第2話 前職は聖女、さらに前世ではブラック社員です

「……聴いていたよ」

「え?」


 唐突に、アオさまがぽつりと呟かれました。

 思わず首を傾げた私を見て何故か目を泳がせると、アオさまは短く「ラジオ」と付け加えます。


「あ……はい! ありがとうございます。今朝も無事に務めを果たすことができました。昼の部も頑張りますね」


 アオさまの相槌以外のお言葉を聞いたのは三日ぶりくらいでしょうか。今日はご機嫌がいいのかも?

 なんだか私も嬉しくなって、笑顔になるのを抑えきれません。


「お戻りは夕刻ごろになる予定ですよね? 私はちょうど夕の部の最中かもしれませんが……ご無事を祈り、お帰りをお待ちしております」

「……うん」


 また相槌だけに戻ってしまわれましたが、不思議と今日のアオさまは比較的まっすぐこちらを向いてくださっている気がしますね。

 いつもはもう少し……こう、身体を斜めにして距離をとった感じでお話されることが多いのですが。

 でも、いつもよりちょっぴり夫婦らしい気もして嬉しいものです。


 そのままエレ海山に向けて出発されるアオさまを、リイリイと並んでお見送りしました。…本当に、ご無事でありますように。

 心配ではありますが、魔海ラジオ昼の部に向けての情報収集やお便りのセレクトなどこれから着手したくてはならないお仕事もたくさんです。

 私は私のすべきことをしましょう!


「リイリイ、エレ海山のここ最近の火山活動記録にも改めて目を通したいのですが……資料をお願いできますか?」

「もちろんでありますナイアさま! リイにお任せください!」

「ありがとうございます!」


 頼れる相棒とタッチを交わし、お城の中へと戻ります。

 魔海の皆さまへ元気と安心をお届けする魔海ラジオ。

 今日も張り切って参りましょう!




 ◆ ◆ ◆




 前世、私はいわゆるブラック企業に勤めるごく普通のOLでした。

 朝早くから夜遅くまで馬車馬のように働いて、毎日のように罵詈雑言に晒されて、ベコベコに凹みながら愛車に乗って、食事もろくに取れず寝るためだけに家に帰る日々。


 そんなだから過労死で早逝したのではありますが、当時の私の唯一の癒しが通退勤の途中に車の中で聴くラジオ番組だったのです。


 朝の天気予報や交通渋滞情報、視聴者のお悩み相談。リクエスト曲。ゲストの俳優や歌手とのお喋り。ラジオパーソナリティの明るくよく通る声は、心身の疲労に呆けた私の耳にもスーッと馴染みました。

 地元が大きな地震に見舞われたときもラジオはずっと必要な情報を流し続け、励ましの声や音楽を届けてくれたものです。


 寂しいとき、辛いとき。

 誰かの声が側にあるだけで心は救われると、私は知っていました。


 竜妃として魔海のために何を為せるのだろうと悩んでいた私でしたから、アオさまとの結婚式の日に前世の記憶が戻ったのは神の思し召しかもしれませんね。

 さざなみの声を持って生まれたのも、きっと。


 とはいえ——やる気ばかりが先走り説明も何もかとすっ飛ばして、ラジオ番組をやらせてくださいとお願いしてしまった時のアオさまのポカンとしたお顔は忘れられませんけども。

 ああ、あの時のことを思い出すと本当に恥ずかしい……。


「ナイアさまー! 今日もお便りがもうこんなに届いてるでありますよー!」


 魔海ラジオ昼の部に向け、番組構成を見直していると。

 大きな貝殻の器に入った山盛りのお便りを抱えたリイリイが、嬉しそうに宙を泳いできました。

 あまりにも勢いよくやってきたので、私の水色の長い髪と泡のような白レースのドレスが風圧にぶわりとなびいたほど。


「まあ! 嬉しいことですね、こんなに……。紹介しきれないのが申し訳ないくらいです。一度、丸一日限界までお便りを紹介し続けるだけの回を設けたほうがいいのではないでしょうか……?」

「それはさすがにナイアさまの喉が心配であります! 今でさえ毎日、朝の部昼の部夕方の部に加えて深夜の部と大忙しでいらっしゃるのに!」


 びちびちと尻尾を振るリイリイの心配がありがたく染みます。

 前世ではいくら働きすぎても顧みてくれる人なんて誰もいませんでしたからね……。

 ついほろりときてしまう私ですが、しかしこれだけのお便りの山を目の前にするとさあやるぞと気合が入るのも事実。いえ取り戻した記憶のせいでブラック戦士気質が蘇ったわけではないはずです、ええ。たぶんきっと。


 お便りを開くとたくさんの魔海の方々の想いに触れることができます。

 様々な種族の方々が住んでいらっしゃる魔海を統べる竜王さまの伴侶として、魔海で暮らす皆さまを知り、その声を聞くことは重大な責務。

 魔海ラジオのお便りコーナーはそのためにも欠かせません。


「じゃあ昼の部で読むお便りを選ぶでありますよ!」

「ええ、よろしくお願いいたします」


 魔海ラジオを始めたばかりの頃は数えるほどでしたが、番組内で楽しくお返事をしていたら日増しにお便りは増えていって今では選ぶのが困難なほど。

 なので最近では山盛りのお便りの中からリイリイにランダムに幾つか引いていただいて、放送しても大丈夫なものか内容を確認してから決めるようにしています。


 朝はどうしても海中予報がメインとなるためそれ以降の部を中心にお便り紹介の時間を少しずつ延長しているのですが、どうしても紹介できないお便りの方が多くなるのが申し訳ないところ。

 せめてもの気持ちとして、お便りをくださった方々には粗品をお送りしています。具体的にはクラーケン印のインクミニボトルやセイレーンに評判のいい喉飴小袋などを……。


 ちなみにこちらの喉飴は私もよくお世話になっておりまして、珊瑚に巣を作る海蜂ウミバチの蜜がたっぷり入った効き目もお味も抜群の品となっております。

 机の上に置いてある飴を一つお口に入れたところで、ふと。


「……あ」

「どうかしたでありますか?」


 選ばれたお便りの山に手を触れたとき、一番上のそれに書かれた名前が目に留まりました。

 【魔海在住匿名希望】さん。


「またお便りくださったのですね。朝の部に続いて連続になってしまいますが、大丈夫でしょうか……」

「もはやリスナーにもお馴染みの常連さんなので問題ないと思うであります。この方、ラジオ初回放送のときから毎日欠かさず送ってくださるでありますね。よほどナイアさまの魔海ラジオのファンでいらっしゃる!」


 もっちりとした身体を誇らしげに逸らすリイリイが何だか可愛らしくて、ついつい吹き出してしまいました。

 こうやって我が事のように喜んでくれるのですから、私は本当にいい従者に恵まれたものです。


 しかしこの【魔海在住匿名希望】さん。リイリイの言う通りラジオ始まって以来、毎日途切れずにお便りをくださるのですっかり字の癖まで覚えてしまいました。

 必然お便りを紹介する頻度も高く、しばらく選ばれずにいると「例の匿名希望さんのお便りは来てないんですか?」というお便りが届くほどリスナーの皆さまにも周知されている模様です。


「……でも、ラジオネーム以外の情報を全く書いてくださらないのですよね……」


 口の中で飴を転がしてお便りを眺めつつ、ついぞ溜め息が漏れました。

 粗品をお送りすることにしている関係上、お便りにはラジオネームだけではなく住所氏名など記載して頂くよう番組内でお願いしています。

 けれどこの【魔海在住匿名希望】さんは一度も連絡先を書いてくださったことがありません。


 前世に暮らしていた令和の世と違い悪用する者がそうそういないからなのか、ここ魔海の方々は個人情報保護のあれそれをあまり気にされないご様子なのは暮らしていて察しました。

 なので【魔海在住匿名希望】さんが何故かたくなに住所を記載されないのかは、ちょっと分かりません。

 単純にお便りを送りたいだけで、粗品は必要ないということなのでしょうか……うーん。


「きっと何かご事情おありなのでしょうけど……。大きなお悩みもずっと抱えていらっしゃいますし……」

「特定のどなたかとの関係性の相談を長いことされてるでありますし、本当にただただナイアさまに悩みを聞いていただきたいのでは? ナイアさまはいつもまっすぐ真剣にお便りに向き合ってくださると評判でありますから!」


 ここでもまた誇らしげなリイリイ。

 それをやると「子どもではないであります!」と真っ赤になって憤慨されてしまうので、撫で回したくなるのをぐっと堪えました。

 いえ実際リイリイは私と同じ歳らしいのですが。

 でも魔鮫は確かそこそこ長命な海魔ですから、私と同じということはその種族的には割と子どもなのでは……と常々思わなくはなかったりします。


 とりあえずそれは突っ込まないことにして、私は【魔海在住匿名希望】さんのお便りを開いてみました。

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