第5話 体

 教室の扉に手をかけ、一歩踏み出す。


「えー、つまり、ここの一文でこの男の心は一変したというわけだが……」


 建て付けが悪く、授業中にも関わらず派手な音が響いた。それでも、誰も振り向こうともしない。俺の存在は今、この狭い世界にすら認知されないちっぽけな空気そのものだ。

 窓際の席に座り、机に突っ伏す。


「……あいてっ」


 不意に頭をはたかれ、仰ぎ見ればそこには、教科書を掲げた先生が呆れ顔で立っていた。


「遅刻してきた上に居眠りとはいい度胸だな、貴様。ちょうどいい。ここの問題、答えてみろ」

「え……は……」


 これは予想外だ。今朝のことからてっきり、誰の認識も受けないものだと思っていたのに。


『さっきのシャドー討伐によって、ある程度魔力は補充されているからね。そりゃあ存在感も増すさ。雀の涙ほどではあるけど』

「それは何より、喜ばしいことで」

「……お前なぁ、恋人が殺されて喜ばしいわけがないだろう! もういい。じゃあ次、川谷」


 急な指名を受けた俺ことフウは、多少動揺しながらも教科書に目を落とし、淡々と呟いた。


「こんな世界、いっそのこと壊してしまおうか」


 教室がしんと静まりかえる。そりゃそうだ。普段の俺は、どちらかと言えば明るさだけが取り柄なタイプだし。


「まあ近いっちゃ近いが……少々、物騒すぎるな。正解は——おっと、時間だ。今日の授業はここまで」


 号令とともににぎやかさを増す教室の中で、俺は再び机に突っ伏した。疲れた、という言葉で片付けるには余りあるほどに、今まで色々とありすぎた。


「ちょっと、いいかな」


 顔を上げるような暇もなく、手を掴まれ強引に外へと連れ出される。何だよ、今朝は無視したくせに。


「……ちょ、おい、フウ! もう少し優しく出来ないのかよ。一応女子だぞ、こっちは」

「ああ、ごめんなさい。でも魔法少女って、そんなにやわじゃないから」

「うぐっ、それはそうかもしれないけど……気持ちの問題だよ、気持ちの」


 空き教室に入り、フウは扉を背にしてパッと手を離す。


「ほら、話があるんでしょ。休憩時間が終わる前に、さっさと済まして」

「……どうして今朝は、シカトしたんだよ」

「遅刻したら、困るから」


 表情一つ変えずに、フウはそう言ってのける。


「……どうして、入れ替わった時、何も教えてくれなかったんだよ!」

「どうせ必要なことはフライが全部教えてくれたでしょ? これ以上、何を教えろっていうの」


 聞きたいことは山ほどあった。お前がいつ死んで魔法少女になったのか。今までどんな思いでシャドー相手に戦ってきたのか。

 この入れ替わりは、意図的なものなのか。

 お前、本当は——魔法少女なんて、もう辞めてしまいたかったんじゃないのか?


「登校前、シャドーをさ、一体倒してきたんだよ」

「そう」

「そいつは昨日お前が取り逃したやつで、俺でもバッチリ倒せた。でも、体は元には戻らない。……これって、どういうことかわかるか?」

「さあ」


 まだシラを切ろうとするフウに、思わず怒りが込み上げる。衝動的に襟首を掴んだ。……びくともしない。その体格の差が、俺をますます惨めな気持ちにさせる。


「とぼけるなよ! お前だろ、お前がっ……その、入れ替わりの黒幕——」

「それは、違う」


 襟首に伸びた華奢な手を、大きな手が優しく掴み返す。


「ねえ、この手。不思議だと思わない? 昨日はあんなに複雑骨折みたいになっていたのに、今じゃすっかり元通り」


 確かに、そうだ。俺の体はあの時ボロボロで、腕だって使い物にならないほど酷かった。それなのにたった一日で、ギプスも何も無しなんて……。


「そんなに原因が知りたいなら、教えてあげる」


 顔が近い。手が熱い。目の前にあるのは自分の体なのに、なぜか無性にドキドキする。


「お、おい、待て。ちょっと、待って」


 フウは、俺の手を掴んだまま、その人差し指をゆっくりと口に含んで。


「や、やめ」


 思いっきり、噛み砕いた。

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