第17話 解

 その時、脳を縛っていた何かがほどけたような気がした。疑惑が、一瞬で溶けて、にじみ出た後悔が脊髄を刺激した。

 足は、ひとりでに崖の淵へと駆けていく。


「あ、お嬢ちゃん、どこへ行くんだい!?」


 周囲の空気を振り切ってひた走る。一歩踏み出すたびに、光のリボンが少しずつ手足に絡みつく。歩幅が、広くなっていく。


 二年前のあの日もそうだった。イジメの末、友達に裏切られて自暴自棄になった俺は、祭りが終わって静まり返った神社に一人で向かい、最後の参拝を済ませたその後で。


『……思い出して、しまったんだね』


 体が宙を舞った。ついさっきまで自分がいた場所が真下に見えた。眼前に迫り来る事故現場の道路に、確かな既視感を覚える。

 ——そうだ。「ぶつかる」と思った瞬間、フロントガラスの衝撃が全身を貫いて、俺は意識を失ったんだ。

 呼吸を忘れてしまうほどの錯覚とは裏腹に、今の自分は光に包まれ、傷一つない姿で道端に転がっている。


「俺は、確かに死ぬはずだった。衝動的に飛び降りて、自らを死なせるつもりだった」


 でも、死ななかった。通りすがりの車を巻き込んで、即死をまぬがれてしまった。


『その後、急停止した車にトラックが突っ込んで……あとは君にも、大方想像が付いているんじゃないかな』


 ひび割れたガラス越し。一度きりの視線の交わりが、残る最後の記憶だった。

 その瞳は、紛れもない幼馴染の、くらい絶望を静かに、おぼろげに映し出していた。


『だから言っただろう? フウは、君のために、魔法少女になったんだって』

「……俺のため? 違うだろ。俺のせいで、の、間違いだろ」


 フウは死んだ。俺が自殺しようとしたばかりに、巻き込まれてフウも、その家族も、死んでしまった。

 みんなみんな、俺の気まぐれな希死きし念慮ねんりょに殺された。

 殺した。俺が。殺してしまった。


『違わないよ。潰れた車から漏れ出したガソリンは、確実に君を濡らしていた。魔法少女の体を得るのがあと一歩遅ければ……フウの選択次第では、君はあのまま焼け死んでいた』


 その結果、フウは操り人形としての宿命に囚われてしまった。自分の死に怯えながら、心をすり減らし戦い続ける。そんな魔法少女の檻に、自らを押し込める羽目となった。


『記憶を消したのだって、君がもう一度、変な気を起こさないようにするためだ。君を、死なせないためだ』

「どうして……どうしてそこまでするんだ……。どうして! そんな、助ける価値もないクズなんかのために……!」


 涙すら流せない自分に反吐が出て、仰向けのまま何度も何度も地面を叩く。


『それは……』


 むせ返りそうな夏の匂いを遮って、頭上に誰かの影が差した。

 心地よい温もりが、唇伝いに喉を塞いでいる。


「もう、それ以上は言わないで。私の大切な人を——そんな風に、言わないで」


 少し掠れた声が、吐息と混じり合って頬に張り付いた。かすかに血の味がした。離れたその唇には、噛み締めでもしたかのように、赤く切れた跡が見え隠れしていた。


「……どうして、ここに?」

「探していた。本当は、かけた魔法が切れてしまう前に、会って話をするつもりだった」


 結局、間に合わなかったけれど。そう彼女は苦笑いして、俺の手を取り抱き起こす。


「辛い思いをさせてごめんなさい。私のエゴに、巻き込んでしまってごめんなさい。今更謝っても、遅いかもしれない。でも」

「何、言ってるんだよ……。辛い思いをさせたのも、巻き込んだのも全部俺だ。謝ったところで許されないことをしてしまったのは、この俺の方だ! ごめん。本当に、今までずっと、ごめん……!」


 しがみつくように抱きしめた体は、大きく、温かく、そして離れがたかった。けれどフウは、俺の肩を掴んで、優しく、ゆっくりとその腕を引き剥がす。


「……幸せだった。でも、終わりにしましょう。こんな独りよがりな茶番、もう、やめにしてしまいましょう」


 ——いだ海のようだ、と思った。

 フウは、穏やかな微笑みを浮かべながらそっと、額と額を突き合わせた。


「あなたから、奪ってしまったもの全て。一から十まで、あなたに返すわ」

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