第47話:そして天国へ
草を倒すのでなかった。撫でていく風が、量を増したように感じる。
鼻先がツンと凍え、手の指から温度が消えていく。往生際悪く握っていたスマホも取り落とし、荒い息を吐く口を覆った。
足の痛みがズキズキを通り越し、お祭りの太鼓を鳴らす勢いでドンドンと疼く。打ち身でなく、ヤケドだったかと思うくらいに熱い。
そのくせ足先と腰は、既に凍りついたように冷えて感覚が失せた。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
足を怪我していると分かって、どんどん痛みが強くなる。気づく前には、これっぽっちも痛いなんて感じなかったのに。
助けて。誰か、この痛みをどうにかして。
出島さん。
明さん。
店長。
真地さん。
この際、トビでもいい。戻ってきて、せめて病院へ連れていって。救急車を呼んでくれるだけでもいいから。
助けてよ、誰か。あたしが何をしたって言うの。大好きなカフェで働いて、お休みには安くて可愛い服を探しに行って。
最近は店の裏で、お喋りすることも楽しくて。ずっとこの毎日が続けばいいと思ってる。
それがいけないの? だからこんな目に?
悪いことをしたのなら、そう言ってよ。あんな高いところから落とすなんて酷いよ。
ねえお願い、謝るから。ごめんなさい、ごめんなさい。
「ごぇんがざぃ……」
喉が震える。寒さのせいか、こぼれる涙のせいか、息苦しい鼻水のせいかもしれない。
ひっく。ひっく。勝手に唄う口を手で押さえ、もう一方で辺りの草を引き千切った。埋もれれば少しは暖かいかもと。
手当たり次第、積もっていた枯葉も掻き集める。布団の厚さには程遠いが、上半身を隠すくらいにはなった。
しかし暖かくはならなかった。吹きつける風の感触が無いだけまし、というくらいで。
ぶるぶる震えて、自分で自分を抱き締めて。それなのにビニールの人形に触れたような心地。
死ぬのかな、あたし。
激痛の波が過ぎた一瞬、そう思った。またすぐにやってくる波と、寒さと、両方に耐え続ける自信がない。
むしろそうなれば、痛みを堪えなくていいのかも。生きて、どうしてもやりたいことも無いし。
できればもう一度だけ、出島さんと話したかったな。きちんと気持ちを伝えたかったな。
会いたいな、出島さんに。
痛くて、苦しくて、まぶたを開けているのも億劫だ。ぎゅっと目を瞑ると、なぜか気休め程度には楽な気がする。
でも眠っちゃダメだ。
あれ、ダメなんだっけ? 眠って起きたら朝になってて、そのほうがいいんじゃないの。
どっちだっけ、と考えるのも面倒になった。眠くて眠くて、目を開けるのはもう無理だ。
いや、でも――
心のどこかで、眠ってはいけないと意識を揺り起こす。それが何度かもはっきりしないが、結果としてあたしは負けた。
真っ暗な世界に意識が融けた。
「――さん! 端居さん!」
気持ち良く、はない。ねばねばと泥に沈むような眠りから引き摺り出された。
耳元で叫ぶ誰かの声を、うるさいと思った。
「端居さん! 起きて! お願いだから! 頼むから! 起きてくれたら何でもする、だから!」
ただ起きるだけを、どうしてそこまで懇願するんだ。
もう一度、眠りの底へ戻ろうと思った。だけど怒鳴り続ける男の声が、意識を手放させてくれない。
いったい誰?
「何でだよ。君のこと、傷つけないようにって思ってるのに。俺がダメな人間だから、君をこんな目に遭わせたのかな。ごめん、戻ってきてよ。お願いだよ」
泣いてる?
ボリュームの落ちた声が途切れがちになる。鼻を啜りながら、あたしを呼ぶ誰か。
聞き覚えはある、ええとたしか――記憶を辿ろうとして、ふっと意識が現実に帰った。
「……ぇ、ぇじばざ」
あたしの声は相変わらず酷い。あたしを呼ぶ男の人、出島さんはすぐに返事をしなかった。
聞こえなかったかな。
どんな顔か見たいと思って、目を開けようとする。だけどどこに、どう力を篭めればいいか分からなくて手間取った。
「端居さん、起きた? 今、呼んでくれたよね?」
急かす声。太い腕に背中を揺すられた。その勢いで目が開く。
口をへの字に、頬は涙でびしょびしょの出島さんが居た。目の前だ、鼻と鼻がぶつかりそうなくらい。
「あ……」
まともな返事ができそうになくて、小さく縦に首を動かす。と彼は、ただでさえ間近のあたしを引き寄せた。
抱き締められ、首すじの汗と土の匂いでいっぱいになる。
彼が捜してくれたんだ。助けてくれたんだ。
何も聞かなくても分かって、鼻がツンと熱くなった。寒さでとは違う、幸せな痛み。
ぎゅうぎゅうと抱き潰すつもりみたいに、彼の腕が力強い。あたしも答えたくて腕を動かしたが、彼に触れることはできなかった。
分厚い毛布で巻かれ、膝の上に乗せられていた。場所も藪の中ではなく、広い車の後部座席。窓の外は真っ黒な夜。
彼は大阪へ居るはずなのに、どうしてここに? トラックでさえない、赤い車で。
不思議に思ったが、問うのは今でなくていい。温もりを求め、彼の坊主頭に頬擦りをした。
きっとここが、あたしの天国だ。
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