井戸をみる

 ぼんやりとした視界にあいまいな風景。

 どこかでみたような、みたことのないような。

 井戸がある。

 ゆらゆらとたたえた水のように、にじんで見える井戸がある。

 いつのまにか目の前に井戸がある。

 中をのぞくとそこには――


 スマホのバイブレーションの音がする。

 目を開くと、窓のカーテンからもれる光が見えた。

 また、朝がきた。

 何か妙な夢を見たような気がする。どんな夢だったか。

 ぼんやりと考えながら身体をおこす。

 また、面倒くさい一日が始まる。


 朝の教室はざわめいていた。


「おう、山本、おはよう!」


 無駄に元気な声で話しかけられる。おはようと元気なく挨拶を返す。朝から疲労がたまりそうだ。

 野球部で朝練しているのにこの元気はどこから来るのかと、いつも疑問に思っている。

 声をかけてきた中学からの同級生である斉藤の顔の方へゆっくりとふりむく。


 ……? なにかあったか?


 いつも元気が張り付いているような斉藤の顔に、なにか沈んだような雰囲気がある。

 これはこれで大事件だ。


「いや、なんか変な夢を見たんで寝不足でなあ」


 変な夢、妙に胸がざわつく。

 どんな夢を見たのだろう。


「井戸の中をのぞきこんでてさ、落ちそうになったところで目が覚めて」


 井戸。そういえば夢の中のあれは井戸だった……ような。


「え? おまえも見たの?」


 突然近くにいた児玉がくいつくように振り向く。


「お前も井戸の夢?」

「そうそう」


 児玉と斉藤がすこし興奮したような表情で話す。

 児玉もすこし沈んで見える。よく眠れなかったのだろうか。

 そこへさらに追加される人。


「あー、そういえば俺も見た」

「俺も俺も」

「なんだよこれ運命?」


 二人の周りに人が集まる。結構な数が同じ夢をみているようだ。

 自分も同じ夢を見たような気がする、いやあれは井戸だった、なぜか確信する。

 しかしこの騒ぎに参加するのは面倒くさい。

 さわがしい塊から視線をはずし、窓から外を見る。

 いつもより空が遠く見えた。



 学校も終わり、家へと戻る。ようやく面倒くさい一日が終わる。

 部屋の中でベッドに寝転んで天井を見上げる。

 なにか、妙な違和感がある。天井はこんな感じだったか?

 ぼんやりまとまらない考え事をしていると、部屋のドアがノックされた。

 適当な返事をすると、ドアが開いて母親が顔をのぞかせる。

 すこし青ざめた口から、弱々しく押し出された言葉。


「樹、今学校から連絡があってね……斉藤くんが亡くなったって。それでね……」


 続く言葉は素通りしていく。

 妙な違和感はあった。


 何があった。


 漠然とした不安はあった。


 いったい何があった。


 電池が切れていたスマホにコードをつなぐ。

 大量のメッセージが次から次へと吐き出される。


 放課後の野球部の練習中、斉藤が突然倒れて動かなくなったらしい。

 そしてそれは斉藤だけではなかった。

 野球部で五人、サッカー部で四人、バスケット部で一人が倒れ病院に運ばれたがすでに亡くなっていたと。

 サッカー部の児玉も、亡くなった……らしい。

 斉藤、児玉……朝のざわめきを思い出す。

 まさか……しかし、でも、もしかしたら。

 今日は、眠らない方がいい。そんな気がする。

 ベッドの上で、スマホの画面をただみつめる。

 天井が、やけに高い。



 いつの間にか外は明るくなっている。

 また、朝が来た。

 一睡もしていないけど、動きづらいくらいで眠気はない。

 顔を洗い、服を着替え、食欲はないので朝食はとらずに家を出る。

 今日の学校は集会があるらしい。

 なんだか気が重い。動きたがらない身体を無理やり歩かせた。


 夢、斉藤、死、学校、井戸……歩きながら考える。

 足から伝わるアスファルトの感触がいつもよりゆるい気がして考えがまとまらない。

 気が付けば校門が遠くに見える。足早に歩く。

 遠い校門が近づく。同じ制服を着た集団の中、ひとり足早に歩く。

 流れるように、吸い込まれるように、学校の敷地へと足を踏み入れる。


 横を歩いていた女子生徒が突然しゃがみこんだ。

 前を歩いていた男子生徒はゆっくりと傾きそのまま鈍い音と共に地面とぶつかる。

 振り向けば四つんばいになった生徒が嘔吐している。

 誰もが地面に近づこうとしているように見える。ほかに立っている者はいない。

 いったい何がおきた。呆然とひとり立ち尽くす。


「きみきみ、そこのきみ」


 足元を埋めるうめき声の中、妙にはっきりとした音が聞こえた。

 音のした方を見る。

 校門の外、道路の向かいに何かがいた。

 笑顔のような表情をして、どこか知らない学校の制服を着たそれはこちらに向かって手招きをしている。

 長い髪が吹いてもいない風になびき、アスファルトに足をつけたまま浮いている……いや、沈んでいる?

 女性、たぶん女性と目があう。

 何かは口を動かす。地面から音がする。


「きみ、井戸を見ただろう? 見たんだろう?」


 何を言っている。

 何を知っている。


 なぜ知っている。


「すこし話をしよう。なあにたいした話じゃない」


 何かはそう言うと、こちらに背を向けてどこかへと歩き出した。

 ついていってはまずい気がする。身構えるようにその場にとどまる。


「きみ、このままだと友達のようになるぞ」


 何かは振り向くことなく足も止めることもない。ただ、音が聞こえる。

 何が、おきている。

 何かの後を追い、たくさんの生徒がうずくまる学校を後にする。

 空が遠のく。



 何かの後を追いつかず離れないように歩く。ただひたすらに地面を見て歩く。

 どのくらい経っただろう。太陽が西に傾きだした。


「やあついたついた」


 何かの楽しげな声がする。

 顔をあげると堤防があった。そのむこうには海。

 何かは微笑んでいる。うれしそうに。


「すまないね、こんな遠くまで」


 静かな海辺、風も吹かない。

 いったいこれは何を知っているのか。

 なぜ井戸の夢を見たことを、


「だってきみ立ってたじゃないか」

「ぼくがちかくにいるのに立ってたじゃないか」

「それはつまり井戸をみたってことだ」


 何かは声を出す。声は下のほうから聞こえる。


「ぼくのちかくでは生きているものはだんだんと死んでいくんだ」

「生きていられなくなるんだ」

「だから、きみだってすぐわかったよ。だって」


 それは、それはまるで……


「ああ、そうか、そうだな。きみちょっとぼくのいうこときいてくれるかな」

「なあにかんたんなことだ」

「くるしくなるまでいきを止めてみてくれないか」


 何かは小首をかしげてこちらを見ている。

 ためしに大きく空気を吸い込んでから、水中にいるように息を止めてみる。



 空は鮮やかな赤色に染まりつつある。太陽はあいまいな輪郭のまま海に近づいている。

 頭を支えるように手を口に持ってくる。

 しらずしらずのうちに鼻で息をしているのではないか、そんな期待のようなものは消え去った。


「そうだ、そうなんだ、きみはもういきをしなくてもいいんだ」

「たべなくてもいいし、ねむらなくてもいい」

「きみはもういきていないんだ」


 口に手をあてたまま、体が細かく震えだす。

 何故、何故?


「ああ、あまりふるえてはだめだうごいてはだめだ」

「からだを動かしているとそれだけはやく動けなくなる」

「あれだけあるいたから、きみの足はもう動かないだろう?」


 言われてはじめて気づく。足が動かない。

 地面に突き刺さった二本の棒のように。


「きみはふだんからあまり身体をうごかさないようだね」

「おかげでここまでくることができた」

「ありがとう、ありがとうといわせてくれ」


 何かが何かを言っている。足が動かない。

 このまま全身が……そこで気づく。

 もしかして斉藤は


「きみの友達か。彼らはたんにうごけなくなっただけだ」

「脳も、心臓も、肺も、からだの意味がなくなっただけだ」

「いまのきみのように」


 もしかして斉藤は


「だから彼らは今も意識はあるはずだ」

「そしてこれからも意識はあるはずだ」

「彼らはいきていないが、しぬこともできない」

「きみもこのままではそうなる」


 いつの間にか太陽は空から消えていた。

 暗い、黒い空が落ちてくる。

 身体の震えが止まらない。

 何故、何故。


「そうだな、その疑問はもっともだ」

「ぼくの足元をみてくれないか」


 何かの足元に視線をうつす。

 明るいうちは気づかなかった、なにか大きな穴のような物が、堤防のコンクリートの向こうに見える。

 女生徒の服を着た何かは、その上に立っている……いや、落ちている?


「そうだ、これが原因だ」

「ぼくもこれが何かはしらない」

「人の前にでてくるときはよく井戸のかたちになる」

「これの近くにいると死んでいくし、井戸を見てしまえば落ちる」

「そうだ、この穴に落ちるんだ」


 大きな穴。その穴を見ていると、ゆっくりとひっぱられるような感覚を覚える。


「おちたらおわりだ。生きることも死ぬこともできない」

「ぼくの時は村の井戸がこれにすりかわった」

「村にいた人は全部落ちた」

「みんな動けなくなって、身体も腐って骨だけになった」

「僕はよく知らなかったから、みんなを土に埋めてしまったんだ」

「土の中は退屈なんじゃないか。僕は悪いことをしてしまったかもしれない」


 彼女は、ばつの悪そうな顔をしてはにかみながら笑った。

 気が付けば身体の震えは止まっている。

 彼女は、いつの間にかこちらに背を向けて海を見ている。

 ふと思う。何故、彼女だけ動いている?


「そうだ、その疑問が君をここに連れてきた理由だ」

「僕は、この穴の蓋、らしいんだ」

「前に蓋をやってた人から聞いただけだから、僕も本当かどうか知らない」

「蓋でいるうちは、普通に動けるんだ」


 そう言って彼女はその場でくるりと一回転した。


「でもね、僕はもう嫌になったんだ」

「誰かに代わってもらいたくなったんだ」

「だから穴から少しだけずれたんだ」


 彼女が顔を空に向ける。月も星も見えない空。

 夜はこんなに黒かっただろうか。


「ずれたところから出た穴は井戸になって」

「見た人を落としていく」

「穴の蓋になれるのは、落ちた人だけなんだ。普通の人は近寄るだけで死ぬから」


 そう言って彼女はさびしそうに笑った。

 動かなくなりつつある身体、動かなくなった斉藤達、どうして、ここまでする必要があったのか。


「うん、僕はね」

「もうこれ以上、この穴に落ちるのは嫌なんだ」


 照れくさそうに、笑った。


「さ、手をだして」


 彼女はこちらに向かって右手を差し出した。

 ここでこのまま動かなくなるか、差し出された手を掴むか。

 だいぶ動きづらくなった右手を、ゆっくりと、少しづつ彼女の右手へと伸ばした。


「うん、差し出す意思と受け取る意思があれば交代できるんだ」


 彼女の手をしっかりと掴む。


「ありがとう」


 落ちる。

 おちる。

 底があるかどうかわからない深みに向かってどこまでも落ちていく。

 確かに、これは、嫌だ。


「ありがとう」


 彼女は笑っている。泣いている。


「君もどうしても嫌になったら、蓋をすこしずらすといい」

「考える時間はたくさんある」


 彼女はこれからどうするのだろう。


「僕は、海に行くんだ」

「海の中で、いろんな生き物をずっとずっと見続けるんだ」

「きっと退屈しないと思うんだ」

「蓋をやめた僕はもうすぐ動けなくなる」

「だからできるだけ海の近くで交代したかったんだ」

「ありがとう」


 そういって彼女は、海に向かって歩いていく。

 海に向かって歩く彼女は、静かな波の中へと消えていった。


 空が少しづつ明るくなっていく。

 また、朝がきた。

 彼女は海の中で魚を見ているのだろうか。

 それとも底に沈んでカニの観察でもしているのだろうか。


 足元を見ると、大きな穴が口をあけている。

 底は見えない。

 たぶん底はないのだろう。

 ゆっくりと、確実に落ちている感覚がある。

 これがずっと続くのだろうか。


 ――ああ、嫌だ。

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