第2話

「うわー! すごっ!」

 眼前に広がる青い海から、聳え立つようにして大きな壁が島全体を囲っている。まるで、外敵から民を守るために作られた要塞のようだ。

 基子が向かっているのは伊豆諸島南部にある秘境「藍ヶ島」

 八丈島から約七十キロ。船だと二時間半。ヘリコプターだと二十分。伊豆諸島の有人島としては最南端に位置し、来る者を寄せ付けない独特な地形から「鬼ヶ島」とも呼ばれている。そして、二重式カルデラを一望できる珍しい島でもある。

 けたたましい音を立てながら、基子が乗っているヘリコプターは、丸の中に『H』と書かれた場所に着陸した。羽を完全に止めることなく扉が開くと、基子以外の人は慣れた様子で淡々とヘリコプターから降りていく。ぐるぐると回るメインローターの風圧で飛ばされないように、荷物をぎゅっと強く抱え、先に降りた人に倣うように早足でその場を離れる。すぐ近くには、これから八丈島に戻る人たちが待機をしていて、基子たちと入れ違いで乗り込んでいた。

 ヘリポートを離れ、道なりに歩くと、砂利が敷きつめられた狭い駐車場が道脇に現れた。メールで待ち合わせとして指定された場所は、多分ここで間違いはないだろう。基子は辺りをキョロキョロと見回した。

「猿渡さんですか?」

 不意に後ろから声をかけられ、びくっと肩が跳ねる。

 声のした方を振り向くと、人の良さそうなおじ様がニコニコと笑顔で立っていた。

「民宿『おぺら座の海神』の佐々木です」

「あっ、はい。予約した猿渡です。よろしくお願いします」

 基子がぺこりと大きく頭を下げると、おじ様も同じように頭を下げた。

「わざわざ遠いところお越しくださりありがとうございます。ささ、荷物持ちますよ。こちらへどうぞ」

 佐々木と名乗った男性は、基子の持っていたボストンバッグを受け取ると、そのまま近くに止めてあった車まで案内してくれた。荷物をトランクに積み込み、助手席にどうぞと声をかけられ車に乗り込む。

「八丈島からヘリコプターだとあっという間だったでしょう?」

「あっ、はい。早くてびっくりしました」

 佐々木は車のエンジンをかけると、後ろを振り向き、ゆっくりとバックさせた。

「よし、それじゃ行きますね」

「よろしくお願いします」

 のろのろと走り始めた車から外を眺めると、どこか懐かしい田舎の風景が広がっていた。小高い丘のその隙間から、点々と家が見える。

 道路も都心のように綺麗に舗装されたものではなく、少し凸凹としていて、時々ガタンと車体が揺れた。

「坂が多いんですね」

 窓を少し開け、車の唸り声を耳にしながら、基子はなんの気なしに聞いてみる。

「そうなんですよ。大昔の噴火によってできた土地の上に住んでますからね。道は狭いし坂は多いしでなかなかに住みにくいですよ」

 佐々木はカラカラと面白そうに笑う。

「でも慣れればここの暮らしも、快適とはいかないですが、のんびりしてて、良いもんです」

 確かに、東京都とは言え都心からは三五〇キロ以上離れている。当たり前だが、渋谷や新宿の喧騒がここまで届くはずもない。基子はそうなんですねと愛想笑いを返すと、再び車窓から外に目を向けた。濃緑色の切れ間から、澄んだ蒼色が広がっている。その少し上を見やると、ギラギラと白く照りつける太陽が、ゆっくりと西に歩を進めていた。雲ひとつない青空。基子の口元が自然と緩む。

 しばらくして、キッと車が停車すると、佐々木はサイドブレーキを力強く引いた。

「お待たせしました。着きましたよ」

 佐々木はそう言うが早いか、さっさと車から降りてトランクを開け、基子の荷物を取り出していた。基子も車から外に出る。駐車場に敷きつめられた砂利がサンダルと擦れて、ジャリジャリと大きな音をたてた。

「どうぞこちらへ。お部屋までご案内します」

 荷物を抱えながら、先導する佐々木。その後を基子は追う。

 駐車場から裏手にぐるりと回ると、今日からしばらくお世話になる民宿『おぺら座の海神』の看板が出迎えてくれた。木でできたその看板は、雨風にさらされていたせいか、少しくたびれている。そして、看板の横を通り過ぎると、すぐに玄関が見えてきた。民宿というだけあって、ホテルとは違い、まさに『家』である。そのまま玄関を潜ると、横には大きな靴箱があった。

「ここで靴を脱いでそこの靴箱に入れてください。もし心配なら自分のお部屋まで持っていっても構いません。ただ、そもそも靴を盗んでいく人がいませんが」

 佐々木はくすりと小さく笑った。靴箱を見ると、サンダルとスリッパだけがいくつか並んでいる。つまり、宿泊客は基子一人しかいないということだろう。

「ささ、こちらへどうぞ」

 玄関を上がり、左に続く廊下をUターンするように曲がると、すぐ右手には大きなソファーとテーブルが一つあった。そこを境にT字に廊下が分かれている。

「とりあえず、そこのソファーでおかけになってお待ちください。すぐに宿帳を持ってきますので」

 佐々木はそう言うと、基子の荷物をソファーの横に置き、いそいそと右手の廊下の奥に消えていった。

 基子は何となく佐々木が向かった先とは別の廊下に目を向けた。左手の大窓から差し込む陽の光が、廊下を明るく照らしていて、そのすぐ右手には障子の部屋がある。突き当たりには、四角い額縁の中に、大きな弓を携え、立派な赤い甲冑を着た武将が憮然とした表情で描かれていた。

 基子はソファーに座り、肩から掛けていたウエストバッグからスマホを取り出してポチポチと画面を叩いた。電波を見ると、3Gという文字が液晶の右上に小さく映し出されている。

「電波良くないんだ……」

「そうなんですよ。役場の付近は良いんですが、ここは少し離れてるので、どうしてもねぇ」

 いつの間にか戻ってきた佐々木が、基子の目の前のテーブルに宿帳とボールペンを置きながら言った。

「ここと、ここに記入お願いします」

 ボールペンを手に取り、基子はサラサラと自分の名前を書き込む。

「まぁ、便利なものは何もないところですがね。逆に、都心とは違って自然は沢山ありますから。たまには、そういった文明の利器から離れてみるのもいいんじゃないでしょうか」

 優しく微笑む佐々木に、基子は宿帳を手渡した。

 確かに佐々木の言う通り、ヘリポートからここに来るまでの間、基子の目に映ったものは澄み渡った青い空に懐かしい香りが漂う家々が少々。そして、我先にと太陽の光に葉を伸ばさんとする木々達。

 時折、「チチチチ」と聞こえる鳥の鳴き声が、基子の耳に心地良く響いていた。


——よし。


 基子はスマホの電源を落としてウエストバッグにしまった。

「そう言えば、ここら辺って歩いて観光できたりしますか?」

 事前に下調べはしていて車が無いと不便だとわかっていたのだが、念のため聞いてみる。

「いやいや。外からのお客さんが行くような場所は、車じゃ無いとちょっと大変ですよ」


——やっぱり。


 わざとらしく、あざとく肩を落として「そうなんですね」と溜息をつく。

 佐々木は頭をぽりぽり掻き、少し困ったような表情を見せ言った。

「時間があれば案内してあげれるんですが、ちょっと今日は色々と立て込んでて——そうだ! もしよければ、自転車が裏に置いてあるので、それで回ってみてはいかがでしょうか? いい運動にもなるし、天気も良いからきっと気持ちいですよ」

 基子的には、できれば車で案内してもらえる方が良かったのだが……

 用事があるのであれば仕方がない。この際、ご厚意に甘えて自転車を借り、島をぐるっと一周するのもやぶさかではない。脳裏に浮かんだ「自転車を漕いで汗をかく自分」の清々しいイメージに、気分を良くしてむふーとにやける。

 佐々木は先に部屋を案内しますと言うと、再び基子の荷物を持って右手の廊下を進んでいった。その後ろを基子はゆっくりとした足取りで追いかける。

 廊下の先は回り階段となっていて、そこを二階に上がると部屋が三つほど見えた。昔懐かしい黄土色をした化粧合板の扉がノスタルジーな雰囲気を醸し出している。扉の横には部屋番号が書いてあり、基子は一番奥の部屋、「参番」の部屋に案内された。佐々木はカチャリと鍵を開けて、どうぞと基子を促した。ペコリと軽くお辞儀をして中に入る。すると、井草の香りがふわりと鼻をくすぐった。


——懐かしい……ん?


 基子には畳の部屋に懐かしさを馳せる思い出は記憶になかった。昔住んでいた家も、曽祖母の家も、今のマンションも全てフローリングだ。不思議に感じつつも、きっと小さな頃に学校行事で泊まった宿だろうと思い、気にしないことにした。

 スリッパを脱いで小上がりを上がり、目の前の襖をすっと開ける。部屋は六枚の畳が敷きつめられていて、真ん中には折りたたみ式のテーブルと、右隅には小さなテレビ台の上に32インチのテレビが備え付けられていた。部屋の奥は広縁があり、古ぼけた椅子と小さなテーブルが一脚ずつ、そこだけ時の流れが忘れ去られたかの様にぽつねんと佇んでいる。そして、その奥の窓から差し込む陽光が、きらきらと輝き、彩りを加えていた。

「荷物はここに置いておきますね。お布団はそこの押し入れに入ってます。トイレとお風呂場は一階で、お食事も一階の広間になります。なにかあれば、階段を下りてすぐ目の前に事務所があるので、お声がけしてくだされば対応しますね」

 佐々木はそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げて部屋から出ていった。

 基子は広縁の椅子に腰掛け、窓から外を眺めた。遠くの方に小高い山が見える。

 そう言えば、と八丈島空港で貰った藍ヶ島全景のマップがあるのを思い出した。ウエストバッグをガサガサと漁って取り出す。それをテーブルの上に広げ、目の前の山の名前はなんなのか探してみる。


——んー……わからん。


 そもそも、この窓がどっちの方角を向いているのかが基子にはわからなかった。

 諦めてマップを畳みウエストバッグに戻す。「よし」と小さく呟き立ち上がると、近場の散策に向かうため部屋を後にした。

 階段を下りて、自転車を借りるため事務所の扉をノックする。中から「はーい」と佐々木の声が聞こえた。カチャリと扉が開き、頭に手拭いを巻いた佐々木が顔を出した。

「どうかされましたか?」

「えっと、自転車を借りようと思ったんですけど、いいですか?」

 遠慮がちに基子が言うと、佐々木はにこりと笑った。

「ちょっと待っていてください。すぐに鍵取ってきますから。良かったら裏のソファーで座っててください」

 バタンと扉が閉まり、中からバタバタと音が聞こえる。基子は事務所の裏に回ると、来た時に座ったソファーに腰掛けた。

 しばらくして、佐々木が自転車の鍵を持ってやってきた。

「お待たせしました。自転車まで案内しますね。どうぞ」

 外に出て、来た時とは逆の方向からぐるりと駐車場に回る。そこには屋根のついた簡易的な駐輪スペースがあり、赤い自転車と青い原付が置いてあった。佐々木は赤い自転車を手に取って基子の前に出すと、持っていた鍵をサドルの下にある鍵穴に差し込んだ。カチャンと小気味良い音が響く。

 しかし——

 どこからどう見ても、ママチャリだ。電動式のバッテリーはついていない。確かに期待はしていなかったが、せめて、ピストバイクやマウンテンバイクであればもう少し楽に島を回れるだろう。横から見ても、前から見ても、斜に構えてみても赤いママチャリだ。不意に出そうになった溜息を誤魔化すように微笑を浮かべ、基子は佐々木から自転車を受け取った。安定感抜群のサドルに跨り、ペダルの感触を確かめる。


——これ、ギヤないやつかぁ……


 右手ハンドルに付いている付属品は、鈍い黒色をしたベルのみ。実に良い音を奏でくれそうな相貌だ。

 基子は笑顔で「行ってきます」と言うと、明日の筋肉痛を覚悟しながらゆっくりとペダルを漕ぎ出した。

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