第39話:何もない

「念の為に、もう一度。私は誰なんだっけ? ほら、経営サークルの女帝とか言ってたでしょ」

「……育手、明」


 当たり前のことが問われ、当たり前に正解が返された。答えたトビはさっきまでと一変、忌々しそうな視線を掬い上げるように送る。


「うーん、おかしいねえ。今日、私は一度も名乗ってない。穂花ちゃんも言ってない」


 それは明さんが、昔と変わらないからでは? 思うものの、たぶん邪魔になりそうで言わなかった。


「正直言って防犯カメラを見ても、私はあんた達の顔にピンと来なかった。ダブルウイングと分かってから、言われてみればって感じ」


 噛み付く寸前、というトビ。対してカモは真横を向き、何もない壁を眺める。


「蔵人とカフェを開いたのも、誰にも言ってない。なのにあんた達は、うちの店に来た。働いてるのが私だとも分かってた。つまり偶然じゃなく、コソコソ通ってたってこと。何の為に?」


 同じサークルと言っていたが、ケンカ別れに終わったのだろうか。経験のない身にも、店をオープンするのに知人を招かないのは随分と不利に思う。


 昔はさておき、今。トビは何をか言おうとして呑みこむのを繰り返した。

 たっぷり一分以上を使い、ようやく声になる。


「そ、それはたまたま。後輩があんた達を見つけて教えてくれたから」

「後輩って?」

「このタイミングで名前を出したら、悪口みたいだから言わない」


 辻褄は合っている。というか明さんは、何を明らかにしたいのか。トビカモが良くない意図で来たのは間違いないのに。


「へえ、それが答えでいい? まあ何でも変わらないけどさ」


 せっかくお代わりしたお茶を、明さんは置いたまま。さらに腕組みで背もたれに体重を預け、脚を組んで見せる。


「何? 何だって言うの? 昔からあんた、自分だけが何でも知ってるみたいな顔するけど。みんな気に入らないって言ってるんだからね!」

「そうなんだ。でも今は、ほんとに何でも知ってるかな。蔵人に聞いたから、全部」


 ソファーからお尻を上げたトビが、食ってかかる。途中で握った湯呑みは、明さんに浴びせようとしたのかもしれない。

 でも蔵人に、つまり店長から聞いたと宣言された途端。手を離して座り直した。


「蔵人のスマホに追跡アプリを仕込んだんだけどさ、怪しい行き先が無かったわけ。それでどうしようかなって時、あんたらは穂花ちゃんに嫌がらせをした。おかげでなんて言えないけど、蔵人も知らないフリができなくなった」


 当然よね? と明さんは、取り出したスマホに目を落とす。ササッと文字を打ったのは、きっとニャインの画面だった。


「さっき回りくどい聞き方をしたのは、蔵人が嘘を吐いてたらあんた達に悪いなと思ったから。誘ったのが蔵人だったら、少しは話も違うから」


 じゃあ。店長からでないにしても、そういう・・・・ことはあったのか。思わず、明さんの横顔を見つめた。


「でも、蔵人の言う通りだったみたい」


 喜怒哀楽の、どの感情も無い。氷の面が予め決まった動作をするだけのように、不自然なくらい淀みなく明さんは言った。


 その彼女が口を動かさずにいると、誰も何も言わなくなった。

 バトンがどこにあるか、あたしには分からない。トビカモはどちらも、自分でないと思っていたのだろう。

 どこか遠くでラジオか音楽を聴いている。目の前の道路を時折、ビュンと風を鳴らして車が行き過ぎる。

 これが川土手のピクニックならどんなにか。現実は心地良さなど欠片もなく、息詰まった。


「……黙秘権って言うなら、それでもいいけど。私と穂花ちゃんが何でこんな目に遭わなきゃいけなかったか、そっちから説明してね。二人揃って、なるほどねって言えるまで帰れないよ」


 沈黙の続くこと、きっかり二十分。壁の時計と、にらめっこをしていたから間違いない。

 突然、氷の人形は再起動した。


「全部聞いたんなら、何も無かったのも知ってるでしょ。だったらそれ以上、何を納得させればいいの?」


 息をつかえさせながら、顎を突き出して勝ち誇った素振り。トビの言いわけを、あたしは往生際が悪いとしか感じない。


「ねえ、鳶河」

「何」

「あんた、小学何年生?」


 疲れたような、悲しそうな、ため息混じりの明さん。


「ど、どういう意味よ!」


 息巻き、立ち上がったトビを見上げもしない。やれやれとばかり髪の生え際を掻き、久しぶりに湯呑みを持った。

 と。その時、建物の前で車が止まった。ドアが開いて運賃を告げる声が聞こえる。

 タクシーにも乗客にも遠慮する理由はないのだけど、バタバタと賑やかしい。たぶんトビも、それで黙って立ったままでいた。


 タクシーが走り去り、気配が止む。しかしすぐ、あたし達の居る事務所の引き戸がノックされた。


「すみません、育手と申します」


 店長の声。夫婦が揃ってここに居て、カフェは大丈夫か。心配で、胸がドクンと大きく打った。

 いや、今はそれどころじゃない。的外れな自分に呆れながら、呼んだのは間違いなく明さんで、それなら問題ないとも思う。


「入れてあげてよ」


 トビカモのどちらも動かず、明さんが催促した。するとカモが立ち、扉を開けに向かう。

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