第4話 心の壁と言葉の壁
この日は、
「合コンのようなもの」
と、湧川は感じていたが、実際には、
「のようなもの」
ではなく、本当の合コンだったのだ。
つむぎには、前述のように彼氏がいる。そのことは、皆知っているはずのことなので、計画者である迫田は、主人公ではない。
となると、主人公は必然的に、湧川であり、その相手としてキューピットの矢が当たったのが、つかさなのだろう。
迫田ほどの人が、そう簡単に、何も考えず、
「こいつとこいつをカップルにしよう」
などと安易に考えるはずなどないと、湧川は分かっていた。
それに、その計画につむぎも関わっているのだ。もう一人の自分を相手に感じさせるほどのつかさを紹介しようというのだから、彼女の方も無責任なことをしているわけではない。
そうなると、この合コンは結構ガチであり、しっかりと計画されたものなのかも知れない。
ということを考えていくと、
「最初から計算ずくのことだったのでは?」
と思えてきた。
迫田は、当然、湧川がいつも、最低でも待ち合わせの10分前には来ていることを知っているので、それを狙って、最初に女性二人と、湧川の3人にしようと考えたのかも知れない。
その発想は、
「ひょっとすると、つむぎから出た可能性があるのではないか?」
と、湧川は考えた。
つむぎという女性は、実に計算高いところが感じられる。
その計算というのは、
「頭の回転が速い」
というところから来ていて、その速さは人尾数倍ではないかとも思えるほどだった。
逆に、発想に限界があれば、行き着いてしまったところから折り返してきて、相手を正面から見た時に。普段思いつかないような発想が生まれてきて、それが、tsむぎという女性の本来の姿ではないかと思えた。
もし、つかさにもつむぎにも、
「もう一人の自分」
の存在を感じたのだとすれば、折り返してきたつむぎと目が合ったその時ではないかというのは、あまりにも強引な発想だといえるだろうか?
そんなことを考えていくと、次第に会話がなくなってきていることで、その場が、少し凍り付いてきた雰囲気になってきた。
さすがに、これには、迫田もつむぎも計算をしていなかったようで、どうすればいいのか、二人の間でアイコンタクトが激しくなっているようだった。
「ところで、つかささんのお仕事って、結構大変なんでしょう?」
と、迫田の、その場の雰囲気を変えるつもりのセリフであろうが、あまりにも、ベタな質問に、逆に、他の3人は我に返ったようだった。
「それまでの凍り付いていた時間が、なかったのではないか?」
と思うような感覚があり、その感覚が、我に返らせたのであって、
「店に来てから今までがあっという間だった」
という感覚とは別に、
「思ったよりも、時間がかなりかかったのではないか?」
という思いの二つがあり、どっちが本物かというよりも、信憑性がある、つまり、納得がいくのだろうか?
という思いなのではないかと思うのだった。
時間というものに、ここまで曖昧なものを、3人が3人とも感じたことはなかっただろう。ただ、この時ではないが、迫田も別の時に、同じ感覚を味わったことがあったというのを、この3人はまったく知る由もなかったに違いない。
迫田は、そういうタイプの男で、やはり、この4人の中では突出したような存在だといっていいだろう。
つかさという女の子を観察して見ていた。
たぶん、迫田とつむぎの態度から、
「俺と、つかさをくっつけようと考えている」
と思えば、その態度にはしっくりくるものがあった。というか、納得がいくといった方がいいだろう。
「だったら、その挑戦に乗ってやろうじゃないか」
と思ったのだ。
第一印象は、少し暗めの女の子だという雰囲気はあったが、実は嫌いではない。むしろ、変に賑やかな女の子よりもよほどいいと思っている。賑やかな人は得てして相手の気持ちを考えようとしないところがあり、そこが気に入らないのだった。
ただ一つ気になるのは、何か目つきがきつそうな気がしたのだ。
気が強いという雰囲気だといっていいのだろうが、気が強いということは、ある意味、いい意味での解釈であった。
「気が強い人で苦手だ」
と考えるのは、まず、融通が利かないと考えるからで、そんな人は、空気が読めないのではないかと感じ、悪い意味で感じてしまうのだ。
しかし、逆に気が強い人は、まわりに流されないという意識もあり、どちらかというと、
「人と同じでは嫌だ」
と感じている湧川にとって、まわりに流されない性格は、自分にとってありがたい性格であり、
「気が合うかも知れない」
と感じさせられるに違いない。
どれを優先して考えればいいかということになるが、正直そのどれも捨てられない。悪く感じるところは、保守的な防衛反応という意味で、外せないのだが、いい面というのは、一歩進んで、実際に付き合うとなった場合に重要になってくるところだ。
そういう意味で、
「付き合ってみたい」
と思える何かが見えてこないと、話は始まらないわけだが、果たしてそんなものが本当に見つかるのかとうか、難しいところであった。
つかさが、つむぎの、
「もう一人の自分を形成しているのだとすれば、つむぎを見ていても、分かってくる部分があるのではないだろうか?」
と感じた。
つむぎを見ていると、
「つかさよりも、分かりやすそうな性格だな」
というのは、社交的で開放的に見えるからというのもあるが、実直なところが、開放的なところと相まって、何でも曝け出してくれているように思えるのだ。
「学生時代は、いつも輪の中心にいたんだろうな?」
と思い、想像を巡らせると、いつも必ずそばには、つかさがいるように思えてならなかった。
まるで、仏像の雰囲気を感じた。如来や菩薩がいて、左右に、小さな明王や天部が控えているかのようである。
そもそも、如来と菩薩というもので違ってくる。
如来というものが、仏像の世界のピラミッド形成の一番上に君臨しているもので、
「悟りを開いた者」
のことである。
お釈迦様や、阿弥陀様、薬師如来などが、如来と呼ばれている。
菩薩というのは、悟りを開くために、修行しているものであったり、人々の救済をするという役割がある。
弥勒菩薩であったり、観世音菩薩、いわゆる観音様、お地蔵様などが、その中に入るのだ。
といっても、如来も菩薩も有名な仏は一部で、もっとたくさん知られるべきではないのだろうか?
明王部で有名なのは、不動明王で、仏の教えに背くものを懲らしめるという役であり、
天部といわれる最下層には、
「仏とその教えを守り、人々に、現世利益をもたらす」
といわれている。
帝釈天、梵天、四天王、弁財天、大黒天などが有名で、七福神が含まれていたりするのだ。
「如来や菩薩がどっちで、下に控えている天はどっちなんだろう?」
そんなことを考えていると、
「まるで禅問答のようだ」
と考えるようになっていく。
それは、先ほど考えた、
「合わせ鏡」
の発想とは明らかに矛盾しているもので、合わせ鏡が、対等でなければいけないのではないかということに対して、仏をイメージすると、階層が生まれてくるのだった。
そもそも、宗教というのは、平等という発想ではないのか?
と感じる人がいるかも知れないが、そんなことはない。宗教界ほど、身分がはっきりそしたものはない。
それぞれの役割や立場がしっかりしているからこそ、その社会が成り立っているといえるのが、天界ではないだろうか?
人間界では、そんな役割に応じた力が備わっていないから、身分制度にすると、そこに、権力が力となって現れ、不平等さが露呈するのではないだろうか?
だからこそ、人間界では、その力が見えないのだ。見えないからこそ、力が備わっていないと思われがちで、
「人間は、自信が持てない生き物である」
といわれるのではないだろうか?
だからこそ、人間は、宗教に走り、死後の世界に楽園を創造するのだ。
「この世でいい行いをすれば、あの世に行って、幸福になれる」
という、
「この世では諦めをつけ、来世での幸福を祈る」
というのが、基本的な宗教の考え方である。
だから、暗く見える人は、まるで悟りを開いているか、諦めの境地なのか、今を楽しもうとしている人間を白い目で見ているように思えて仕方がないのだ。
だが、現世での幸せを求めるのは当たり前のことで、本当にあの世がなかったら、どうなるというのだ?
そういえば、
「ノストラダムスの大予言」
であったり、
「世界最終日」
という伝説があったりしたではないか?
どちらも、
「その日が近づくと、世界が滅亡する」
と言われた日であったが、韓国では、
「世界最終日とされる日に、全財産を寄付すれば、極楽に行ける」
などと言って、信者から、全財産をお布施させ、そして、
「最後の日は皆で迎えよう」
と言って、どこかの競技場のようなところに信者が、密集したという。
しかし、ご存じの通り、世界はその後も存在している。したがって、全財産を取られた人は、宗教団体を相手取って訴訟をしたようだが、果たしてどうなったのだろうか?
そもそも、お布施をすれば、極楽に行けるというが、お布施をしても、どうせ皆滅びるのだから、同じことのはずであり、気休めでしかないはずなのに、それを信じる人がたくさんいるというのもすごいものだ。
お布施という行為だって、人間界だからこそ、美徳なのであって、神や仏の世界では、お布施など美徳と呼ばれるものなのだろうか?
そもそも、あの世に、お布施などという風習があるとも思えない。それこそ、
「地獄の沙汰も金次第」
と言われるが、その言葉通り、汚い世界なのかも知れない。
実際に、滅びなかったが、滅びるかも知れない可能性を信じたという発想は分からなくもない。
他の人はどうなのか分からないが、湧川の中で、
「世界最終日」
という発想は、聖書の中に出てきた、
「ノアの箱舟伝説」
に近いものがあるような気がするのだった。
ノアの箱舟伝説というのは、人間界を作った神が、自分の作った世界を憂いて、再度作り直そうとして、それぞれの種の一対を子孫繁栄のためとして、生きながらさせるために、人間で選ばれたノアという人物を使い、
「大洪水を起こして、世界を滅亡させるので、お前は大きな箱舟を使って、そこに一対のすべての種族を保護するのだ」
という予言をした。
そこで、ノアは神の言う通り、箱舟を作っていたが、他の連中から、
「陸で船を作るなんて、何をバカなことをしているんだ」
と言って、笑いものにされていたが、神との約束なので、絶対に洪水は起こると信じて疑わず、実際に洪水を起こして、世界を神は一度滅ぼすことに成功したのだった。
そこで水がひいてきてから、新たな世界の建設に、ノアは奮闘することになるのだが、それが、いわゆる、
「ノアの箱舟伝説」
と呼ばれるものであった。
このような、
「洪水伝説」
というのは、実はいろいろなところにあるという、神話の世界であったり、東洋にも存在しているというから、古代では一般的だったのか、それとも、天変地異か何かで、本当にどこかの地域が、一瞬にして洪水に巻き込まれ、ほとんどの生物が息絶えたなどということがあったのかも知れない。
どちらの説が説得力があるかというと、実際にあった事実だという方が、信憑性があるような気がする。
洪水によって、世界が滅亡するという伝説が、そんなにたくさん、世界中に、残っているというのも、怪しいものである。
世界中に広がる、ピラミッドなどの巨大遺跡、しかも、それは、ほとんどが、
「その土地の権力者の墓陵だ」
というから、古代に、世界中で同じようなものが存在したというのは怪しいものではないだろうか。
UFOや、宇宙人説が囁かれるのも無理もないことで、これだって、
「実際に存在したものを、誰かが広げたことから始まったことだ」
と思うと、箱舟伝説だって、
「存在したことだ」
と言って、信憑性のあるものではないだろうか?
日本の昔話と言われるものでもそうではないか。
「口伝と言って、各地に存在している、言い伝えが、物語になって、昔話として伝わっているので、作者は不祥なものが多い」
と言われている。
特に、
「浦島伝説」
なる者も、結構あり、竜宮城や玉手箱のような、まるで、
「相対性理論」
を証明したかのような内容が、日本のあちこちにあるのだ、これは、半分本当のことだと思って不思議ではないのではないか?
また、桃太郎の話なども、
「ここが、鬼ヶ島の元祖だ」
と言われているようなところもたくさんあるではないか。
そもそも、その場所と限定する形で存在する話もある。例えば、
「天女と羽衣などは、静岡のお話であるということは、実際に限定されているではないか?」
世界の七不思議と言われる、ピラミッドや、ナスカの地上絵などというものも、誰が何の目的で作ったのか? ということである。
伝説のバベルの塔も、
「宇宙船が故障したことで、宇宙人が自分を見つけてほしいという発想から、地球人を奴隷にして、大きなタワーを作った」
という話である。
それがなぜ、倒壊することになったのか?
「自然の摂理で、重たくなりすぎて、自然に壊れたのか?」
「どこからか攻撃を受けて壊れたのか?」
あるいは、
「自然現象による倒壊か?」
それも考えられることであり、問題はこの話の最期だった。
神が、天に弓矢を引いた人間に怒り、言葉が通じないようにして、世界各地に人を分散させたということが、何とも恐ろしい伝説ではないか?
だが、これも考えてみれば、各地の伝説というのが、この、
「バベルの塔」
の伝説から波及したものだとすれば、つながりもあるというものである。
最後に、
「言葉を通じなくすることで、人間同士が信用できなくなり、世界各国に散らばった」
ということである。
今の世の中で、国ごとに戦争があるというのも、この伝説から、
「言葉が通じなくなったことで、まるで、目くらましにあったかのようで、敵対行動をとるというのは、人間にとって、十分にあり得ることであり、いまさらのように、伝説をして書くところが何ともあざとい感じではないか?
だから、つかさのような、あまりしゃべらない女の子は、
「何を考えているのか分からない」
ということで、信頼に値しないといってもいいだろう。
「信用できるのは、自分だけ」
と考えている人はたくさんいるだろう。そういう人にとって、もう一人の自分の存在というのは、ドッペルゲンガーとしておそれられる存在であり、さらに、
「世界各国に散っていった、言葉が通じなくなった庶民」
と同じではないだろうか?
だが、その中には権力者が生まれ、搾取が始まることで、また国家というものが形成される。
それは、人間というものが、
「一人では生きていくことができない」
ということを表しているのではないだろうか?
「言葉が通じない」
というのは、
「自分から言葉を発しない」
というのと違うのだろうか?
言葉が通じないというのは、お互いに、自分の言葉で話をしているのだが、そもそもの言葉が違うので、いくら言っても相手には分かってもらえない双方向の問題であり、自分から言葉を発しないというのは、片方からは、言葉を発して、その言葉の意味を相手は理解しているにも関わらず、相手は何も発信しないので、一方通行でしかない。
言葉が通じなかったとしても、時間が経てば、素振りや感情で、相手が何を言っているのか分かってくるものではないだろうか? だからこそ、まったく言葉が通じない状態にしても、今現在、辞書や翻訳の機械もあったりして、通じない言葉はないと言われているではないか。
これは、宇宙人が存在し、宇宙語が分からなかったとしても、いずれ分かるようになるということではないだろうか。
いくら言葉が通じていても、相手が、まったく言葉を発しないのであれば、もうどうしようもない。
ある意味、相手が何もしゃべらないということは、感情を表に出さないわけで、どうしようもないことを示している。いくらこっちが歩み寄っても、相手が心を開かないのであれば同じことだ。いったん、人間を信じられないと心に決めて閉ざしてしまった心を開かせるというのは、ドラマなどでは簡単にできているが、実際にはそんなことが簡単にできるわけはない。
「言葉というのは、心を通じ合わせる最大のアイテムだ」
と言ってもいいだろうが、権力者がいて、国家を支配している時代でも、大きな問題である。
今のような、民主主義では、権力者がいても、主役は個人だ。そうなると、閉ざしてしまった心を開かせるというのは、
「力でも無理なものを、いかにすれば、開かせることができるというのか?」
ということである。
つかさの態度を見ていると、本当に何を考えているのか分からない。
「言葉は通じなくても、そのうち心が通じ合えば」
ということで、言葉よりも、まず心だというのに、その心が通じ合わないのだから、何をどうすればいいというのか?
神も、心から最初に通じ合うものだということが分からなかったのだろうか? 本当に罰を与えるなら、心が通じ合わないようにするべきだった。そこまでしなかったのは、
「それをすることで、人間よりも神の方が、損をすることになる」
というところに起因するのではないだろうか?
湧川には、言葉の壁はおろか、心の壁をぶち破ることのできない現状を、苛立ちを持って迎えていたのだ。
とにかく相手が喋らないということに対して、湧川にはトラウマのようなものがあった。
あれば、まだ、大学に入ってすぐくらいだったか、子供の頃からの幼馴染だった女の子がいるのだが、その子が、何か寂しそうで、湧川を見ると、急に避けるようになったのが気になったので、
「どうしたんだい?」
と言って、話しかけたことがあった。
その女の子は、友達ともなかなか話をしなくなったということで、前から気になっていたので、彼女の友達の子にちょっと聞いてみたことがあった。
幼馴染の名前は、いちかと言ったが、
「いちかちゃん、最近、彼とどうもうまく行っていないみたいで、最初は、私によく愚痴を零していたんだけど、そのうちに愚痴すら言わなくなってしまったの。ひょっとすると、私が、嫌な顔でもして、気分を害しちゃったのかも知れないわね」
と友達はいうのだった。
「えっ? いちかちゃんに彼氏がいたの?」
と、正直、湧川はビックリしていた。
いちかに対しては、幼馴染ということもあり、女として見るのを封印していたところがあったが、実際には本当にかわいいと思える子で、
「彼氏ができるくらいなら、俺だって」
と少し悔しく感じないわけでもなかった。
それはさておき、
「いや、そんなことはないと思うよ」
と彼女の後悔を少し和らげるように言ったが、実際には彼女の想像は当たっているかも知れない。
いちかという女の子は、確かに何かあった時、友達や自分にいろいろ聞いてもらいたいと思って話をするのだが、途中でプッツリと何も言わなくなる。すると、こちらは、
「ああ、もう吹っ切れたのかな?」
と思っていると、実はそうではなく、
「人に愚痴っても同じだ」
ということに気づいただけなのだという。
そのことには、なかなか気づかなかったが、ふと、本人が話してくれたことがあった。
いちかは、湧川のことを、
「お兄ちゃん」
と呼ぶ、
「お兄ちゃんだから話すんだけど、私ね、いつも皆に愚痴を聞いてもらってから、急に話すのをやめるでしょう? そんな時、皆、これで私が吹っ切れたと思っているのかも知れないけど、そんなことないのよ。私は吹っ切れるどころか、我に返るのよ。人に話したって同じだってね。結局、皆他人事でしかないのよ。しょせん、人の苦しみなんて、神や仏でもないと分かりっこないもの」
というのだった。
平静な時だからこそ、言えるのであって、そんな時でも思い出すとイラつくようで、本当に落ち込んで孤独感に苛まれている時に、こんな気分にさせられでもすれば、どうなるというのだろう?
いちかの気持ちを考えると、それ以上何も言えなかった。
言えないというよりも、何もいう資格はない。なぜなら、
「何を言っても、言い訳にしかならない」
からではないだろうか?
いちかには、そのことは分かっていた。分かっていても、最初に愚痴らないではいられない。
「ひょっとすると、我に返る前に。スッキリできないだろうかと考えているとすれば、いちかは、愚痴を誰かに零すことはやめないだろうな?」
と感じた。
それだけ、いちかにとっては、湧川に対しての話は、覚悟を決めてのことだったのかも知れない。
実は、その時いちかが平常心だと思っていたが、実際には何かに悩んでいて、その悩みを言わないようにしようとして、その相手に選んだのが湧川だった。
湧川はそのことをしっかりと理解し、いちかの気持ちに立って考えてあげなければいけないのではなかったのだろうか? そんなことを分からずに、またしても、スルーするような相談の受け方になってしまった。
それから、いちかは、湧川に、何んら相談をしてくることはなかったのである、
湧川の後悔はひどいものだった。
「これじゃあ、言葉が通じないのと、同じことじゃないか?」
と、言葉のせいにして、相手の気持ちを理解することへの言い訳にしていた。
だから、今回も、つかさがまったく話をしないことを、かつての神話や聖書の逸話になぞらえて、
「言葉の壁」
を、
「心の壁」
と、同等かそれ以上のものとして、考えようとしていたのではないか?
そんなことを考えていると、いちかと、つかさがかぶって仕方がない気がした。それがつかさの中に感じた、
「もう一人の自分」
だったのかも知れない。
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