初めての戸惑い

 朝見あみを見送った時、俺は急いで玲奈さんを追いかけた。出来る限り走らないように、出来る限り早く。そうして見えた背中に声をかける。


「玲奈さん、お待たせ」

「あ、頼斗君。ううん、全然」


 振り向いた玲奈さんの優しい笑顔が、口先だけの謝罪を述べる気を失せさせた。心の中で反芻していた謝罪の言葉が、スッと消えてなくなった。思わず頬が緩んで、代わりの言葉が口から出てきた。


「ありがとう、行こうか」

「うん!」


 たった一言のそんな返事が、言葉が強く俺と玲奈さんを強く結んだ気がした。


「玲奈さん」

「なに? 頼斗君」

「……ううん、なんでもない」

「え~? 何を言おうとしたの?」

「ごめん、本当に何でもないよ」


 言おうとしたことが何かなんて、俺にも分からない。思わず言葉が出て、それが玲奈さんの名前で。それにほんの少し感情が乗っかっていただけ。 

 でも、それとは別に言っておかなければならないような気がしてならない。


 それとも。


 そんな疑問が脳裏を過った時、もう一度名前を呼んでいた。


「玲奈さん」

「なに? 頼斗君」

「その果物、どこで買ったの?」

「え? これ? 普通にスーパーでだよ」

「そうなんだな」

「うん、そうだよ?」

「……」

「……」


 呼んでいた。


「玲奈さん」

「ど、どうかした?」

「えっと、ご両親とか、心配してない? ずっと俺を見ててくれたって聞いて」

「う、ううん! 全然、大丈夫だよ! 理由を説明したら、是非一緒にいてやってって」

「そっか」

「うん」

「……」

「……」


 呼んで、いた。


「玲奈さん」

「こ、今度はどうしたの!?」


 呼んで


「玲奈さん」

「なにかな!?」


 呼ん


「玲奈さ――」

「ご、ごめん! 家着いちゃったから! ま、また後で、学校でお話ししよ! 頼斗君も早く支度して、学校で会おうね! またね!」


 呼び過ぎていた。

 曖昧に笑いながら家の中へと入って行った玲奈さんを見届けて数秒経った後で、ようやく俺の頭は再起動した。


「……帰るか」


 どうして俺は、あんなに玲奈さんの名前を呼んでしまったんだろう。特に聞きたいことがあったわけでもない。言いたいことがあったことでもない。ただ何となく、気付いたら名前を呼んでいて。気づいたら、取り繕うように適当なことを言っていた。

 じゃあ、なんで……。


 なんで、なんでと問い続けるうちに、俺は家に辿り着いていた。玄関に立ち尽くし、どれだけの時間そうしていただろうか。ずっとずっと、一人で考え事をしていた。

 

「……こんなことしてないで、さっさと学校行かなきゃな」


 軽くシャワーで汗を流し、着替えを済ませて家を出る。出来る限りの全速で学校へと向かい、着いた頃にはもう昼過ぎだ。保健室に直行して書類手続きを済まして、今度は職員室へ。またもう少しだけ面倒な手続きをして、担任から小一時間ほど話を聞かれた。

 本当のことを言いたくなくて、適当に誤魔化して終わらせた。


 結局、授業を一つも受けることなく下校時刻になってしまった。


「はぁ……何のために来たんだか。一応、教室行くか。玲奈さん、まだいるかもしれないし」


 登校中も先生に話を聞かれている間も。ずっと頭を巡っていたのは玲奈さんの事。これじゃあまるで、取りつかれてるみたいじゃないか。悪い何かに、呪われているみたい。


「あ、頼斗君!」


 教室に入る、少し手前。

 声が聞こえた。薄暗かった視界が明るくなり、視線を上げた先に見えた太陽が、燦々と輝いているように見えた。


「良かった! 遅かったから心配してたけど、来てたんだね!」

「うん、だいぶ前に。先生と色々話してたら遅くなっちゃって」

「そっか! あぁ、でも本当に良かった、安心したよ」


 駆け寄って来た玲奈さんは、胸を撫で下ろしながらそう言った。


「授業中ずっとどこかで倒れちゃったんじゃないかって心配で。さっきもなんだか様子がおかしかったし……。元気そうで何より」

「おかげさまで」

「いえいえ、出来ることをしただけですよ~、なんてね」


 ふふっ、と笑って見せた玲奈さんは、鞄取ってくる! と教室の中へと戻って行った。待っている間で、考える。


 一年間、この胸の高鳴りは忘れてたな。


「お待たせ! ん? どうかした?」

「いや、なんでもないよ。……送ってく」

「……うん、お願い」


 玲奈さんは、躊躇いながらではあったけどそう言って頷いてくれた。先週は結局、帰り道を一緒に歩くことはなかったな。さっきは変なことばかり聞いていた気がするし、今度はもう少しまともな話をしなくては。


 歩き出してしばらく。軽い話題も尽き欠けて会話が途切れそうになったのを見計らって、言わなければいけなかったことを言ってみた。


「玲奈さん、さっきの、朝見あみのことで言おうと思ってたことがあったんだ」

朝見あみさん? 病院にいた人だよね?」

「うん、そう」


 これから玲奈さんのことを朝見あみに話すつもりでいるのだ。朝見あみのことを、玲奈さんにも知っておいて欲しい。


「あいつとは、半年前までずっと一緒にいたんだ。恋人の真似事みたいなことして」

「恋人の、真似事? え? だって頼斗君の元カノさんは朝見あみさんの妹の、夜見よみさんだったんでしょ?」

「ああ……ごめん、もう少し時間貰えないかな。今はこれが精いっぱいだ」


 相変わらずの不甲斐なさに溜息が零れる。言おう、そんな覚悟を持っていたはずでも言葉は喉を通らなかった。

 でも、そんな自己嫌悪は始まる前に終わった。


 こんな言葉に、救われて。


「……うん、待つよ。いつまでも、いつまでも。頼斗君が私に言いたいって思い続ける限り、いつまでも。だからゆっくりでいいよ」

 

 優しい笑顔は、焦り続けていた心の鼓動を緩めた。緩めたはず、なのに。


「うん、ありがと」


 早まる鼓動が、ずっとずっと、鳴り止まなかった。

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