第18話 現

 ——とても、酷く長い夢を、見ていたような気がする。

 目を開けて、体を起こして。その何気ない毎日が、掛け違えたボタンのように少しずつ、狂っていくような……そんな夢。

 手探りで止めたスマホのアラームは、七月七日、午前七時を指していた。

 クローゼットから取り出した半袖のポロシャツに腕を通し、寝ぼけ眼で鏡を見つめる。そこには相変わらず、冴えない顔の自分が映るだけだ。


「春彦ー、朝ご飯出来てるわよー!」


 母の声に一つ、気だるげな答えを返しながら、部屋を出て、顔を洗って食卓の席につく。


「そういえば……今日、七夕祭りの日、よね。父さんも早く帰ってくるみたいだし……久しぶりに、家族みんなでお参りに行く? その、春彦がよければ……だけど」


 中学時代の事故のことを気にしているのだろうか。そう言ってご飯を口に運ぶ母も、隣で黙って新聞を読む父も、どこか遠慮がちだ。


「……もちろん! 行けるなら三人で行こうよ。超楽しみにしてるからさ」


 その返事に、両親は一瞬顔を見合わせて、わずかに口元をほころばせた。


 家を出て、通学路の角を曲がる。心なしか、いつもより足取りが軽い。いかにもな家族らしいイベントに、少しだけ期待をしてしまっているせいだろうか。


「ハルっちー! お、は、よ!」


 強く背中を叩かれ、いつも懲りないな、と思いつつ苦笑いで後ろを振り向く。


「おはよう、田中


 しかし彼の表情は、こちらの予想とは裏腹に、若干のうれいをはらんでいるようにも見えた。


「どうした? 気分でも優れないのか?」

「いや……別に。それよりもさ! 早く行かないと、遅刻だ遅刻!」


 そう言うと彼は手を引いて、道の先へ先へと急ぐ。その強引さに、今にも足がもつれてしまいそうだ。


「……なあ、一つだけ、聞いてもいいかな」


 走りながら、彼はポツリと言葉を漏らす。


「なんだよ、急に改まって」


 足は止まらない。その至って真剣な顔に、思わずこちらまで緊張してしまいそうになる。


「僕のさ、好きな飲み物って——何だと思う?」


 どうしてそんなことを、今、聞くのだろう。

 わからない。何故、何のために。


「それは」


 口に出そうとして、ふと気がつく。

 ——わからない。そもそも、彼とどうやって仲良くなったのかすら思い出せない。

 何かがおかしい。

 スッポリと、抜け落ちている。

 重大な、何か、決して忘れてはいけないような大切なものが、自分の中から確実に欠けてしまっているような。


「やっぱり、君は……」


 言いかけて、彼はギュッと口をつぐんだ。一度は緩まったスピードが、エンジンをかけ直したかのように再び加速を始める。


 ほんの小さな違和感は、呆気なく日常に塗りつぶされていった。

 つまらない、平穏な——かつて自らが望んだ、日常に。


 §


『本当に、これでよかったのかい?』


 目の前で気絶し、横たわる男子校生の体。その頭に手をかざし、見よう見まねで魔力を小さく流し込む。


「……全て忘れて、普通の人間として幸せに生きてもらう。それが、今の自分にできる最大限の償いだと思うから」


 額を合わせたあの瞬間、見えてしまった。何を考えているのか。何をしようとしているのか。その一瞬で、わかってしまった。


「嘘つき。全部返すと言いながら……入れ替わってから今までのこと、魔法少女についてのこと、丸ごと消して、なかったことにするつもりだったくせに。自分に関する記憶を消した後で、行方をくらませようとしていたくせに。……いい加減離れるべき? は、冗談じゃない。そんな自分勝手な考えで救われたって、は、全然嬉しくない!」


 あの時感じた、魂が触れ合い、繋がるような温かさ。きっとその感覚を俺が受け入れてさえいれば、今頃は元の体に戻っていて。けれど、そのありがたみすらも忘れて、以前のように何食わぬ顔で日々の中に溶け込んでいたことだろう。


「フウに出来たんだ。俺に、出来ないわけがない。フウにはこれから、俺として——川谷春彦としての人生を、歩んでもらう。これが、俺なりの『エゴ』ってやつだ」

『君は? ハル君自身は、どうするつもりなのかな』

「……どうせ、二年前に死んでるはずの命だし? 有効活用して、世界の裏で暗躍するヒーローになるってのも、案外悪くないと思ってさ」

『そうか。それが、その言葉が……言い訳ではなく、嘘偽りのないものであることを、僕は切に願っているよ』


 かつての自分だった体を抱えて、家まで運ぶ。不用心にも窓は開けっぱなしだった。眠りについたその無垢な顔に、ベッドの上でさよならを告げる。

 涙のかわりに、小さな吐き気が込み上げて胸を潰した。窓から一歩踏み出して、飛ぶ。

 後悔は、なかった。




 いや、むしろ。今となっては、この選択は正解だったと感じる。

 祭囃子が響く夜の中、俺は急いで崖下の砂浜へと向かっていた。


「おい、マジなのか……? だって、あのコハクだぞ」


 フウではきっと、耐えられなかったに違いない。たった一人の友達だ。絶望の末、何をしでかすかわかったものじゃない。


『残念ながら、大マジだよ』


 かすかに見える。砂浜に立ち尽くす人影が、遠くの海面にぼんやりと揺蕩たゆたっている。吹き上げた潮風に運ばれて、いくつかの灰が星々のようにまたたいた。


『——コハクは、死んだ。いわゆる、魔法少女狩りの餌食となって』

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