第5話 下総えれな

 湧川には、以前から気になっていた女の子がいた。彼女のことを好きで好きでたまらなかったのだが、何か失礼なことをしてしまったのか、急に彼女が起こり出したのだった。

 何にそんなに怒りを覚えたのか分からないが、好きになった彼女も、実は湧川に失礼なことをしたのだ。そのことを彼女が自覚しているかどうか分からないが、結果的に、お互いが悲惨な気持ちになって、別れるしかなかった。

 別れるといっても、お互いにつき合っていたわけではない。むしろ、彼女には、彼氏がいて、そのことを、いわゆる「別れ」の少し前に知ったばかりだったのだ。

 彼女の名前は、下総えれなという。

 きっと、彼女にしてしまった失礼なことというのは、

「彼女が別れるということが分かったので、それを慰めえるつもりで、実は自分のことを自分では分からないままに、宣伝していたのではないか?」

 と思ったことだった。

 それまで、つき合った女の子もいなかったのだから、それも仕方のないことではないか。

「いや、これも言い訳というものである」

 と思わざるを得ない。

 その時、彼女は少し怒っているような雰囲気は感じた。その時は逆に怒っていることを、湧川には知られたくないという様子だったのだ。

 しかし、湧川には何か、ぞわぞわしたものがあった。何か嫌な予感がしたとでもいうべきであろうか?

 えれなから呼び出しを受けたのは、それから数日後だった。それまでえれなからの呼び出しなどなかったことなのに、どうしたことだろう?

「いつもの喫茶店でね」

 と言われた。

 大学を卒業してから、数年が経ったが、女性と喫茶店に行くなど、本当に久しぶりだった。

 えれなは、湧川が営業でいく会社の受付に座っている女の子だった。彼女の仕事は別にあったのだが、会社の方針で、女の子が定期的に交代で受付をするということになっていたという。よくその会社に行っている時、ちょうど、えれなが担当だったのだ。

 えれなは、結構モテていた。気さくな性格で、まわりへの気遣いもしっかりする恩の子で、男性にモテるとなると、女性からは嫉妬を受けるものなのだろうが、彼女の場合は、女性からも慕われているようだった。

「そこが、彼女の一番の魅力ではないか?」

 と、湧川は感じたが、まさにその通りだった。

 ただ、それだけに競争率は高く、本当に、

「高嶺の花」

 だったのだ。

 実際に、彼女が受付をしている時、何人かの営業の人が、彼女に交際を申し込んできたというくらいの人気だったようだ。

 それを伝え聞いたことで、

「とても、俺では太刀打ちできないよな」

 と、思い、いつもの、

「卑屈状態」

 に入ったのだった。

 そんな状態になることは珍しいことではなく、そんな風になってしまう自分が嫌で嫌で、仕方がなかったのだ。

 話を聞いてみると、えれなは、自分と同じ大学出身だった。学部は、自分が商学部で、彼女が文学部と違っているし、学年は2つ違うだけなので、

「ひょっとして、キャンパス内で会っていたかも知れないね」

 というくらいの話はしていた。

「ええ、そうですよね」

 と、そこから会話が続かない。

「彼女は、他の人とも同じように、喫茶店に来たりしているんだろうな」

 と思ったのは、湧川が、かなり時間を掛けて、暖めてきた勇気を、何とか振り絞ってやっとのことで、

「今度、お茶にでも行きませんか?」

 と、それも、声を上ずらせて、絞り出した言葉だった。

 しかし、

「いいですよ。湧川さんとご一緒して見たかったんですよ」

 と、二つ返事が返ってきた。

「こんなに簡単なものだったんだ」

 と、拍子抜けしたほどで、同時に感じたのが、

「俺のような男にでも、これだけ社交辞令が激しいんだから、他の人だったら、誘われれば、絶対に断ることなどしないよな」

 と思った。

「八方美人」

 という言葉が頭を掠め、

「あざとい女性」

 というのは、彼女のような女性をいうんだと思うと、少し興奮が冷めてくるのを感じた。

 そう思い始めると、彼女から言われて、嬉しいと思うような言葉であれば、それは、

「他の人には、もっとすごいことを言っているんだ」

 という、妄想に駆られてしまう。

 それは、自分と彼女の、

「交わることのない平行線」

 であり、追いつくことのできないレースを、ただ果てしなく進んでいるという思いしかなかった。

 後姿にも見飽きてくると、身体の疲れが一気に襲ってくる。そうなると、自分が道化師であったことに気づかされて、ドキドキしている自分が恥ずかしく感じられる。

 それでも、

「一縷の望みを抱いて」

 と思い、会えることを楽しみにしていた。

 せっかく、会いたいといってくれているものを、ハッキリとした理由も証拠もないのに、拒否するというのは、自分がどれだけ卑屈な性格なのかということを、証明しているようなものではないか。

 彼女との待ち合わせは、必ずデートだと思うようにしていた。彼女はそうではないのかも知れないが、せっかくだから、そう思わないと損だと思ったのだ。

 だが、自分から何も話題がないことを、いまさらながらに感じ、それを恥だと思うようになった。

「どう見たって、不釣り合いな二人なんだよな」

 と感じる。

 それでも、彼女が、

「次回が楽しみだわ」

 と言ってくれると、その瞬間は、気分が高揚してくる。

 つまり、この時が、自分の中での絶頂を迎えているのだ。

 デートの時は、いつも、

「気が付けば終わっていた」

 と感じる。

 せっかくの時間がもったいないといってもいいのだろうが、会話は彼女の方から話題を振ってくれるので、それに答えるだけでよかった。答えるだけなら、それほど苦痛ではなかった。意外と、相手が質問する、こちらが答えるという関係がしっくりくるアベックなのかも知れない。

 おっと、今の時代はアベックとは言わないようだが、湧川は、母親から、

「アベック」

 という言葉を聞かされて気に入っているので、今でも使うようにしていたのだ。

 だから、えれなから、

「アベックって?」

 と聞かれて、

「カップルのことです」

 と答えていた。

 そんなえれなは、湧川が思っていたよりも、より開放的だったということである。

 もっといえば、開放的だという思いが現在進行形のように、次第に膨れ上がってくるのだ。

「このまま果てしなく開放的に向かうのだろうか?」

 と思ったが、それはありえない。

 どこかで、必ず頂点に達するだろうから、そこから先は、上げどまりして、平行線を描くか、それとも、下降線を描くかのどちらかだろうから、それを見極めてみたいという気持ちになった。

 それが、えれなに対しての一番の強い思いだったのかも知れない。

 その時感じたのが、

「えれなという女性と、学生時代に知り合ってみたかったな」

 という感情であった。

 今の彼女でもそうなのだから、学生時代はもっと開放感はすごかったのだろうなと感じたからだった。

 ただ、今よりすごいというと、想像もつかない。

「彼女は、学生時代から変わっていないということか?」

 と思うと、その希少価値は、すごいものだと感じ、

「やはり、今の彼女を最高だと思ってあげないといけないんだ」

 と感じたのだ。

 大学時代が開放的になるのは、高校時代までの反動もあるかも知れない。

 湧川の場合はそうだった。高校時代までの鬱積したストレス、もちろん、受験戦争を中心とした鬱積だが、何よりもそれは、大学受験という凌ぎを削る時間を、思春期という成長過程において、平行して生きていかなければならないことに起因しているだろう。

 まったく正反対の精神状態を、まだまだ発展途上な人間が味わうことになる。思春期というと、精神的な感情が、肉体に及ぼすことが大きいので、そのストレスは、相当なものだったのだろう。

 ただ、これは自分だけに限ったことではない。誰もが感じていることなので、感じ方もその人それぞれなのだろう。

 中には、ストレスをストレスと感じずに、訳が分からない状態で、思春期を乗り越えてきた人もいるだろう。

 肉体的な変化は、精神的に性的なストレスに結びつき、下手をすれば、精神疾患を伴う人もいただろう。それが、プレッシャーとなって、受験勉強に支障をきたしたりするのだ。「よくあの時代を生きてこれたよな」

 と湧川は思った。

「勉強は確かに苦痛だったが、勉強を嫌いにはならなかったな」

 という思いがあった。

 同じ教科でも、その種類によって、好き嫌いはあった。

 例えば、数学であれば、

「三角関数は好きだったが、微分・積分になると分からなくなってしまったよな」

 というように、一つの科目でも、好き嫌いが別れたりするものだ。

 だから、一つの科目全体を、徹底的に嫌いになるということもなければ、徹底的に好きになるというものは少なかった。

 そんな中で、結構好きだったのは、歴史だっただろうか?

 歴史にも好き嫌いはあった。

 いや、嫌いというよりも、ブラックボックスがあったといってもいいだろう。例えば、戦国時代は好きだが、幕末は分からないなどというところである。

 女性が歴史を嫌いだといっているのは、好きな時代があっても。ブラックボックスが、さらに、好きな時代よりもはるかな大きさを示しているからだろう。学問を、数学的なプラマイで考えると、結果がそのまま好き嫌いになってしまうというのは、往々にしてあることだ。

 特に歴史というものを、暗記物の学問だと考えてしまうと、それも仕方のないことで、それだけ一つの教科に対して、実直にしか見れないということで、成績もそれに反映し、

「嫌いな教科は、成績も悪い」

 という分かりやすい結果を導くことになるのだろう。

 湧川はそこまでのことはなかったが、それでも、受験勉強は苦痛だった。

 だが、受験も終わり、受験勉強というものから解放されると、大学時代は、まあ、勉強をしなかった。

 まわりに流されてしまったといってもいいだろう。

 実際に流されるということは、なかったかも知れないが、流されるというのはあくまでも言い訳であり、流されたということを認めてしまうと、自分の性格を否定してしまうことになり、それは、大きな矛盾を孕むことになる。

 それが、ジレンマとなって湧川の中に残っていて、湧川が社会に出た時、学生時代とのギャップから、いわゆる、

「五月病」

 なるものに掛かったのを思い出していた。

 大学時代までは、

「余裕を持った毎日」

 であり、社会に出ると、それを上から押さえつけられるという印象が深かった。

 もちろん、就職活動の時点から、それくらいのことは覚悟の上だったと思っていたが、実際に就職して、先輩が新入社員に対しての、明らかな上から目線には、苦痛以外の何者も感じることはなかったのだ。

 だが、逆に大学時代というのは、本当に、

「余裕を持った毎日」

 だったのだろうか?

 そっちの方が怪しい感じがしてきた。

 自由というものがどういうものかと考えると、

「ひょっとすると、大学時代の自由というのは、孤独と背中合わせだったのではないだろうか?」

 と感じるようになってきた。

 孤独を味わいたくないから、まわりの人とつるんでしまうのではないだろうか。自由にふるまうということはある意味、個人差がある。だから、大学時代は、その個人差を自分に当てはめて、ある程度寛容でないと、自由から孤独を誘発してしまう毎日になってしまうのではないかと思うと、恐怖にすら感じるほどであった。

 それでも、大学を卒業し、五月病を味わいながらでも、社会人となって働いていたが、最初の数年は、さすがに、余裕らしいものはなかったかもしれない。

 やっと余裕のようなものが生まれてきたのは、26歳くらいになってからだろうか?

 仕事の愉しみが、少しずつ分かってきた頃である。

 会社に入ると、まずは、会社に慣れること。そして、その次に、やっと仕事を覚えることに集中する。これには、少し時間もかかる。

 もっとも、会社に慣れることができないと、仕事どころではない。だから、会社に対して、

「こんなはずではなかった」

 と思うと、自分に自信が亡くなったというのか、間違いだったと感じるのか、会社を辞めていく人が一定数いる。

 会社側もそれを見越して雇っているので、それほど困ることはないだろう。

 会社に慣れてくると、仕事の覚えも苦痛ではない。何しろ、会社に慣れる方が、仕事を覚えることよりも、何倍も苦痛だったからだ。

 しかも会社に慣れてくると、先輩社員や上司の見る目も変わってくる。それまでの上から目線が少し下がってきて、協力的になってくるのだ。

 きっと、会社の一員として、やっと見てくれるようになったからで、かと言って、一人前という目ではまだ見てはくれていないということを理解しておかないと、またまわりに疑問を抱くことになるのは、必定だった。

 仕事を覚えていくと、だんだん、プライベートにも余裕ができてくる。

 そんな時、

「本でも読んでみるか?」

 という思いが出てくれば、それが精神的な余裕なのだろう。

 要するに、趣味に興じる時間を作るということだ。その趣味は何であってもいいのだろうが、身を亡ぼすことになる趣味は、怖い気がした。

 例えば、ギャンブルだったり、金銭的に生活を圧迫するような趣味である。

 読書だったら、そこまで金銭的にきついものではない。高尚な趣味として、趣味を楽しむ自分を、第三者として想像すると、結構余裕を感じさせる趣味としていいものだと、感じた。

 本を読んでいる時間、本屋に行って、本の背を眺めている自分。本屋に行くのは、仕事が終わってから、帰宅時のことであろうか? スーツを着た自分が、本の背を見ている光景が思い浮かぶのだった。

 そんな余裕が生まれた時、出会ったのがえれなだったのだ。

「精神的に余裕ができてくると、幸運というのは、向こうから寄ってきてくれるものなんじゃないかな?」

 と言っていた人がいたが、その時の湧川は、それを身に染みて感じていたのだ。

 湧川は、最初はえれなにつき合っている人がいることを知らなかった。しかし、会話をしているうちに、

「あれ? えれなさんて、誰かお付き合いしている人、いるんだろうか?」

 と思い、思い切って聞いてみることにした。

 しかも、それを自称:デートと言っている時に聞いてみた。

「えれなさんは、誰かとお付き合いしているんですか?」

 と、ストレートに聞くと、えれなは照れ臭そうにしながら、

「ええ、いますよ」

 と、

「当たり前でしょう?」

 とばかりに答えたのだが、それは湧川から見れば、

「ああ、バレちゃったか?」

 という、少し残念そうにも見えたのだ。

 それは、あわやくば、誰も交際している相手がいないという意識でのお付き合いができればいいと思っていたのだろう。

「友達は友達としての付き合い」

 それはそれで、悪いことではないが、それは、自分よりも相手が意識してしまうからだと思うからであって、実は本人が気づいていないだけで、一番意識してしまうのではないだろうか?

 ただ、湧川は、別にえれなに彼氏がいても、自分は構わないと思っていた。

 そもそも湧川というのは、

「人のものを取るのは大嫌いだ」

 と思っていた。

 好きになった人であれば、少し違うが、これから好きになるかも知れないという相手に誰かいれば、簡単に諦めが付くタイプだったのである。

 人によっては、他に彼氏がいると分かると、却って意識してしまって、露骨に嫉妬や相手に対して競争心をむき出しにする人もいるだろう。だが、湧川はそうではなかった。

「俺のことを純粋に好きになってくれる人がいい」

 というのが、大前提だったからだ。

 他につき合っている人に、それを望むのは自殺行為である。もし、好きになってくれたとしても、結局その女性は、すぐに移り気してしまう女性なので、いつ自分も同じ目に遭うか分かったものではない。

「明日は我が身」

 とは、まさにこのことであろう。

 それを思うと、言い訳になるかも知れないが、

「他に誰か付き合っている女性を好きになることはしない」

 というのが、湧川にとってのモットーとなったのだ。

 そうしておけば、長い目で見た時、余計なストレスを抱え込むことはない。最初はショックかも知れないが、割り切るためには、いくつかの節目がある。湧川の性格であれば、比較的初期の段階で、抜けることができる。ショックは最低限にすることができる。

 だから、えれなに対しても、

「彼女は友達なんだ」

 と思うようになると、好きになりかかった自分の精神状態すら忘れることができるようで、デートというのを、自称にすることができたのだった。

 えれなとは、主に趣味の話が多かった。彼女も読書が好きなようで、読むジャンルに違いはあるが、お互いに読書を、

「高尚な趣味だ」

 と思っていることから、噛み合わない話題というわけではなかった。

 具体的な本の話というよりも、

「趣味として読書をする」

 ということの意義であったり、仕事のストレス解消という意味では共通しているだろうから、そういうところを話すのがお互いに好きだったのだ。

 もっといえば、

「こういう話ができる人がほしかった」

 という意識が強い。

 えれなは、彼氏とはこんな話をすることはないというので、

「趣味の話ができるのはあなただけ」

 と言ってくれたことで、えれなと友達になったことをよかったと思うのだった。

 えれなは、ホラーのような話が好きだった。一時期流行ったホラーを読んでいたが、彼女に言わせると、

「ラノベとか、ケイタイ小説などというのは、読んでいて面白いと思わなかったんですよ。それで何だったら面白いかな? といろいろ読んでみようと、最初にホラー小説を読んだら、結構面白かったので、嵌ってしまったというのかな?」

 と言っていた。

 それを聞いて、

「ひょっとして、俺と似ているのかな?」

 と感じたのは、

「人と同じでは嫌だ」

 と感じている自分を重ねてみたからだった。

 だが、重ねてみると、若干の違いがあった。

「どこが違うんだろう?」

 と思ったが、彼女は人との正反対を意識しているようだが、湧川はそのようなこだわりはなかった。

「彼女の方が天邪鬼のような感覚があるんだろうか?」

 と、まるで、自分が天邪鬼ではないと言いたいかのような言い訳に感じられるのだった。

 湧川は、ミステリー系が多かった。

「ホラーが自分に合わなかったら、次はミステリーにしてみようかと思っていました。ミステリーは好きなんですが、それも、昔のドロドロしたような感じが好きだったんですよ。結局私は、恐怖ものが好きなんでしょうね」

 と、えれなはいうのだった。

 えれなと、小説の話をしている時は本当に楽しかった。彼女だという意識もあったが、

「彼女にしてしまうと、ここまで仲良くすることはできないような気がするな」

 と感じた。

 そんなえれなが、

「彼氏と別れたみたいよ」

 というウワサが流れていた。

 えれなもそんなウワサの存在は知っているようで、敢えて否定はしていない。

 否定しないということは、信憑性があるのだろう。彼女としては、

「付き合ってもいないのに、つき合っている」

 と言われるのと、

「付き合っているのに、つき合っていない」

 と思われるのでは、当然前者の方がきつかった。

 だからこそ、彼女が否定しないのは、

「別れているからなのかも知れない」

 と感じたのだ。

 ただ、何か引っかかりがあるのか、完全に別れられていないように思えた。それがあるから、ウワサが流れてから、よく湧川に誘いがあるのだろう。

 相談したいと思いながらも、なかなか踏み出すことができない。その思いがあるので、一度うまく切り出せないと、ズルズルと余計な話をしてしまうのは、仕方のないことだろう。

 えれなは、別れたのか、別れていないのか、曖昧な態度を取っているので、

「本当は聞いてあげる方が親切なのか?」

 と感じたが、それは、違うと思うようになっていた。

 言いたいのかも知れないが、切り出すことができないというのであれば、聞いてあげるのもいいのだろうが、それはあくまでも、

「切り出すタイミングが分からない」

 という場合に限ってのことではないだろうか?

 それを思うと、なかなか切り出すことができないでいた。

 本当に切り出すことができないのか、切り出すタイミングが分からないだけなのかというのは、天と地ほどの違いがある。ただ、見た目はよく分からない。そう思うと、いかに対応すればいいのか、それを考えるのが、難しいところであろう。

 だから、本の話をすることが多いのに、そもそも読んでいる本が違うのだから、会話になるはずもなかったのを、強引に話をしようとするのだから、違和感は満載であろう。

 だが、その日はいつもと違い、もっと彼女には違和感があった。話がまったく噛み合わないのである。

「本当に俺の話を聞いているんだろうか?」

 という思いがあった。

 そのうちに、一緒にいても、何が楽しいのか分からなくなってくる。

「あのね。ちょっと今日は会ってほしい人がいるの」

 というではないか。

「えっ? 誰なんだい?」

 と聞くと、

「お友達なんだけど、男性の」

 というではないか。

 相手が誰だかは分かったが、どうして、今のタイミングでこの俺に会わせようとするのか、その考えが分からなかった。ここまでくると、もう考えではない。

「企み」

 としか思えなかった。

 考えれば考えるほど怒りがこみあげてくる。湧川は、すでに怒りを超越していたのかも知れない。

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