プレゼント
12月25日、夕方。すでに薄暗くなった世界。
冷たい風がビルと道路に吹き、ちらほらと降り始めた雪が体感温度をさらに下げていく。
伊藤憲一は車の中でハンドルを握る手をせわしなく閉じたり開いたりしていた。
上に見える信号はいまだに赤で、伊藤の心を焦らせる。
ちらりと後ろを振り向くと、後部座席に置いてある大きな箱には、赤くて大きなリボンが綺麗な模様を作っていた。
「早く帰らなきゃ」
思わず焦りの呟きが漏れてしまう。
我が家では妻と娘がクリスマスパーティの準備をして自分の帰りを待っている。
会社を定時に飛び出した伊藤は、近くのデパートで前から娘が欲しがっていた大きなぬいぐるみを買い、自宅へ車を走らせる途中で信号に捕まっていた。
「まだかよ……」
毒づいた伊藤の言葉を聞いたようなタイミングで信号が青に変わる。伊藤はアクセルを踏み込んだ。
車がタイヤを軋ませながら前に進む。
「うわっ!」
次の瞬間、勢いよく飛び出した伊藤の視界を真っ白な光が覆った。
「どうしますか? これ」
「わしは知らん。忙しいからほっとけ」
伊藤の耳に誰かの話し声が聞こえてくる。
そういえば家に帰る途中だった、早く帰らなきゃ。
伊藤がゆっくりと目を開けると、黒い雲と暗い空が見えた。その上をいつの間にか勢いを増した雪が視界を白く覆う。
……あれ? 外? 車は?
あわてて伊藤が起き上がる。周囲を見ると吹雪とその隙間に黒い空。一瞬現実感を失った伊藤に向かって声がした。
「あ、おはようございます」
「やっと起きたか」
状況がよく把握できない状態で、こわばった体を声のするほうに向ける。
そこには赤い何かがいた。よく見るとそれは真っ赤な服を着た人間の背中。
「だ……誰?」
思わず呟いた伊藤の声に、赤い人間が面倒臭そうに顔だけ後ろを見た。
「そりゃこっちの台詞だ。誰だお前は」
よく見ると赤い人間は縁が白いふわふわの赤い帽子をかぶっていた。眼光鋭くまゆ毛が白くて皺が多い。
髭の無い顎を片手でなでている。厳しそうな老人の顔。
「えーと、俺は……」
伊藤が喋ろうとすると世界が斜めに傾いた。
「のわあっ」
あわてて手を振り回し、触れる物をとっさに掴む。
「ぼやぼやしてると振り落とすぞ」
……振り落とす?
伊藤は傾いた上でバランスを取りながら、ふと視線を下に落とした。
光の乱舞。白い雪が風に乗り、圧倒的な流れを作る中、光があちこちから溢れるように輝いている。
伊藤はしばらく呆気にとられて眺めていたが、光のいくつかは動いている事に気付いて凝視してみた。
……自動車?
他の光をよく見るとビルや住宅の明かりだった。
「え? 浮いてる? 空?」
「いまさら何を言っとるんだ」
前にいる赤い人は振り返りもせずに吐き捨てるように言った。
「まあまあ、今まで寝ていたんですから」
赤い人のさらに前から他の誰かの声がする。斜めからようやくまっすぐに戻り安定を取り戻した足場で、伊藤は身を乗り出し声の主を見てみた。
全身茶色ですらりとした足を使って宙を蹴り、大きく立派な角を持った
「……鹿?」
「失礼な。トナカイですよ」
トナカイの口が動き、流暢な言葉が流れてくる。
「え? あれ? 喋ってる?」
「そりゃあ、トナカイですから」
「ああ、そうなんだ……え?」
混乱の中、伊藤はこれまでの記憶と経験を総動員してトナカイについての知識を反芻していた。
少なくとも伊藤の知識の中のトナカイは喋らない。喋るわけが無い。
しかしそれはあくまで伊藤の知っている範囲での事で、ひょっとしたら世界のどこかには喋るトナカイがいるという可能性も
「いや、ないないない!」
伊藤が頭をふって意識を現実に戻す。しかしその現実では空中でトナカイが喋っている。
「どうしたんですか?」
トナカイの黒い瞳が伊藤をじっと見つめていた。
「あ、いや、別に」
伊藤はとりあえず深く考えないようにした。
トナカイだってたまには喋るだろうし、空を飛ぶってんなら飛行機だって空を飛ぶさ。イカロスだってロウで固めた鳥の羽根で飛んでるじゃないか。ああ、あれは結局落ちたっけ。
ふと伊藤は自分が何に乗っているのだろうと思い、座り込んでいる足場をよく観察してみた。
木でできた長方形の枠、身を乗り出して覗いてみると、下には長く先端に行くほど上に湾曲している棒が見える。
……ソリ?
これまでの情報を総合して、伊藤の頭にとある仮説が浮かぶ。
伊藤が何か言おうとして口を開くと、いきなりソリが大きく前方に傾いた。
「のうおっ」
突然の急降下に格好悪い声を出しながら木枠にしがみつく伊藤。
「振り落とされないようしっかり捕まっとけよ」
赤い格好の老人が振り返らないまま伊藤に声をかける。
「そ、そんな後から言われても。もう少し丁寧な運転を……」
「バカヤロー、ネズミ捕りも検問もねえのに何が丁寧な運転だ」
ソリはそのまま降下を続け、スピードに乗ったまま雪が積もりつつある閑静な住宅街に入っていった。
赤い服の老人が不機嫌そうな声を前に向かって投げかける。
「おい鹿」
「トナカイです」
「そんなに違わんだろ。次の場所はどこだ」
「大違いですよ。下にある道に沿って、この先を右に曲がった後まっすぐです」
ソリは道路の上5メートルくらいを滑るように進んでいく。交差点に差し掛かると、減速せず右に大きく傾きながら右折した。
「うおお」
伊藤は振り落とされそうになりながらも必死にソリにしがみつく。
ソリってこんな乗り物だっけ。伊藤の脳内で妙に冷静な言葉がこだました。
「あ、あの、ソリって滑るように走るんじゃ……」
伊藤の言葉に赤い服を着た老人は、口から言葉を吐き捨てた。
「知るか。滑るのは馬の冗談だけで十分だ」
「トナカイです」
トナカイがあくまでもトナカイを主張する。
「滑るというのも聞き捨てなりませんね。それはあなたにブリティッシュジョークの素養がないからですよ」
「何がブリジョークだ」
トナカイがむっとしたような表情を見せた、ような気がした。
「いいでしょう、教育してあげますよ」
そう言うとトナカイは朗々と声を上げた。
「イギリスのチャーチル元首相がいつも教会に来るので、牧師が訊ねたんです。どうしていつも教会に来るのですかって」
伊藤は神妙な顔で聞き、赤い老人は微動だにしない。
「そこで答えて曰く、なぜなら私はチャーチルだからだ」
トナカイの言葉が終わる。伊藤はしばらく思考した後、考えるのを放棄した。赤い老人は微動だにしない。
「えーと、教会を英語でチャーチというんです。で、それをチャーチルとかけていて……」
伊藤は「なるほど」と呟いて2、3秒してからあごに手を当てて首をひねった。赤い老人はやはり微動だにしない。
しばらくの間、ソリの周りでは微妙な雰囲気のまま音が消え、雪の降る音がしんしんと重なっていった。
「だから牛の冗談は嫌いだってんだ!」
「いくらなんでも牛は無いでしょう!」
二人の応酬を聞きながら、伊藤は牛とトナカイは同じ偶蹄目ということを思い出したが、なんとなく黙っておいた。
その後言葉の大砲を二、三発交わした後黙り込んだ一人と一頭と、さっきから黙っている一人を乗せたソリは、道路の上を静かに走っている。
伊藤が前方を見ると、T字路のつきあたりに一軒の家があった。何の遠慮もなく家がどんどん近づいてくる。
速度が全く落ちないソリに少し恐怖を抱いた伊藤が訊ねてみた。
「あのう、あの家が目的地ですか?」
恐る恐る聞いた伊藤に赤い服を着た老人がぶっきらぼうに答える。
「ああ」
「止まらないんですか?」
「止まったら着かないだろうが」
何か根本的な所で誤解が生じている。伊藤は、改めて赤い服を着た老人に声をかけようとした。
ふと前を見ると家の壁が迫っている。
「うわあっ」
伊藤は両腕で顔の前を覆って目を閉じ、来るはずの衝撃に備えた。
「何してんだ」
老人の声に伊藤がしっかりと閉じていた目を開くと、雪も空も見えなかった。薄暗い中に本棚と学習机と……ベッドに子供が寝ている。
「ここは?」
「この家のガキの部屋だ」
「ここで何を……」
「仕事だ」
赤い服を着た老人はそれだけ言うと、ソリの荷台に置いてあった大きな袋に手を突っ込む。中でがさごそと動かした後引き抜いた手には、赤いリボンが綺麗にラッピングされている白く四角い箱があった。
老人はそれをベッドで寝ている子供の枕もとに静かに置く。箱は一瞬輝くと光の粉になって子供の周りに散った。
「えっ?」
「さて、ここは終わりだ。次行くぞ」
「い、今のは?」
泡を食っている伊藤にトナカイがなだめるように話し掛ける。
「まあ、それは移動中に追々お話しますよ」
よく分からないうちに伊藤はソリの荷台に乗っていた。気がつくとまた周囲が吹雪に覆われている。
風景と雪が後ろに流れていく。ソリはまたどこかに向かって走り出した。
伊藤の頭に浮かんだ言葉が、自然と口を突いて出てきた。
「もしかして……サンタ?」
「三太? わしの名前は長一郎だ」
赤い老人がぶっきらぼうに答える。
何か根本的なことで誤解が生じている。伊藤がさらに言葉を重ねようとする所にトナカイが入ってきた。
「まあ、そうですね。サンタクロースです」
あっさりと認めてしまったので、拍子抜けした伊藤は二の句を継ぐのを一瞬忘れてしまった。
「……ええと、さっきの箱は、あれ一体なんですか?」
「プレゼントです。サンタクロースですから」
「消えたみたいですけど……」
「物じゃないからな」
赤い服の老人がボソっとつぶやいた。
「え?」
「あれは夢なんですよ」
トナカイが老人の後を継いで話し出した。
「正確に言うなら夢を見る力ですね」
「?」
よく理解できない伊藤を、振り返ってちらりと見てからトナカイは話を続ける。
「子供がたくさん夢を持てば、それだけこの世界の可能性が広がるんです。いい方にいくか悪い方にいくかはともかくとしまして」
相変わらずトナカイはシカ科とは思えない流暢な言葉で説明する。
「未来に広がりが無いという事は、緩やかに衰退していくという事ですし、その先にあるのは枯れて滅びる世界です」
一度言葉を切ったトナカイは、伊藤の目を見た。
「ですので私達は、世界の延命のために子供達に夢を見る力をお配りしているという次第でして」
「はあ」
気の抜けた声を出す伊藤。
老人は胸ポケットからオレンジに茶色のストライプの箱を取り出した。中の煙草をくわえてマッチで火をつける。
「あれだ、ガキは夢を食って大きくなるっていうだろ」
「獏?」
伊藤の言葉に、老人は呆れたような声を出した。
「そりゃ化物だ。まあでも、ガキは可能性の化物と言えなくもないしな」
紫煙が雪と一緒に暗い空を流れていく。
「年をとると何が出来て何が出来ないか分かるようになるからな。可能性はガキの特権だ」
そこまで言うと、老人は煙草をソリに押し付けもみ消した。
「さて、今日中に後何件だ?」
「13件です」
「時間もないし、急ぐぞ」
ソリが加速して上昇する。その後も不法侵入を繰り返し、次々と箱を枕もとに置いていった。
途中でトナカイの滑らかなスリップジョークで何度か無駄な諍いがあるも、25日が終わる一時間前に配り終えた。
赤い服の老人がまたポケットから煙草を取り出し、両手で風をふせぎつつマッチで火をつけた。
「とりあえず今日に間に合ったか」
雪が風に乗って舞う中、赤い服を着た老人は煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「終わったんですか?」
伊藤の問いに、老人はちらりと一瞥をくれると、煙草をもみ消す。
「後はまあ、わしの個人的なことだ」
「個人的?」
老人は伊藤の言葉には答えず、「後一時間か」と呟いて手綱をもった。
二人と一頭で進むソリは、街の中心から少し外れた所にあるマンションにやって来た。
今までと同じ様に壁を通り抜けて中へと侵入する。
飾り気のない質素な部屋。その床に布団が三つ敷いてあって、そこに小さな女の子と女性と男性が眠っていた。
「この人たちは……?」
「わしの娘と孫だ」
老人の声がさっきまでと比べて穏やかになっていた。
「そっちの男性は?」
「わしの娘をかどわかした悪人だ」
老人の声がさっきのに戻った。
驚く伊藤を他所に、老人はソリの荷台の袋に手を入れると、白いリボンで飾られた黄金色に輝く箱を取り出す。
今まで見てきた箱と違う事に伊藤が戸惑っていると、トナカイが静かな声で説明をはじめた。
「あれはサンタをやってくれた方への報酬です」
「報酬?」
「ええ、良い方向に向かう可能性といいますか、分かりやすく言うと幸運ですね。それを誰かにあげられるんです」
トナカイの言葉を聞きながら、伊藤は老人が手に持つ箱を見つめている。まず小さな女の子の枕もとに置かれ、次に女性……母親の枕もとに置かれた。
「これで幸せに?」
「幸運をどう生かすかはその人次第です。まあ大体幸せになりますけど」
老人は再び荷台の袋に手を入れて、今度は全体的に黒い箱を取り出した。
「あれも幸運の箱? なんとなく不吉っぽいけど」
「いい勘をしていますね。あれは不幸の箱です」
「……は?」
おもわずトナカイの顔を凝視してしまった伊藤。一方老人はそんな周囲を気にする事無く、黒い箱を寝ている男の頭に向かって投げつけた。黒い箱は男の頭にぶつかると、いかにも体に悪そうな黒い粉になって男の周囲に降り注いだ。
おそるおそる伊藤が老人に話し掛ける。
「あの、義理の息子さんなんですよね」
「戸籍上はそうだな」
「そんな人になんでそんな物を」
伊藤の言葉にも、老人は飄々としていた。
「こいつは敵だ。それにわしの娘を嫁にもらうという幸運でこいつは運を使い果たしとるはずだ。今更不幸が一つ二つ増えた所でかまわんだろう」
「はあ」
「まあ、居なくなったと油断しておる所だろうが、そうは問屋が卸さん。これはわしからの最後の試練だ。娘の婿としてふさわしい所を示してもらおう」
「はあ」
老人はそれだけ言うと、自分の肩をだるそうに叩いた。
「さて、そろそろ時間だし出るか」
老人がソリに向かい、伊藤も荷台へ戻ろうとした。なにげなく振り返った伊藤の視界に四角い何かが見える。
タンスのガラス戸の奥に、老人の顔が写っていた。黒い縁の白黒写真。
遺影だった。
風はいつの間にか止んでいて、雪はまっすぐ地面に向かって音もなく降りていく。
赤い服を着た老人はソリの上で煙草をふかしていた。
「何か言いたそうだな」
伊藤はその言葉に、荷台から老人の背中を見る。
「……渋い煙草ですね」
老人は自分の吸っている煙草をまじまじと見つめた。
「そうか? まあ、本当は禁煙していたんだが、娘が棺に入れておいてくれたんでな」
伊藤は自分の想像が当っていると確信した。そしてこの老人と会話を交わすことができる自分の存在を思う……伊藤の背中に冷たい物が走る。
「俺……どうなるんでしょうか」
老人はポケットからオレンジに茶色のストライプの箱を取り出した。中から煙草を一本とって箱をくしゃりと握りつぶす。
「最後の一本か」
老人は顔だけ後ろを向いて、うつむく伊藤を横目で眺めた。
「道路の上を走っていたら、突然お前さんが転がり込んできてな。驚いたぞ」
道路……そう、あの時早く帰ろうと車を発進させたら白い光が
「……トラックだ」
伊藤の脳裏に、アクセルを踏んで急発進させた車の左側から、トラックのヘッドライトが迫ってくる様子が蘇った。
「そうか、俺はあのままトラックと……」
「信号無視か」
老人が最後の一本をくわえ、マッチで火をつけながらたずねた。
「信号は……ちゃんと守りましたよ。ただ、早く家に帰ろうと焦ってて」
「何か用事でもあったのか」
「用事というか、子供に早くクリスマスプレゼントをやろうと」
老人のくわえていた煙草から、雪と一緒に灰が静かに落ちていく。
「子供か……年は?」
「4歳です」
そこまで聞くと、老人は煙草をくわえたまま伊藤の居る荷台に来て、無造作に置いてある大きな袋の中に手を入れた。
「男か」
「女の子です」
「……そうか」
老人は袋から真っ赤なリボンが綺麗に巻いてある真っ赤な箱を取り出した。
「娘さんにプレゼントだ」
「え、でも……」
「いいから受け取っておけ」
「は、はあ」
強引に赤い箱を持たされた伊藤は、戸惑いながらも受け取った。
それまで黙っていたトナカイが老人に向かって口を開く。
「いいんですか?」
「かまわんだろ。これ以上わしがもっていても意味はあるまい。幸い使う機会もなかったしな」
煙草がちりちりとささやかな音を立てる。老人は紫煙と吐息を吐き出した。
「それで、お前さんは子供に何をプレゼントしようとしてたんだ?」
「え、ああ、大きなぬいぐるみを」
厳格な雰囲気だった老人の表情が、少し和らいだ。
「そうか……わしなんぞはそういうのが苦手でな。こんな事になってから何かを遺したいと思ったが、可能性やら幸運みたいなあやふやな物しかもう贈ってやれんかった」
煙草の灰がまた落ちて舞う。長さはもう半分以下になっていた。
「もっと長く、娘と孫と過ごしたかった、もっとたくさん、思い出を残したかった」
老人の顔に自嘲と悔恨の色が見える。
「もっと早く病院にいっとけば……まあ、いまさら言うてもしょうがないが」
煙草はもうフィルターの所まで来ていた。老人はいとおしそうに最後の一服を吸い、吐き出す。
「まあ、頑張れよ」
紫煙と共に吐き出された言葉。
支える物のなくなった煙草が、雪の積もりだしたソリの荷台に静かに落ちた。
また風が強くなってきた。降る雪の量も増え、吹雪になりそうな天気。
伊藤はソリの上で、赤い箱を持ったまま白く染まる視界を眺めていた。
眼下では相変わらず街の光が瞬いている。
沈黙を破るようにトナカイが口を開いた。
「そろそろですね」
伊藤は顔だけ上げてトナカイを見る。
「次は……俺がサンタになるのかな」
トナカイは大きく立派な角を左右に振った。
「残念ですが、あなたにはその資格がありません」
「資格?」
「あなたはまだ思い出になっていない」
一際強い風が吹き、雪の壁が伊藤の視界を覆った。
「それは、どういう……」
「まあでも、人手不足ではあるので、あなたが現実の舞台を降りた際には是非ともお願いしたいですね」
伊藤の視界が、ぐらり、とゆらいだ。
「ああそうだ、その箱は大切にしてくださいね」
雪の隙間からトナカイが喋る。そこに居るのはずなのに遠ざかっているような錯覚を伊藤は覚えた。
「この箱は?」
「それは不条理です。分かりやすく言うと奇跡ですね」
「え?」
雪に覆われ白かったはずの周囲がいつの間にか黒い幕が下りたようになっていた。
「娘さんによろしくね」
「ちょっ、ちょっと待って」
遠ざかるトナカイが片目をつぶった。
「Merry Christmas」
伊藤の意識は黒に覆われた。
伊藤が目を開くと、ぼんやりとかすんだ天井が見えた。
耳には機械的な音が規則正しく入ってくる。
目だけを動かして周囲を見回すと、近くにいた白っぽい服の女性と目があった。
「先生! 伊藤さんの意識が戻りました!」
突然叫んだ女性はそのまま走り去ってしまった。
なんだか疲れた伊藤は、重くなった瞼を閉じた。
再び目がさめた時、伊藤の手を妻が泣きながら握り締めていた。
話を聞くと、滅茶苦茶になった車の中から救助されて病院に搬送された時、医者もさじを投げかけていたという。
「先生も信じられないって……奇跡だって……」
泣きながら握ってくる手を握り返してみた。温もりと手ごたえが現実である事を教えてくれる。
夜が明けて次の日。だいぶ元気になった伊藤を見て、朝の診察にきた医者が「現代医学に対する挑戦か」とつぶやいた他は特に何もなく平穏に過ぎていった。
午後になって伊藤の娘が病院へやって来た。
「パパー!」
ベッドに駆け寄ってくる娘の頭をなでてやる。体のあちこち痛むがそれはどうでもよかった。
「あなた、そういえばこれ」
そう言って妻が赤いリボンを差し出してきた。なんでも、集中治療室から出てきた時、右手にしっかりと握られていたらしい。
あの赤い箱に巻かれていた赤いリボン。あれも現実だったのだろうか。伊藤がそんな事を考えつつリボンを眺めていると、かすれた文字のようなものが見えた。
顔の前に持ってきてよく見てみる。
”あたり、もう一回”
そんな事が書いてあった。
「俺の人生は当りつきアイスかよ……」
伊藤が顔の前の不条理を眺めていると、娘が自分の方をじっと見ている事に気付いた。
「ん、どうした?」
娘は伊藤の持っているリボンをずっと見つめている。
「ああ、これか……」
伊藤はリボンを娘に差し出した。
「知り合いのじいさんと鹿からお前にクリスマスプレゼントだってさ」
リボンを受け取った娘の顔がぱあっと明るくなる。
はしゃぐ娘を見ながら妻に話かけた。
「退院したら皆でどこかに行こうか」
「どうしたの? いきなり」
「いや、いきたいなーって」
不思議そうな顔をした妻。病室内を走り回る娘。
伊藤がふと窓の外を見ると、晴れた空と太陽の光を反射して一面の雪が白く輝いていた。
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