第23話 交

 どれほどの間、気を失っていたのだろう。

 波間を揺蕩たゆたう感覚に身を任せ、再び目を閉じる。


「——い、おい、しっかりしろ!」


 くぐもった声に重い頭をあげれば、私の腕を引いて泳ぐハル君の姿がぼんやりと見えた。

 行き場を失っていた足は次第に浅瀬を踏み締め、遂には波をも置き去りにして進む。


「……生きてたのね、私達」

「……意識が戻った時はもう、死ぬかと思ったけどな」


 あなたとなら別に、死んでも。そんな、つまらないことを口走りそうになって自嘲する。


「夜の海って、夏でも冷たいんだな。初めて知った」

「そう? 私はぬるいと思ったけど」

「……相変わらずだな、そういうところ」

「それ、どういう意味?」


 にらむ私を見て、体に張り付いたシャツをつまみながら、彼はこらえるように笑う。


「変わってなくて、よかったって、意味」

「……何それ」


 手に力を込めて初めて、泳いでいる時から今も、繋ぎっぱなしだったことに気がつく。ぬるりと滑った海水越しに彼の体温を感じて、思わず顔を背けてしまった。


 ハル君は、真っ直ぐ前を見つめたまま、おもむろに足を止める。


「ありがとう、助けてくれて」


 少し見上げれば、僅かに悔しさをにじませた彼の表情が目に入った。


「いつも自分勝手で。一人で決めて、動いて、挙げ句の果てには死にかけて。……それでも、助けに来てくれて、ありがとう」

「……あなたのためだけじゃない」


 握り返された手を緩め、ほんの少しだけ指を絡ませる。


「コハクの仇も打ちたかったし、あなたの両親との約束も守りたかった。それが結果的に、あなたを救った。ただ、それだけ」


 それに。こぼれた言葉を拾うように、絡めた手を頬に添える。


「それに、あんな子供騙しの魔法で私を惑わそうなんて、思い上がりもいいところね」


 月明かりに浮かぶ彼の不貞腐ふてくされたような表情が、セピア色の記憶と重なった。

 一瞬だけ、あの頃に戻れたような、そんな気がして、淡い懐かしさに顔がほころぶ。


「……何、笑ってんだ」

「別に? 何でもな……」


 パッと手を解かれ、視界が暗闇に染まる。


「んっ」


 息を吸うことも、吐き出すことすらも許されなくて。目の前から温もりが離れた刹那、ようやくキスされたのだと気がついた。


「……やられっぱなしは、性に合わないし。もし仮に、元に戻ることがあったとしたら、一番最初にこうするって決めてた」


 素直じゃない。何年たっても、やっぱり意地っ張りで頑固。そういうのは、どうやらお互い様らしい。


「相変わらず、自己中な男」

「そっちこそ」

「……おまけに、能天気で考えなし」

「それは……。わかってるよ、それくらい」


 帰り道を探るようにゆっくりと歩き、自然と手を繋ぎ直す。


「ねえ、月」

「え?」


 上を向く。遠ざかる波音だけが、この空間を支配している。


「綺麗ね」

「何それ、告白?」

「……どっちも」


 空を仰げば、優しい眩しさが目に染みた。

 驚く彼の手を引いて、少しだけ背伸びする。


「私だって、やられっぱなしはごめんだわ」


 今更ながら、私はやっと、自分自身の心も体も、運命ごと飲み込んでしまえたように思った。

 彼の瞳越しに見た月は、今までのどんな景色よりも美しく、忘れられない色をしていた。

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