異世界人と黒猫と

「ごめんなさいね。あの子たち、悪気はないのだけど」

 クロエに先導されて、沙彩は通路を抜けて外へ出た。振り返り先ほどは何も読めなかった看板を見ると、自分が読める字に変化していた。

「関係者以外立ち入り禁止、利用者は表より来館してください……?」

「あら、カイリの魔術は成功しているわね。さすが」

 クロエは尾をピンと上に立てて、我が事のように誇らしげである。

「簡易宿泊所まで少し距離があります。聞きたいことがたくさんあるでしょう?」

 金色の目が、沙彩を真っ直ぐ見る。

 確かに、気になることはたくさん――というかほとんどがそうなのだ。むしろ理解できていることがほぼない。わかっているのはここが日本ではないこと、理解できないことがたくさんあることぐらいだ。

 返答に答えあぐねていると、クロエはとことこと歩き始めた。沙彩は慌てて追いかける。ここで迷子になるわけにはいかない。

「聞きたいことは決まったかしら?」

「いえ、わからないです。聞きたいことがありすぎて」

「そうでしょうね。今までとは違う環境に放り出されてしまったのですから、その迷いは正しい反応と言えましょう。なら、この施設についてでも……あら」

 クロエがレンガ造りの建物を見上げる。それにつられて視線を移すと、壁に貼り付いてこちらを見下ろしている巨大な爬虫類がいた。

「大丈夫ですよ、やもりさん。彼女はわたくしがお送りしますし、お迎えもいたしますわ」

 やもりさんはぎょろり、と目を動かすとその場でUターンして壁を登っていった。

 知らず知らずのうちに息を止めていたようで、巨体が見えなくなってから大きく息を吐いた。それに気づいていたらしいクロエが「ふふ」と、人間のように笑う。

「そこまで恐れる必要はありません。彼はこの図書館の番人。敵意があればすでに排除されています」

「そ、そうなんですか……」

「彼はあなたを気にしてくれているのですよ。何を思っているのか……知りたければ、カイリにお尋ねなさいな。あの子なら教えてくれるでしょう」

 カイリを子ども扱いするような物言いに、いったいこの猫は何歳なんだという疑問が浮かんだが、何となくはぐらかれそうな気がして口にするのを止めた。

 代わりに別の質問をすることにした。

「あの、ここは図書館なんですか?」

「ええ。魔術に関する資料を収集し、魔術を学ぶための知識を広める施設。それがここ、王立魔導図書館です」

「なのに、宿泊所があるんですか?」

「不思議でしょう? サーヤさんのような迷い人が結構いらっしゃるので、いつかの王の命令で造られたのです」

 沙彩は左手の手首を見る。自分のように知らない場所に突然召喚されてしまった人が、これまでにも大勢いたのだろう。それこそ、王様が休む場所を新たに造らせるくらいには。

 今日出会った人々は、“条件が整えば”元の世界に帰ることができると言っていた。しかし、それがいつになるのか明言しなかった。それに、彼らの言う“条件”が整わない可能性もある。もしそうなれば、沙彩は一生異世界で宙ぶらりんの状態で暮らさねばならない。

 心に不安な気持ちが溢れ、視線が段々下を向く……が、いつの間にか足元にはクロエがいた。沙彩を見上げて一声鳴く。

「……館長さん、猫みたいな声が出るんですね」

「あら、わたくしは元々猫ですよ。普段は意図して鳴かないようにしているのです」

 自慢げに告げるクロエに、沙彩は何だかおかしくなって軽く吹き出した。

「ようやく笑いましたね」

 クロエの言葉にはっと気づかされる。

「大丈夫。カイリもクラリスも我が国が誇る魔導司書です。必ず解決策を見つけますよ」

 沙彩には猫の表情を完璧に読み取れる自信はない。しかし、今のクロエはこちらを安心させるように笑った気がした。

「……はい」

「良い返事です。そうそう、宿泊所に着いたら本を持ってきますね。読んでもらえると、選んだ司書が喜びますわ」

 そう言えば、クロエがカイリに頼んでいたような覚えがある。

「楽しみにしています」

「ええ、ええ。それから、明日の九時頃に迎えにきますので、よろしくお願いしますね」

「わかりました。寝坊しないように気をつけます」

 少しだけ足取りが軽くなった沙彩は、クロエと他愛のない話をしながら今日の宿に向かった。

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