第10話:堪えられない

 来た。ほんとに来た。

 膝で握った手を高まる胸に押しつけ、問うべき言葉を反芻する。


 ……え、待って? 最初になんて話しかけるの。

 不倫なんてしていないのに、噂を立てられた友達が居る。そうシナリオを書いたはいいが、いきなり言ってはあたしが不審者だ。

 最初はもちろん、こんばんは。それからどう本題と繋がるか考える間もなければ、あたしの落ち着きも吹き飛んだ。


 先日より少しだけ速いスピードで、スクーターが自動販売機の明かりの真ん中へ止まる。黒ヘルメットに黒ウインドブレーカーは記憶と同じ物、車種は自信がない。

 くたびれた小銭入れと青い作業着は、間違いなく出島さんだ。明かりを真正面から浴び、彼は小さな口笛と共に飲み物を選ぶ。


 自動販売機の真横。明かりの裏でプラケースに座ったままのあたしに、目をくれることなく。

 このまま、話しかけずにもいられる。変な人だったら、変に思われたら、と思う気持ちが顎の動きを鈍くした。


「コーヒー好きなんですか!」


 嫌だ。

 強く思い、あたしの中のあたしが「でも」と言い出す前にプラケースを飛び降りる。暗がりから、自動販売機の照らす中へ足を踏み入れた。


「うわっ!」


 握手にも近すぎる距離だった。勢いよくヒュッと首を動かした出島さんは、見上げるあたしに目を剥いて後退りする。

 飛び退いたという勢いはない。ヨロヨロと何歩かで、出島さんは尻もちをついた。


「えっ、あっ、ああ……」


 慌てて駆け寄る。後ろ手に「痛たた」と漏らす目の前へ手を突き出せば、握り返してくれた。


「すみません。急に」

「いや、うん、全然。ビックリしたけどね、大丈夫」


 立ち上がった出島さんの、お尻や脚を払う。すると、ふわっといい匂い。

 クリーニング屋さん? とは別に石鹸やシャンプーの香りもする。


「ええと――あ、もしかしてこの前の?」


 ぐるっと一周して向かい合う。いつの間にかヘルメットを外した彼は、サッとあたしを指さす。


「ごめん、失礼だね」

「いえ、こちらこそ。怪我ないですか?」


 突き出した人さし指を、出島さんは反対の手にきつく握った。こいつめ、と懲らしめるみたいに。

 そうしながらも、申しわけなさげに目尻と眉を下げる。驚かせたのはあたしなのに、なんでそこまでというくらい。


 ちょっと疲れた風の漂う痩せた頬。でも剃ったばかりのように髭が短く、さっぱりとしても見える。

 あたしの顔なんかすっぽり隠れそうな大きな手で、自身の頭を撫で回す。黒々した短い髪が、近所の川土手の芝生と重なった。


「あはは、ほんとに大丈夫。参ったね、恥ずかしい」

「良かったです」

「ええと今日はこの前のことで、ですか?」


 自嘲気味に笑った出島さんの口調が、突然にあらたまる。

 たった今までの、砕けた感じは何だったのか。首を傾げれば、彼の顔にありあり「しまった」と。何やら気づいた様子。


「どうしたんですか、急に」

「いや、その。また高校生くらいのつもりで話しちゃってて、すみません」

「ええ? 私、そんなに幼いですか」

「全然! 今日は特に、この前みたいな半ズボンじゃないし大人っぽいと思いますけど。この歳になると若い人と関わることも少なくて、その」


 すみません、申しわけない。あたしの二倍もありそうな肩幅を窄め、謝罪と言いわけがゴニョゴニョ続く。


「半ズボンって」

「えっ。ち、違いましたっけ」


 ダメだ。無理。

 堪えようとしたが、間に合わなかった。


「ぷっ。ぷはっ、あはははは!」

「お、え、あの?」

「い、いい人ですね出島さんって!」


 数分前のビクビクした気持ちが嘘みたいだ。何の確証もないが、間違いなく彼はいい人。少なくとも誰かを騙したり、貶したりして喜べる人じゃない。

 深夜なのに。すぐに気づいて抑えようとしても、なかなか笑いが治まらなかった。やがて苦しくて、前屈みで咳込むほど。


「ええとハシイさん、ハジイさんかな。読み方違ったらごめんね。大丈夫? ゆっくり深呼吸して」


 むせて瞑った目を、驚いて開いた。

 ああそうか。制服を着て帰るからと、胸の名札を外し忘れていた。

 肩に触れるか触れないか。気遣ってくれる彼の手を頼り、身体を起こす。


「ありがとうございます、ハジイです。端居穂花です」


 言われた通りにゆっくりと呼吸を整え、今さらの自己紹介をした。

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