第50話:失くした貯金

 明さんがカーテンを開けたまま出ていって、肌寒い部屋が暖まった。鴨下さん達を見送って戻ってくるかと思っていたら、戻ってこなかった。

 でなければ「良かったら着てね」などと、買い物の紙袋を置いていきはしなかったか。


 近くのショッピングモールの札が付いた、薄いピンクとグレーの部屋着。それから病院の売店で買ったらしい、ドピンクのパジャマ。

 部屋着は近所のコンビニくらいなら行けそうで可愛い。売店のパジャマはズボンの裾がマジックテープで留められ、これなら固定具を着けた足も難なく通せる。


 それぞれを包む透明なビニールをパリパリ言わせ、じっと見つめた。看護師さんが昼食を運んでくれても、手を動かす気にならなくてそのまま。

 病室の引き戸の向こうが、配膳と下膳でガヤガヤ賑わっていた。聞こえていても、どこか遠い世界のできごとに思う。


 コン、コン。

 控えめなノックが遠慮がちな間を空け、二度。それが何を意味するのか、あたしの気持ちは察することをしない。

 しばらく置いて、また同じように鳴った。それでようやく、返事をしなきゃと思いつく。


「はっ、はい!」


 まだかなり、かすれた声。戸を叩く誰かには、どうにか届いたはず。廊下は既に静まっている。

 そうだ、片付けないと。手にある二つの包みを水平に動かし、つかんだ指を離す。ガサッと不満げに、ゴミ箱へ入る音がした。


「端居さんの病室で――」

「出島さん」


 間違いないかと聞こえる前に、見えた人物の名を呼んだ。おそるおそるどころかオドオドと、というか泥棒にでも来たような彼の。


「良かった。寝てたらどうしようかと」

「起きてますよ、寝たままですけど」

「えっ、そんなに悪いの?」


 笑いを取るつもりもなかったが、上体を起こせないのを冗談にした。しかしゆっくりとした彼の足取りが、つかつかと早足に変わる。


「いえ、悪いってほどじゃなくて。あちこち痛いのと、まだ力が入らないので」

「そうかぁ。無理しないで、邪魔になるようならすぐ帰るし」


 ベッドのギリギリで彼は止まり、あたしの心臓はビクッと強く打った。そのまま覆い被さるように見えたから。

 そわそわ落ち着かない大きな手と、全面に心配と書かれた顔。

 そんなわけないじゃない。と、あたしの顔は熱くなった。


「邪魔なんて、全然。座ってください」

「そう?」


 取り繕う声を不審がることもなく、彼は丸椅子に腰掛けた。と同時に、持ってきたレジ袋から何やら取り出す。


 あ、すっぴんだ。

 頬に触れた手が、異常事態を知らせた。けれど慌てたところで化粧をするのは難しく、道具も無い。どうしようもないなと諦めた。


「お見舞いなんて大層な物でもないんだけど」


 コンビニで買ったらしい菓子パン、お菓子。それにバナナとヨーグルト。どれも値札が付いたままで、胸がほわっとする。


「でも、もしかして食欲ない?」


 脇に備えられた物入れの、食事用のテーブルに昼食が残ったままだ。ひと口も食べていないのは一目瞭然。


「食べます。全部」

「ええっ? どれか一つでも好きな物があればって、色々選んだだけだよ。いやほんとに食べられるんなら、いいことだけど」

「食べます」


 食いしん坊みたいに言われた。だけど彼のくれた物をムダにはしない。病院の食事だって、粗末にすると思われたくない。

 その辺りをうまく言葉にできず、ただっ子みたいになった。おかげで彼も「あははっ」と笑ったのが計算外で嬉しい。


「昨日の夜、育手さんから連絡は貰ってたんだけどね。聞いた以上に元気そうで安心したよ」

「明さんから?」

「うん。そのほうがいいって、ニャインの連絡先をね」


 またレジ袋に手を突っ込む彼に、それはいいですねと答えられなかった。小さく胸の痛んだ心地がして、喉も狭まった気がする。


「これも買ってきた」


 持参したのはそれで最後らしい。食事のトレーの脇に、ゴトゴトと二つ。

 一つは赤い缶コーヒー。

 もう一つはアップルティー。


「アップルティーって、なかなか売ってないんだね。探したんだけど、結局いつもの自販機になったよ」

「そんな、わざわざ」

「飲み物の好みは、これしか知らないから」


 そんなことはない。少なくともミルクティーにしたって良かったはずだし、あたしも文句はなかった。

 だけどおかげで「飲む?」という問いに、正直になれた。


「飲みたいです。ほんと、ちょうど」


 蓋を開けてもらい、ゴクゴク勢いよく飲む。温かくも冷たくもなかったが、喉へ滲み入るような不思議な美味しさがあった。


「昨日は帰っちゃって、ごめんね」

「な、何で謝るんですか。出島さんが助けてくれたのに」


 彼の声がボソボソ篭ったのは、コーヒーを飲みながらとは関係ないはずだ。それはあたしだって居たほうが嬉しかったけれど、無理は言えない。


「今日だって、お休みじゃないですよね」

「いやぁ、心配で自分の運転が危ない気もしたし。休ませてもらったよ。親戚が事故に遭ったって」

「そんなに?」


 会社へ嘘を言った。と唇に人さし指を当て、ふざけて見せることに精一杯なのだろう。

 ハンドル操作もままならないほど心配した、と言ったことに気づかなかったらしい。


「え? あ、いや、うん。そりゃまあ、ね」

「あたしを捜してくれたのも」


 アタフタと頭を掻き、俯いてモゴモゴ。そんな彼の頭頂へ、大阪行きの最中にいったいどうして来れたのかと聞いた。


「それはその……端居さんが散歩の写真を送ってくれて。じゃあまた、みたいなことを送ったんだよ。そしたら返事がなくて、あれ? って。でもそこまで考えずに、仕事へ行ったんだよ。だけど晩メシの時、いくらメッセージを送っても返ってこなかった」


 だからニャインの通話機能を使い、電話もかけてみたと彼は続けた。それにももちろん、あたしは応答しない。


「おかしいから、卸し先までぶっ飛ばした。携帯が壊れたとかだって思うんだけど、何だか嫌な予感がして。で、指定時間の前にトラックを入れさせてもらった。ついでに車も借りて戻った」

「大阪まで往復してたんですか――」


 片道で七時間前後と聞いている。だから途中で引き返したのだと思っていた。彼が助けてくれたのは、完全に暗い夜だったから。


「あれ、何時だったんですか。あたしを見つけてくれたの」

「うーん。写真でだいたいの場所は分かったんだけど、それでも時間がかかって。三時前くらいかな」


 どんな速度で移動したのか、想像するだけで震えた。鼻の奥がツンと詰まり、咄嗟に声が出ない。


「えっ、いや、大丈夫だから。そんな、端居さんが気にすることは無いんだって」

「だって。時間とか決まってるのに」


 自分でもはっきりしない涙声で、「ごめんなさい」と謝った。荷物を受け取る人達と、運送会社の人達と、ただで済むとは思えない。


「ほんとに平気なんだよ。あっちの人が荷下ろししてくれて、帰りの荷も積んでくれてて。次は饅頭くらい持って行くけど、それだけだよ」

「叱られて……」

「ないない」


 開き直りではあるだろうが、彼は声を上げて笑った。表情もさほど深刻そうには見えない。


「出島さんがいい人だからですね」

「そんなことないと思うけどね」


 言って、ハッと思い出した。いつかやらかすはずの何かの為に、普段からあれこれと気を遣う彼の話を。

 勤める運送会社だけでなく、得意先でも同じようにしていたら。


「ごめんなさい。出島さんの貯金、あたしが使わせて」

「貯金?」


 問い返した彼は、すぐに「ああ」と察した様子で目を瞑った。深呼吸を三回くらいの時間で、たぶん何ごとかをあれこれ考えてから、あたしを見つめる。


「本当に、としか言いようがないんだけど信じてほしい。もし気づかずに貯金を温存してたら、俺はずっと死ぬまで後悔した」


 こんな言葉を受け取る資格が、あたしにあるのか。ほとんど重みも感じない柔らかさで、腕に置かれた手をそのままでいいのか。


 今にも喉から出そうな言葉は、すみません。しかし言えば、ごめんねと返るに違いない。

 言えなかった。彼の優しさを無意味にしてしまうから。寝そべったままの首を、何度も頷かすのがやっとだった。

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