第3話 つむぎと、つかさ
そんなフリッツ・ハーパーの話を聞いたことで、科学者の罪と罰を考えるようになると、「マンハッタン計画における科学者がどうだったのか?」
とも考えるが、こちらも開発責任者のロバートオッペンハイマーが、最初は、原爆において、
「戦争を早く終わらせた立役者」
として、アメリカの英雄となり、その後の発言力が大きくなっていったが、晩年では、何と、
「ソ連のスパイ容疑」
を掛けられ、追放されることになる。
これも、ある意味、フリッツハーパーと同じで、
「愛国心から出たことが、最期は政治体制の渦の中で、はじき出されてしまう」
という同じような運命をたどることになるではないか。
科学者というのは、しょせん、国家の体制というものに対して、無力だということなのだろうか?
いや、絶対的に強い国家権力に、台頭してくるのが科学者だということであり、本当は科学者に限ったことではないのだろう。
科学者の方が、印象深く残るから、逸話として語り継がれていることであり、大なり小なり、人間は国家というものに、逆らうことはできないということなのだろう。
飲んでいる時、湧川はそこまで考えていた。
結構、いろいろ考える方で、酒が入るとそのスピードが速くなるのが特徴の湧川なので、別にこれくらい、珍しいことではなかったが、女の子との合コンのようなことをしている時に、
「よくこんなことを考えられたものだ」
と、思ったものだった。
そもそも考え始めると、どこが節目なのか分からなくなるくらいに、考えが飛躍してしまうところがあるので、人の話をまともに聞いておらず、
「何、ボーっとしてるんだ」
と言われることも少なくなかったくらいである。
「看護婦って、なかなか辛い仕事だと思うんだけど、どうなんだろうね?」
と軽く聞いてみると、
「そうですね。たぶん、皆さんが普通に想像することであれば、想像を絶するという表現がピッタリかも知れないわね」
と、つむぎは言った。
それを聞いていて、つかさは頷いているだけだったが、その様子を見る限り、
「つかさは、いつもつむぎの後ろに付き添っているような感じなんだろうか?」
と感じられ、
「まるで俺みたいじゃないか」
と、いつも、迫田の後ろについて離れない自分のようなものだと思うのだった。
湧川の場合は、別にそれでもいいと思っている。
確かに、
「一緒にいれば、そのおこぼれでおいしい思いができるから、一緒にいるんだろう」
と、まわりから言われるだろうことは、想像がつく。
しかし、その思いがないと言えばウソになるが、迫田と一緒にいることで、自分が成長できると思っていることも事実であり、これは逆にいえば、
「俺一人だと成長する自信がない」
ということを認めざるを得ないということを言わんとしているのだということを分かっているということになるのだった。
迫田は、根っからの、大将気質とでもいえばいいのか、輪の中心にいることで輝くのは間違いなかった。
「では、輪の中心にいなかった時は?」
と聞かれると、そんな想像はできなかった。必ず輪の中心にいて、その存在感を絶えずまわりにもたらしていた。
逆に輪の中心にいなければ、どうなるか分からないと、本人が思っているのだろう。だから、真剣にそして、実直に輪の中心になることを求めていて、その後ろ姿を眩しく感じているに違いない。
「人には、その人の持って生まれた資質があって、それを追い求めることが、人生の意義なんじゃないですかね?」
と、新人研修の時、先輩社員から、
「人生の意義について」
という質問をされた時に、迫田が答えた回答だった。
それを聞いて、湧川は、
「この人の説得力はすごい」
と感じたのだ。
その言葉にも、そして、言葉を発するオーラにも、どちらも欠かすことのない力強さが感じられたことで、すっかり、迫田の考え方に陶酔していったのだ。
彼には、彼独自の考え方があり、それを証明することも、一つの生きる意義のように思えるのではないかと感じられた。
「人間ってさ。何もそんなに型に嵌ったような生きる意義を持つ必要なんてないと思うんだ。一つのことを、その時々で大切にする気持ちがあれば、自然と、膨れ上がってくるものなんじゃないかな? 確かに、最初から意義について分かっていれば、そこから派生させていくことができるので、楽なのかも知れないけど、同じことではない。それは加算法と減算法のようなもので、同じ場所をすれ違う時に、見えてくるものが、例えば、上から降りてきた人と、下から上がってくる人とでは、見え方が違う。それさえ分かっていれば、別にどっちでもいいんだと思うんだ。それを変に意識するから、どちらかしか正しいものはないなんて、凝り固まった考えになるんじゃないかな? それぞれの考え方には伸びしろがあって、お互いにすれ違った時、相手を意識できるかということが大切なんだ。それが分かると、もう一人の自分の存在に気づくんじゃないかって思うんだよな」
と、迫田は言っていた。
「もう一人の自分?」
と、湧川は、聞きなれない言葉に反応した。
だが、聞きなれないわりに、違和感はない。ということは、どこか意識しているところがあるということだろうか?
「ドッペルゲンガーという言葉を知っているかい?」
「ああ、聞いたことがある。もう一人の自分というのは、そういうことか?」
と、違和感がない理由の一つが、このドッペルゲンガーという言葉だと思ったのを同時に、自分の中でも、違和感のない理由を思いついたのだった。
それは、夢を見た時のことだった。
夢の中で、時々もう一人の自分の存在を意識することがあった。
それは、夢から覚めるタイミングを、
「もう一人の自分が出てきたからだ」
と感じていたのだ。
だからこそ、もう一人の自分の存在を、
「これほど怖いものはない」
と感じていた。
夢の世界から、いきなり現実世界に放り出す力があるのだ。それが、自分の一番怖がっているものであるとしても、無理もないことではないだろうか。
夢の世界に入るのには、何かコツのようなものがいるのか、眠った時に、必ず夢を見るわけではないではないか。
しかし、夢から覚める時は、ちゃんと、現実世界に戻っている。このことに対して、最近、湧川は、2つの考えを持つようになった。それも、この時の迫田の話を冷静に考えてのことだったのだ。
その一つというのが、
「夢から抜ける時に、必ず何かの大きな力が介在していて、その大きな力をもたらしてくれるのが、もう一人の自分というものの存在ではないか?」
という考え方だった。
明らかに迫田の考えを踏襲したもので、参考になったという方が正解かも知れない。
湧川の中には、もう一人の自分の存在という意識が結構根強くあるようで、ドッペルゲンガーという意識とは少し違うものだった。それを後押ししてくれたのが、迫田で、少し違ったイメージを一本の線にしてくれたといってもいいだろう。
そして、もう一つの感が型というのは、これは、迫田とは関係のないところでの自分だけの考え方だが、それは、もっと夢をいうものを単純に考えたものであり、
「夢というものは、見る日もあれば、見ない日もある」
という考え方ではなく、そもそも、
「夢は誰でも毎日見ているものだ」
という考え方である。
つまりは、
「見た夢を忘れてしまうだけのことなのだ」
という発想なのだった。
こちらの方が説得力はありそうな気がするが、
「こんな発想をするのは、俺くらいじゃないかな?」
と思えてくるほど、大胆な発想に思えた。
だが、考えてみれば、大胆な発想ほど、意外と誰も気づかないもの。
「灯台下暗し」
とは、まさにこのことではないだろうか?
後になって、つかさに、
「僕のどこを好きになってくれたんだい?」
と聞いた時、
「あなたの、想像もつかないような発想かしらね?」
というのだった。
その時、聞いた質問に対して、最初は頑なに、いや、露骨に嫌な顔をして、回答を拒否していたが、あたかも質問内容が、愚問であるかのような態度だったにも関わらず、湧川は、つかさの態度に何も気づいていなかったのだ。
つかさという女性にはそういうところがあった。
相手を決して傷つけたくないという思いからか、嫌がっているのだが、それを何とか隠そうとしているからなのか、嫌がっている様子だけが残って、何を嫌がっているのかという肝心なところが分からない。
「学生時代は、よく勘違いされて、まわりから謂れのない村八分を受けたことがあるわ」
と言っていた。
村八分というと、無視されるよりもきついのではないだろうか?
今では、
「ハブられる」
という言葉を使うが、その語源として、
「村八分のことだ」
というのを知っている人が、どれほどいるのだろう?
そもそも、
「村八分」
という言葉の意味というよりも、言葉自体を聞いたことのない人も多いのではないだろうか?
村八分というと、
「村の掟を破った相手に対して、制裁の意味を込めて、集会に呼ばなかったりして、一定の地域に住んでいる人間が集団で、交際を断つことをいう。いわゆる、共同絶交と言われるものである」
と定義できるだろう。
今の時代の苛めに精通するものだ。
「そんな言葉をよくつかさが知っていて使ったものだ」
と思ったが、つかさの場合は勘違いされたものだったので、すぐに修復したのだろうが、この静かな雰囲気は、あまり人付き合いができないタイプとして、
「ひょっとすると、その時のトラウマが残っているのかも知れない」
と思うのだった。
「つかさには、隠そうとすればするほど、うまく隠すことができないという一面があり、そのため、まわりに勘違いさせることで、内に籠るという特徴があるのではないだろうか?」
と考えられるのだった。
だから、余計につかさはまわりの人に差しさわりのないような態度しか取ることができない。
逆に言えば、今のおとなしい態度はトラウマから来るもので、本当はもっと気が強い女の子ではないかと言えるのではないかと感じるのだった。
ただ、そのことは、その日の態度では分かることはなかった。一つ分かったことは、
「何かのこだわりを持っていて、それが意識の中で誰かと話すことで膨らんでいって、それを自分で認めるのを怖がっているのではないか?」
ということであった。
この日の会話のキーワードは、
「ドッペルゲンガー」
であった。
湧川も、夢を連想することで、何かを理解しようと無意識に感じていたようだが、ドッペルゲンガーをなぜつかさが意識するのかというところまでは、分かるはずもないのだった。
ドッペルゲンガーというと、
「自分に似た人が、世の中には3人はいる」
と言われるような人ではなく、本当の、
「もう一人の自分」
ということであった。
だから、
「同じ次元の同じ時間の別の場所に、もう一人の自分がいる」
ということになるのである。
その自分と同じ場所に存在してしまうと、近い将来死ぬと言われているのであった。
実際に、有名人の中には、ドッペルゲンガーを見たといって死んだ人もいれば、明らかにドッペルゲンガーの存在を感じさせる逸話が残っているもの。あるいは、
「自分が暗殺されるようなウワサ話は流れていないか?」
と、自分の側近に聞いたところ、その日のうちに、暗殺されてしまったなどという話である。
最後の話は、アメリカ16代大統領のリンカーンの逸話である。
ドッペルゲンガーの存在を匂わせるエピソードがあったのが、芥川龍之介であった。
そんな話が全世界には、いくつも残っていたりする。
どうして死んでしまうのかということ、さらに、それをどうして、自分で予言できるのか?
などということは、諸説ある中の信憑性はそれぞれに高そうな気がする。
信じられない話ではあるが、説得力があるのだ。
何しろ、世界的にたくさんの例があるのだから、それだけでも、立派な説得力だといえるのではないだろうか。
つかさという女の子を見ていると、
「どこか多重人格なのではないか?」
と思えるふしがあった。
ほとんどしゃべられないのだが、別に一緒にいる、つむぎに寄り添っているわけではない。
まったく喋らないのであれば、少なくともつむぎに、助け舟を出してほしいという素振りをするものだと思えたがそんなことはない。
むしろ、つむぎのそばにはいるが、あまり意識をしていないと言った方が正解なのかも知れない。
相手の初対面の二人の様子を伺っているかのように見えるが、その割に、下から見上げるような視線があるわけでもない。
「この子は、まわりがどうであれ、すべて自分中心の考えなのではないだろうか?」
という思いであった。
要するに、つむぎの誘いでやっては来たが、別に興味のない相手なら、無視すればいいという程度の考えているのかも知れない。
つむぎとしても、つかさのことを、自分の奴隷とまでは思っていないのは分かった。
「女の子二人がいて、どちらかが、明らかに主導権を握って、片方は黙っているような関係であれば、SMのような、主従関係がそこにあるのではないか?」
と思っても不思議ではない。
下手をすれば、百合や、レズビアンな関係を思い起こすかも知れない。二人だけの他の人には分からない楽園のものが存在しているのか、あるいは、SMのような主従関係が、友情の歪んだ形として形成されているのだとすれば、この関係も分からなくもない。
湧川の方としても、最初から、そんな関係もあるかも知れないと、感じていたのは間違いないことだった。
確かに、見ていると、主従関係に近いものは感じた。しかし、つむぎの方は、まったくつかさに気を遣っている様子はない。しかも、つかさの方も、つむぎに対して、怯えも全幅の信頼も感じられない。
「二人は本当に親友なんだろうか?」
という思いだけが残り、
「この二人の関係はどこから来るのか? 本当に目に見える利害関係だけが二人を支配しているのではないか?」
とさえ思えたのだ。
ただ、一つ気になったのが、たまに、二人はアイコンタクトを送っていた。そこには、どちらからともなくという感じではなく、定期的に、お互いのタイミングがしっかり合っていなければできないアイコンタクトであった。
それを思うと、
「二人の間に、主従関係はないように見えるが、実は違う形で存在しているのではないだろうか?」
と、感じるのだった。
それを考えていると、二人のうちのどちらかが、相手を、
「もう一人の自分ではないか?」
と思っているような気がした。
どちらもなのかも知れないが、そこは分からなかった。ただ、どちらかにその意識があるように感じたのは、錯覚だったとは思えなかった。
ただ、この時の、
「もう一人の自分」
という意識は、別にドッペルゲンガーのようなものではなく、どちらかというと、
「マトリョーシカ人形」
のような感覚だといってもいいだろう。
マトリョーシカ人形というと、ロシアの民芸品として存在するもので、
「人形があって、胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さい人形が入っている。これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。入れ子にするため腕は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。5、6重程度の多重式である場合が多い」
というものである。
ということは、
「人形を開けると中からまた別の人形が出てきて、さらにその中に人形が……」
という構造なのである。
マトリョーシカを想像した時、さらにセットで想像されるものが、湧川にはあった。
それが、いわゆる、
「合わせ鏡の理論」
であった。
合わせ鏡というのは。鏡を向かい合わせに配置することであり、そこに映るのは、自分と、その後ろにある、鏡である。その鏡には、反対から見た自分が写っていて、さらに、また元の鏡が映っている……。
というように、無限に自分の姿は映されるのではないか? というものである。
入れ子になっているという意味で、マトリョーシカを見ると、この合わせ鏡を連想するのだった。
そもそも、この連想という発想こそ、マトリョーシカや合わせ鏡のような、入れ子の発想ではないか。
違いとしては、合わせ鏡が無限ループの発想があるのだが、マトリョーシカにはそこまではない。
それは、マトリョーシカは、すべてが実態だということだけではないだろうか?
マトリョーシカ人形は、皆違う顔をしているのが特徴で、一番表の人間と、中から出てくる人たちの関係がどのようなものなのかということは、資料にないので、まったくの想像でしかない。
そこにはこだわりがないのかも知れないし、れっきとした意味があって、基本的にはその意味の通りに作られているのかも知れない。
ただ、一番表がそのマトリョーシカを作るうえで、すべてを網羅しているというのか、あるいは、凌駕しているといってもいいかも知れない。何しろ、自分の身体の中に、他のものが存在しているのだからである。
これが2体だけということになるのであれば、つむぎとつかさの関係に似ているのではないかと思えた。
しかも、どちらが表で、どちらが中なのかということが分からないような気がする。どっちが表であっても、何ら不思議はない。それだけ、二人は1対に見えるからだ。
「つむぎがあってのつかさであり、つかさあってのつむぎに見える」
と感じる。
どちらも、単独で存在するに十分な存在感を感じるのに、二人が一緒の時は、
「二人で一人」
と思わざるを得ないのは、なぜなのだろう?
それは、お互いがお互いを補っているイメージが強すぎるからではないかと思えた。
二人が一緒にいる時は、どっちがどっちか分からなくなる。逆に言えば、どっちがどっちでも、さほど問題がないというほど、似通っていて、それが、マトリョーシカを想像させるのかも知れない。
しかし、それは、どちらかを意識してじっと見ていると、その姿の後ろに感じるもう一人がいるという感覚である。
それが、マトリョーシカを通り越して、そこにある合わせ鏡を想像させるのかも知れない。
合わせ鏡のように、二つを向かい合わせに置いて、その間に自分がいることを想像すると、鏡には、無限に自分の姿が映し出される。そんな効果が二人にあるのだとすると、
「二人には、そのような自覚はあるのだろうか?」
と考えてしまう。
何といっても、これは、湧川の想像であり、妄想に近いものだ。
それを考えると、
「自分は、どこか精神疾患でもあるのではないか?」
とまで感じるほどになっていた。
想像が妄想となり、妄想は果てしなく続くという発想が合わせ鏡であるとすれば、それを制御できるものは、二人の中に存在するマトリョーシカではないだろうか?
マトリョーシカも、理論的にいえば、無限ではあるが、実態があるから、無限はありえない。
しかし合わせ鏡は基本的に、鏡に映った像であり、虚像なのだ。あくまでも、
「理論上」
というだけであるが、そこには、無限ループの発想があるといってもいい。
では、
「マトリョーシカ人形の中に入っている人形のその中に、一番表の人形があるとすれば、どういうことになるのだろう?」
と考える。
どこか、合わせ鏡の発想であるが、それは、直線上にあるもので、同じものではない。
合わせ鏡の場合は、
「映し出されたもの」
ということなので、そこに映るものは、まぎれもなく、同じものだ。
奇数と偶数で大きさの違いこそあれ、同じものが映るはずというのが、合わせ鏡の原理であろう。だから、まるで円を描いているような循環性があるのだ。
だか、マトリョーシカには、循環性は考えられない。
となると、同じものが中から出てきたとしても、それは、偶然同じ顔をしているだけの別のものだということになる。それを考えると、
「もう一人の自分」
という存在も、ここでいう、
「マトリョーシカの原理」
のようなものではないだろうか?
一直線上にある中に、もう一人の自分を感じた。それが、もう一人の自分だとすれば、マトリョーシカの存在は、無視できるものではないのではないか?
と考えるのであった。
つかさとつむぎの関係が、マトリョーシカのようなものなのか、それとも、合わせ鏡のようなものなのか? そんなことを考えていると、次第に二人の区別がつかなくなってくるのを感じた。
そもそも、湧川は、人の顔を覚えるのが苦手なタイプだった。初対面でも、2,3時間も一緒にいれば、普通であれば、次に会う時は憶えているものなのだろうが、次に会った時、本当にその人だったのか、自信がないのである。
「たぶん、そうだったと思う」
という程度にでも思い出すことができればいい方で、思わず、
「初めまして」
と言ってしまい、相手に対して失礼になりそうな気がするくらいである。
確かに、
「間違えたらどうしよう」
という思いが強く、自分から声が掛けられないという思いを、ずっと昔からしていたような気がする。
きっと、一度自信をもって声を掛けると、実は違う人で、赤っ恥を掻いてしまったという思いが、小さい頃にあったのかも知れない。
正直覚えていないのだが、それがトラウマとなって、心の奥に存在しているとすれば、それも無理もないことで、二度と自分から話しかけることができなくなってしまっているとすれば、これは、かなり大きな自分にとってのマイナス面だといえるのではないだろうか?
そんな思いをどちらがどちらにということを考えてしまっているとすれば、今、湧川は、一種のループに入り込んでしまっているのかも知れない。
だが、まだ湧川は知らなかったが、似たような思いを、この場所で、この4人が、共有しているかのようになっていることを……。それが、分かるようになると、進展があるのだろうが、今のところ、よく分からない状態だったのだ。
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