三匹目:人を助ける蝶の話

 僕を誰かが呼んだ、気がした。

 昔からそうだ。誰かが僕のことを呼んでいる声がする。だけど、周りを見ても誰もいないのがオチだ。そんなことを気にしていたら、この世で生きていけないぞ、そう父さんに言われたが、気になるものは仕方がないと思う。

 今日、僕が反応した理由はいつもよりも声が大きかったからだ。いつもは耳元で囁くような感じだが、今日は遠くから叫んでいる感じがした。

 僕はまだ高校生になったばっかりだ。けれど、この声を無視することはできなかった。暑さの残るアスファルトを踏みながら、僕は声のする方向へ歩いていった。

 僕は段々と叫び声が大きくなっているのを感じながら道路を歩いていた。すると、ひらりと、真っ黒な蝶が視界に飛び込んできた。

「わっ!」

 僕は飛ぶようにその蝶を避け、慌てて蝶を睨んだ。

 カラスアゲハなのだろうか。綺麗な翅だなと思った。

 蝶は僕が見ていることに気づいたのか、僕の方へ近づいて、肩に留まった。肩に少量の鱗粉が舞い、キラキラした光が僕の目に焼きついた。

 しかし、そんな時間もすぐに終わる。鱗粉はそのまま落ちていき、蝶も僕の肩から飛び立った。

 僕の目はしばらくその蝶を追っていたが、あの声に意識を遮られ、僕はまた、声探しに歩き始めた。

 声はだんだんと近づいてくるが、日没も後から追ってきた。

 もうここでおしまいかな。僕はそう考え、あたりを見渡す。気がついたら、家まで来ていたようだ。

 声はやまないが、僕は声を追うのを終わりにして家の中に入った。

 「おかえり。」

 家に入ると母さんと父さんが僕を出迎えてくれた。

「うん。ただいま。」

 僕はそう言って自分の部屋に向かう。もちろんバッグを置きに行くためだ。

 もうすぐご飯ができるから、急いでね。そう言われて僕は、返事をしながら階段を登った。かなり歩いたから足がだるいし、靴下が蒸れて気持ち悪い。切れかけた電球を見ながら僕はそう思った。

 今日のご飯はハンバーグだった。僕の大好物だったが、心の中に何かが引っ掛かっている感じがして味がしなかった。母さんも僕の態度で気づいたのか、心配して休むよう言ってくれた。僕はそれを受け入れ、ご飯を食べて、そのままベッドに入った。

 天井にいつの間にかできた黒いシミを見ながら僕は考える。

 あの声はなんなんだろう。僕に何を求めているのだろう。なんで僕だけこの声が聞こえるのだろう。僕は、何にイライラしているのだろう。

 みんなに聞こえない声が聞こえること?最終的に声の場所に辿り着けなかったこと?不甲斐ない自分に?

 僕は自分でもよく分からないまま眠りについた。

 いつの間にか目が覚めた僕はあたりを見渡していた。そこはよく知っている自分の部屋ではなかった。白いシーツ。カーテンレールから吊り下げられた千羽鶴。自分の腕に繋がれたチューブとその中の液体を入れたパック。それらを見て僕はここが病院であることを理解した。

 ここが病院であると言うことは、これは夢だと言うこと。そう僕は解釈して、もう一度寝ようとした。しかし、途中で誰かに呼び止められる。

「あなた…!起きたの?」

 僕は言い返そうとしたが、寝ようとしていたからか、返事を返す前に意識が途切れてしまった。

 僕は新鮮な気持ちで目が覚めたが、ベットのシーツはくしゃくしゃになっており、掛け布団は汗でびっしょり濡れていた。まだ日があまり出ていなかったが、僕はそんなことも気にせずに下の階へ降りて行った。

 下で僕のことを待っている両親に挨拶をして、二人に見守られながら朝食を食べる。今日は土曜日。学校のない日だ。僕が少しウキウキしながら朝食を食べていると、突然父さんが僕にこう話しかけてきた。

「なあ、最近もまだ『声』が聞こえるのか?」

 僕はこれに嘘をつくべきか否か、自分の心に問いかける。しかし、嘘をつかれても、父さんはそれを見抜いてしまうだろうし、誤魔化せたとしても、損をするのは自分だ。

「うん。まだ聞こえてくるよ。」

「そうか…。」

 父さんはそう言うと俯いて、黙ってしまった。

 声が聞こえるのは悪いことなのか?食べかけのパンに僕はそう問いかける。

 居た堪れなくなった僕は、いってきますと二人に言い、外に出て行った。

 ちょうど公園に着いた時だった。あの叫び声が聞こえたのは。

 僕のことを呼んでいるような声。僕の名をしっかりと呼ぶ声。

 いくつもの声が僕のことを同時に呼ぶ。

 僕はその声の場所を求めて、歩き出した。

 交番を通り過ぎて、郵便局へ。郵便局を素通りして、ボロボロな一軒家に続く坂道を下っていく。力が内側から湧き上がってくるような感じがして、どこまでも行ける気がする。

 ボロボロな一軒家についても、道はまだ下に続いていて、一番奥の方から、響くように声が聞こえてくる。

 後ろを向くが、ここがもうどこかは分からない。

 帰る道がないなら、進むだけだ。僕はそう思い、道をまた歩き出した。

 歩き出した途端、目の前がチカチカした。一歩、また一歩と足を出したがその度に足が重くなった。今までこんなことはなかったのに。

 もう一歩踏み出した時、僕は重みに耐えられなくなってその場に倒れ込んでしまった。もう動くことはできない。実際に自分の体が気持ちと共に地面に沈んでいく。

 その時,目の前を白い物体が通り過ぎていった。初めは目眩のせいかと思ったが,それは僕の少し先で止まった。それが宙に止まる瞬間,僕の体にかかっていた重みが消える。ピントを合わせた僕の目が捉えたのはあの真っ黒な蝶だった。その羽根は闇の中で輝いているかのようにはっきりと目にすることができた。

 その蝶は僕が立ち上がったのを見ると,その道の先へ進み始めた。

「ちょ…ちょっと待ってよ。」

 馬鹿なことだとは思っていても反射的に声をかけた僕は,蝶が行く道を辿って坂道を降りていった。

 何時間経ったのだろう辺りは暗くなり,孤独に道を歩んでいく。前には黒い蝶がいるが,こちらを向くことはなく道を進んでいく。その羽ばたきに迷いはなく,少し目を逸らしても見失ってしなってしまうことはないほど輝いていた。道の奥からは悲痛な叫びが聞こえてくる。それを聞いながら蝶の後を歩いていった。

 ふと,道の先を見て,僕は言葉を失った。そこには今頃家にいるはずの父さんと母さんがいた。

「帰って来て。今ならまだ大丈夫だから。」

「母さんの言う通りだ。帰って来なさい。これからも一緒に暮らそう。」

 そう,二人が呼びかけてくる。こんな時間まで僕は何をしているのだろう。自責の念が今更押し寄せてくる。

「さあ,一緒に帰ろう。」

 父さんが手を差し伸べてきて,僕はその手を取ろうとした。目の前にキラキラした蝶の鱗粉が舞い,そのまま僕の目の中に入ってきた。痛みを感じ,僕は冷静になった。なぜここに,なぜこんな所に父さんと母さんがいるんだ?

 その瞬間,風景が歪み,辺りは僕と蝶を除いた全てが消え去っていた。道の奥から咽び泣くような声が響いてくる。声の出所へ,僕は歩みを進めた。

 だんだんと周囲が明るくなってきた。辺りはいつの間にか山のようになっていて周りには木が生い茂っていた。その中を迷わずに蝶は進んで行く。僕は置いていかれないよう,必死に進んでいくと少しひらけた場所にでた。そこで僕は神社によくある鳥居のようなものを見つけた。叫び声はそのさらに奥から聞こえてくるようだ。

「ここでの暮らしを終わりにするのですね。」

 鳥居を眺めていると,いきなり誰かに話しかけられた。

 辺りを見渡すと,僕の後ろに女性が立っていることに気がついた。とても美しい女性で,その髪はこの世の闇を濃縮したような漆黒だった。その髪が腰のあたりまでサラリと垂れ,女性の身体の線を際立てている。

 僕の前にいた蝶が静かに女性に近づき,甘えるように周りを飛ぶ。女性はそんな蝶を見て鈴のようにシャラシャラと笑った。

「あなたをここまで導いた人たちは鳥居の向こう側にいます。私はあなたをここに連れてくるという役目を果たしました。あなたはどうしますか?この先へ進みますか?それともまだ,ここで幸せに暮らしていきますか?」

 役目?何のことだ。僕は今までずっとここで暮らして来たはずだろう?なぜ今になってそんなことを問う?

 山の淵が少しずつ明るくなってきた。だが辺りは暗いままだ。粉々になったガラスのようにキラキラしている砂の地面に僕は視線を落とした。

「…何で僕はここを出ていかなければいけないのですか。あなたに指図される筋合いはありませんよ。理由だけ聞かせてください。」

 この答えによっては鳥居の向こう側へ行く。僕はそう決意していたが,口調はあくまで強いもので,その目はしっかり女性を見据えていた。

 女性は少し方をすくめるような仕草をしてこう言った。

「ここはあなたに都合のいい世界です。感じたことはありませんか?何もかも自分の思い通りにいっていると。それもそうでしょう。これはあなたの夢の中なのですから。」

 これが夢の中?じゃあ僕は何故ここにいるんだ?何故僕はこうしてこの人と話しているんだ?

 僕はそう考える。鳥居の向こうから聞こえてくる声が頭の中に響いてくる。

「向こう側に行ったら何があるんですか?僕の体に何か後遺症はないんですか?」

「さあ?ただ,あなたは苦しいけれど,本当の親と友達のいる現実に還るだけです。後遺症とかも多分ないと思いますよ。」

「そうか…。」

 僕はそこまで聞くとやっと向こう側へ行く決心ができた。

 何も言わず,鳥居に近づく。女性はそれを見越していたのか満足げに微笑んで僕の背中を押す。

「次に来る時は返さないから,覚悟してくださいね。」

 そんな声が聞こえ,僕の意識は無くなった。


 白い部屋に,同じく白い蝶が入ってくる。

 ベッドでは少年とその少年の家族らしき人が泣きながら抱き合っていた。

 白い蝶がそれを見ている時,どこからともなく黒い蝶が飛び出して、そのまま白い蝶を喰らった。

「あら?あんな蝶、さっきまでいたかしら?」

 少年の母親らしき女性が呟く。

 少年は呟く。

「僕らのことを祝ってくれてるのかな?」

「でも黒い蝶って不吉そうだよな。」

 今度は父親らしき男性が言う。

「色を反転させたら白だよ。しかも、死んだ後の世界って色が反転して見えるらしいし。」

 少年がそう反論すると皆は一斉に吹き出した。

 幸せな家庭の風景。それがそこにはあった。

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ゲンチョウバナシ 砂葉(saha/sunaba) @hiyuna39

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