第5話 自分と自分

 自分は誰なのかと問いかける。


 何かの声を聞いて、何かに呼ばれて、目が覚めて。


 目が覚めると知らない誰かになっていた。


 髪は黒から月の明かりのような淡い色の金髪になっていた。瞳も澄んだ空と同じ青い色をしていた。体も縮んでいて、確実に幼くなっているようだった。


 自分は誰だろう、と考える。


 菱木健太。確かに自分はそんな名前の人間だったと思う。と彼は自分に問いかけるが確信が持てない。


 自分は菱木健太だと思う。けれど鏡に映る自分の姿はまったく知らない誰かのものだ。


 そして、そんな彼のことを知らない名前で呼ぶ人たちがいる。


 何が起こったのかはわからない。ただ、おぼろげにだが覚えている。


 お前は死んだのだ、とはっきりと言われたこと。誰だかわからないが、死んだのだとそう告げられた。


 では、なぜ生きているのか。もしかしたら、これは夢なのか。


 夢。だとしたらもっと自由でもいいはずだ。だって、夢なのだから。


 彼は脚をさする。夢ならもっと自由でもいいのに、とそんなことを思いながら足をさする。


 脚。その脚は全体が真っ黒な斑のアザに覆われている。脚の付け根から足の指の先まで覆う黒いアザ、そのアザの部分を触ると皮膚とは思えないほど固く、触っても叩いても痛みも何も感じなかった。


 そして、まったく動かすことができなかった。自分の脚のはずなのにまるで人形の足が取り付けられているかのようにピクリともしないのだ。


 不自由。彼は不自由にはそれなりに慣れているほうだった。長い間病弱で入退院を繰り返し、学校にもまともに行ったことがなく、遠出をしたことも片手で数えられるぐらいしかない。そんな人生を送ってきた。


 菱木健太の人生はそんな人生だった。自由とは程遠い、そんな人生だった。


 だから、不自由にはそれなりに慣れているつもりではあった。けれど、今はそれ以上に不自由だった。


 脚が動かないのでまともに生活もできない。立って歩くことができないので移動は常に車椅子か、誰かの背中に負ぶさっていくしかない。トイレだって一苦労だ。着替えをするのも難儀するほどだ。


 体だけではない。置かれている環境も不自由だった。なにせ出られないのだ。


 おそらくそこは城だった。かなり古い城で、その敷地から出ることができなかった。


 高い頑丈な石の壁に囲われた古いお城。目が覚めると城の中にいて、目覚めてからは一度も外へは出ていないし、外へ出たいと言ってはみたがその願いは頑なに拒否されてしまった。


 この城の中が今の自分の世界のすべてなのだ。と、理解するのに数週間かかった。今、自分が置かれている状況がどんなものなのか把握するのにそれだけの時間がかかった。


 目覚めて最初の頃はかなり頭が混乱していた。そんな時に目の前に現れた知らない人、ウォレスという名の老人とナイリルとネイリルという二人の女性。


 ウォレスは言った。エインフェルト様、と。


 それが名前であるとなんとなくわかった。だが、最初は誰のことなのかわからなかった。その名前が自分のことを言っているのだと理解するのにしばらく時間がかかった。


 状況がわからなかったので混乱しながらも聞いてみることにした。けれど言葉が通じなかった。


 口から出てきたのは日本語。しかし、語りかけられたのは知らない言葉。それが言葉だとはわかったのだが、意味を理解できなかった。


 ただ、それは最初だけだった。聞いているうちに相手が何を言っているのか理解できるようになっていった。


 それと同時に別の記憶も蘇ってきた。正確には混乱していたものがはっきりとしてきた。


 自分は菱木健太である、という記憶があった。それと同時にエインフェルトという少年の記憶も存在していた。その記憶のおかげで相手の言葉を理解することができたのだ。


 だが、その記憶はとても曖昧なものだった。全体的にぼんやりしていて、苦しくて、つらくて、とても寂しい記憶だった。その記憶のおかげで自分の置かれている状況が理解できた。


 生まれてから今までこの城から出たことがないエインフェルトという少年。それが今の自分なのだ、と理解した。


 それから数週間。目覚めて、自分がエインフェルトだとなんとなく理解してから数週間、彼は記憶喪失のふりをしている。死から蘇った影響で部分的に記憶を失っている、ということにしていた。


「ハイリルさん、あれは何?」

「あれは花です」

「なんていう花なの?」

「バラです」

「名前は?」

「黄金のバラ。この国と王家を象徴する花とされています」

「ふーん、学名は?」

「学名?」

「あ、えと……。なんでもない」


 と、こんなような会話を数週間繰り返している。そのおかげで身の回りの物の名前やそれ以外のこともだいぶ把握することができた。


 把握できたが、少し不思議に思うこともあった。

 

「ありがとう、ハイリルさん」

「…………いえ」

「?」

 

 ありがとう。その言葉を言うとなぜだかみんな少しの間戸惑ったような顔で言葉を詰まらせるのだ。若干驚いているような、何かを疑っているようなそんな顔をするのだ。

 

 みんな、と言ってもこの城には彼を含めて4人しかいない。エインフェルトとウォレス、ハイリルとネイリルの4人だけ。


 自由はなかった。しかし、彼は前向きだった。


 時間はある。たっぷりある。


 なら、絵を描きたい。


「こちらがお望みの画材一式でございます」


 外に出たい、という願いは聞き入れられなかった。けれど、これが欲しい、という願いは簡単に聞き入れられた。


 だから、頼んだ。


「ありがとう、ウォレスさん」

「……いえ、王子のお望みとあらば」

「……?」


 彼は手に入れた。絵を描くための道具を一式。


「これで、絵が描ける」


 自由はない。この城からは出られない。けれど時間はたっぷりとある。


 絵が描ける。それだけで彼は満足だった。


 それが彼の生きがいであり、人生であり、生きる目的だった。


 自由に好きなだけあらゆるものを自由自在に描く。それが彼の、菱木健太の夢であり目標であり、生きる意味。


 まだ、絵が描ける。そう思うだけで彼の心は躍っていた。

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