなかった。なにせ他人の誕生日なのだ。自分の本当の誕生日ではないのだ。
いや、何も感じなかったというのは嘘だろう。ただ、あまり実感がわかなかったというのが正確なところだ。
5歳になった。5歳。
そういえば、と思い出す。
そういえば、ヒトミさんと出会ったのも5歳の時だったな、と。
前世で出会った絵の先生。あの人に出会ったから絵を描く楽しさを知れたのだ。
いつまで絵を描いていられるのだろう。
部屋を見渡す。今、生活している古城、その敷地内に作られた屋敷。その部屋のひとつにいる。
それほど広くはない部屋だ。窓から光が差し込んでいる。
ガラス。窓ガラス。転生前の世界で見た大きくて薄い板ガラスではなく、小さな厚めの板ガラスが何枚もはめ込まれたガラス窓。
この世界は文明的にはどれぐらいなのだろう、とエインフェルトは思う。数カ月が経過してやっとそんなことを考え始める。
いろいろ考えてはいた。いろいろなことをウォレスたちに質問してきた。
この世界について、この国について。
けれど知らないことはまだたくさんある。この世界の文明レベルは? 前世との違いは?
この世界には魔物がいるらしい。魔法もあるようだ。けれど、今はどちらにも触れていないし見てもいない。
見たい、と思った。改めて外に、城の敷地の外に、窓からも見えるあの高い城壁の外に行ってみたいとそう思った。
けれど、出られない。もどかしい。
好奇心がうずいていた。そんなもやもやを抱えながら絵を描いていた。
そんなある日のことだった。
ある日、エインフェルトが庭でスケッチをしていると目の前に真っ白なリスが現れた。白いリスを見るのは初めてで、エインフェルトはすぐにスケッチを始めた。
不思議なことにそのリスはまったく逃げる様子を見せなかった。そして、エインフェルトがスケッチを終えると、それを確認したかのようにエインフェルトをちらりと一目見てからどこかへと走り去っていった。
そんなことがあった翌日のことだ。
「……いない?」
翌日、前日に描いていた絵を見返していたエインフェルトは異変に気が付いた。
描いたはずのリスの絵が紙の中から姿を消していた。
何度も確認した。しかし、何度確認してもリスの絵は見つからなかった。
夢、気のせい。いや、その時はウォレスが側にいた。ひとりでは移動が難しいエインフェルトの側にウォレスがいた。
「はい、確かに描いていたはずですが……」
ウォレスも見ていた。白いリスとそのリスを描いているエインフェルトを覚えていた。
エインフェルトは太ももを撫でた。どうやらそれがクセになっているようだった。
「……あれ?」
エインフェルトは太ももを撫でたていた。そして異変に気が付きその手を止めた。
もう一度脚を触ってみる。
「触ってる……」
自分の脚を何度も触る。触って何度も確認した。何度も確認し、右の太ももの付け根あたりで手を止めた。
エインフェルトは太ももをつねった。
痛い。痛み。呪いの痛みとは違う痛み。
その日、絵に描いたリスが逃げ出した。
それが始まりだった。
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