声の向こう

 夕食の後、自分の部屋で理恵がベッドで寝転んでいると、携帯にメールが入った。


「小夜子? こんな時間になんだろ」


 そういえば小夜子は今日部活で遅くなると言っていたっけ。理恵はそんな事を思い出しながら携帯のメールを開く。


【誰か後つけてくる】


 小夜子はかわいいから、ストーカーにでも狙われたかな? 理恵は他人事のような気持でメールに返信した。


【どんな奴?】


 送信してすぐにメールが返ってきた。


【わからない】


 理恵はなんとなく好奇心が湧いてきた。


【後ろ振り返ってみて】


 送った後でちょっと無責任だったかな、という思いがよぎる。

 三十秒ほど経って、今度はメールではなく電話が理恵の携帯にかかってきた。


「もしもし、小夜子? どうだった?」

「……足音はするけど、姿が見えないの」


 小夜子の声に不安の色が濃い。理恵もなんとなく不安になり、ベッドの上に座りなおす。


「角とか電柱の後ろにいるんじゃないの?」

「……いないの。どこにもいないの」


 小夜子の呼吸が乱れている。早歩きをしているらしい。


「本当につけられてるの?」

「ほ、本当、ずっと後ろから音が、曲がっても曲がっても後ろから音がするの」


 気が付くと理恵はベッドから立ち上がっていた。


「どこか近くの家に逃げ込んだら?」

「ち、近くに団地しかない」

「どこか人のいる部屋のドアを叩いて中に入れてもらって」

「うん、今から行く」


 理恵の耳に当てた携帯からは、小夜子の乱れた息遣いが聞こえてくる。理恵も息を飲んで向こうの音を聞いていると、突然ドンドンという音がした。どうやら小夜子が団地の部屋のドアを叩いているらしい。

 音が止んでしばらくすると、またドンドンという音がする。それが何度か繰り返されるうちに、叩き方が荒っぽい物になっていく。


「どうしたの小夜子? なにがあったの?」

「……い、いないの。誰も出ないのよお。だ、誰か」

「小夜子落ち着いて、周り見て、明かりのついた部屋を探して」

「わ分かった」


 気が付くと理恵は部屋の中を歩き回っていた。携帯からは小夜子の荒い呼吸音だけが聞こえてくる。


「……ない」

「え?」

「明かりが無いの……どの部屋も明かりがひぃっ!」

「どうしたの小夜子!」

「ああし、足音が、した、から」


 理恵は部屋から飛び出して家の電話機の前に来ると受話器を掴んだ。


「小夜子、小夜子聞こえる? 今から警察に電話するから、何処にいるか教えて」

「お、大橋団地……五棟て……書いてある」


 学校の近くにある少し寂れた団地の姿を理恵は思い出していた。


「分かった、今から警察に電話するから、小夜子しっかりして!」

「う、うん、助けて……」


 理恵は携帯を頭と肩にはさんで固定すると、家の電話の受話器をもう片方の耳に当てて110をプッシュした。


「はい、こちら110番です。事件ですか、事故ですか」

「友達が誰かに追われているんです!」

「その友達は何処にいるんですか?」

「XX町三丁目の大橋団地の五棟です!」

「分かりました。近くの警官を向かわせます」


 その後理恵の名前と住所を聞かれて電話は終わった。すぐさま理恵は携帯に神経を集中する。


「小夜子、今警察に電話したから、すぐに警察がそっちに行くから」


 携帯からは呼吸の音と何かが打ち合うようなカチカチという音しか聞こえない。


「小夜子! 返事して!」

「……あ足音、かい、階段うえに、のぼ、のぼ」


 カチカチという音の合間に小夜子の言葉が聞こえる。


「小夜子動ける? 頑張って逃げて! もうすぐ警察が来るから!」

「に、逃げる、た助けて」


 理恵は部屋に戻って着替えると、廊下を走り抜けた。


「小夜子! 私も今から行くから、しっかりして!」


 携帯を耳に当てたまま玄関まで来た理恵。そこへトイレから理恵の父親がでてきた。


「ふー……ん? 理恵、こんな時間に何処に行くんだ」

「友達が誰かに追われているの」

「追われている?」


 父親を無視して靴を履く理恵。


「こんな時間に一人で出歩くのは感心しないな」

「時間が無いの」


 聞く耳を持たずに準備をする理恵を見て、父親はため息をついた。


「分かった分かった、父さんが車を出すから一緒に行こう」

「……うん、お願い」


 月明かりの下、車庫から車が発進した。助手席の理恵は携帯に神経を集中する。


「小夜子聞こえる? 大丈夫?」

「あしがしが、ひっ、うまくうごかない。かいだんのぼ、のぼりにく」

「頑張って! 私もすぐ行くから!」


 理恵の剣幕に、最初は安穏とした表情だった父親も今では真剣にハンドルを握っている。


「小夜子、相手の動き分かる?」

「あ、あしおとひぃっ!!!」


 一際高い小夜子の悲鳴。運転席の父親にも聞こえたらしく、表情が一段と厳しくなった。


「小夜子! どうしたの!」

「……で、でんき、でんきがきえ……まっくら、ひいぃっ、みえない……みえないよおっ!!」


 小夜子の嗚咽と悲鳴が車内に反響する。


「小夜子しっかりして! しっかりしてよお……」

「みえないよう……たすけてえっえっ」

「しっかりしなさい理恵!」


 突然父親が大きな声で理恵を叱咤した。その声に理恵は驚いたように目を見開いていたが、流れていた涙を拭うと携帯電話を握りなおした。


「小夜子、小夜子、頑張って……」

「えっ、えっ、ひっひい……」


 もう携帯からは嗚咽とか細い悲鳴しか聞こえなくなっていた。

 その嗚咽と悲鳴の向こう側から、小さいがはっきりとした足音が携帯を通して理恵の耳に入ってきた。


「小夜子……! 逃げて、逃げてお願い……!」

「えっ、えっ、うええ……」


 手が白くなるほど携帯を握り締めていた理恵が、一瞬大きく痙攣した。

 しばらくそのままの姿勢で固まった後、ゆっくりと携帯を自分の前にもって来る。

 震える手でリダイヤルのボタンを押す。


「電源が入っていないか、電波の届かない場所に」


 何度もリダイヤル繰り返しても変わらない携帯の画面を、蒼白の顔色で理恵はじっと見つめていた。


「理恵、着いたぞ!」


 数分後、車は団地の近くに停車した。理恵は無言のまま車から降りて団地を見上げる。月に照らされた団地は静かな眠りについているように見えた。

 二人が走りながら団地の敷地内に入ると、前方の棟から警官が現れてこちらに向かってきた。


「すみません、ここらで若い女性を見ませんでしたか?」


 理恵は警官の声を聞くと、両手で握り締めている携帯から顔を上げた。


「あの……私が通報したんです」

「え? あなたのお名前は?」

「杉田、理恵です」

「ああ、あなたですか。いや、困りましたよ、この団地の五棟って言うから探したんですけど、ここ四棟までしかないんですよね」

「そう……ですか」


 理恵は携帯を握る手に力を入れた。


「うーん、とりあえずお友達の住所と電話番号を教えてもらえますか。家に帰っているかもしれないし」

「……はい」


 理恵は小夜子の家の住所と電話番号を警官に伝えながら、ほんの数分前まで耳に当てていた携帯の音を思い出していた。

 通話が途切れる直前、嗚咽と悲鳴の向こうから聞こえてきた規則正しい足音。

 それが止まった後、理恵は確かに聞いた。小夜子の携帯のすぐ近くから、低く小さくはっきりした声で



「みつけた」

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