第46話:静寂の夜

 * * *


「げほっ!」


 胃の中から裏返りそうなほど強く咳き込み、閉じた眼の端から涙の伝うのが自分でも分かった。

 脳天からお腹の底へ、ビリビリと痺れた感覚。身体じゅう万遍なく、鉛でも載せられたように重い。


 喉の途中を小鳥の産毛でくすぐられたみたいに、歯痒い咳が「けほけほ」と切れなかった。僅かな合間に息を吸えば、ひゅうひゅうとかすれた音がする。

 それでも細く、啜るような呼吸を続けた。やがて咳も治まり、どうにか目を開いた。


 ……あれ、暗い。まぶたを動かしたつもりが、まだ閉じたままなのか。

 なんてことがあるはずがなく、すると目が見えなくなったかと背すじが凍る。


 いや違う、本当に暗いのだ。のろのろと首を動かせば何かが頬をくすぐり、それは揺れる葉の先と分かった。

 葉っぱは一枚きりでなく、そこらじゅうにある。というか、深い草藪の只中にあたしは仰向けで倒れているらしい。

 見上げれば、草の先に隠れながらも満月があった。


「げっ」


 間近でカエルが鳴いたと思った。大きな工場でプレスしたかの、潰れた低い声。

 でも、もしかして。嫌な予感に従い、自分の声を出してみる。


「あぁぇが……」


 誰か、と言ったつもりだ。

 声が出ない。言葉にならない不快な音が、小さく漏れ落ちるだけ。

 何があった。どうしてあたしは、こうなった。


 なんで? なんで?

 あせるばかりで、具体的な考えが浮かばない。ドクドクと高鳴る心臓が、主張を激しくし続ける。

 ええと、ここは――

 普段のあたしに草藪は縁がない。それなのに今、天を衝く勢いの草に囲まれている。さながら高層ビル群のど真ん中。


「あ……」


 不意に、トビの顔が目の前へ浮かぶ。思い出した、川土手から突き落とされたんだ。

 記憶が一つ戻れば、あとはスルスルと引き出せた。あれは昼間の出来事で、落ちた衝撃にちょっと目を瞑っただけのつもりだったのに。時間の経過が腑に落ちない。


 それも無自覚なだけで、気絶していたと納得はできる。どう見てもトビの姿は無く、他の誰にも気づかれずに過ごしたらしい。


 夜か。理解すると、吹く風まで温度を下げたように感じた。鼻を啜り、手で拭おうと――拭えない。

 サッと動かそうとした腕が、いや肩、それとも胸。同時にあちこち激痛が走り、本当に痛いのがどこだか分からなかった。


 落ち着いて、もう一度。右手の指、手、肘、と順番に動かしていく。

 大丈夫、動いた。肩を動かした時に少し胸の辺りが痛んだけれど、顔に触れることはできた。プルプル震えて頼りないながらも。

 左の腕も調べ、同じく動く。次は右足を


「がっ……!」


 膝の付近から脳みそまで、太い針で突き上げられたかと思う。上げた悲鳴からしばらく、息もできなくなった。

 食いしばった歯の隙間からどうにか再開するには、かなりの時間を必要とした。感覚的に、五分や十分は無呼吸で過ごした気がする。


 ただ事でない。捻挫くらいはしたことがあるけれど、比にならなかった。

 手で具合いをたしかめたかったが、身体を折り曲げようとするのさえ足に響く。


 動けない。


 夜、それもきっと遅い時間。河川敷の藪の中、どれだけ眼球を動かしても、首を巡らせても、どちらが土手かも分からない。

 どうにかして助けを呼ばなくては。


「だ……ぁ……」


 無理だ、やはりまともに声が出なかった。普段、意識したこともない川の音がよほど大きい。

 そもそも人の気配がしなかった。先ほどから車のエンジン音は近くを通るけれど、一台が過ぎれば次は何分後かという頻度。


 ああそうか、それが土手の方向だ。腕を動かし、届く限りの草を倒す。

 しかし寝床が広がっただけで、視界はほとんど変わらなかった。


 ただ収穫もある、スマホが落ちていた。あたしの、キバドラ色のケース付きの。

 これさえあれば何でもできる。引き攣れて痛むのも無視して腕を伸ばし、足りずに小枝を拾って引き寄せた。


 どこへ連絡すればいいだろう。出島さん? いや今夜は大阪へ行っているはず。

 では明さん、いやいや普通に救急車。

 声が出なくても相手はプロだ、どうにかしてくれるに違いない。信じてスマホの電源ボタンを押す。


「うぇ……」


 画面が。灯りは点くものの、びっしりと細かなヒビだらけだった。

 何が表示されているやら読み取れないし、適当に触れてみても反応している気配がない。


「ぇじばざん、だずげ……」


 さらさら、さらさら。答えるのは止めどなく流れる川の音だけ。

 草を靡かす風に声なく、無慈悲にも冷たさを増していく。

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