第3章 すれ違う気持ち
第19話
クオレイア公爵邸で一ヶ月が過ぎ、順調に『偽恋人』計画は進んでいると思っていた。
だが、ルティに借金があるといういわれのない噂が広まったのは、そのすぐあとのことだ――。
『オーウェン様をたぶらかしているんですよ』
『お金のためにあの子はみんなに優しくしているに決まっています』
『目を覚ましてください、オーウェン様。彼女はあなたの権力と地位目当てです』
そんな声が陰で囁かれるようになってしまった。
もちろんルティに借金はないのだが、弟を騎士学校に通わせるための資金を投資してもらっているのは事実だ。
それを借金と同じと捉えられているとも考えられる。借金があるという誤った噂が、なぜか独り歩きし始めている。
それに伴って、一度は収まっていたルティの悪評も再浮上した。
どちらにしても、レイルが強い口調で諫めたため、いったんは静まった。だがまたいつ再発するかわからない。
そんなことが起こってしまったせいで、ルティはそんな悪い人物ではないと主張する派と、そうでない派にわかれて使用人たちも居心地が悪そうだ。
ルティを若干煙たがっていたメイドたちは、噂に便乗してコソコソと過激なことを言っているようだ。
偽物の恋人ではないかと疑っている人物がいるらしい。どうにか特定できればいいのだが、なかなか尻尾がつかめないでいた。
「まあ、弟への融資は借金みたいなものと言えばそうとも考えられるけれど……」
普段ならなんと言われてもいいのだが、今は大事な『恋人役』の仕事中だ。
オーウェンの足を引っ張るようなことは避けたかったのに、ここへきて一部の使用人との間でルティの信頼が崩れてしまった。
そんな騒動でバタバタしている時に、オーウェンの元に手紙が届いた。
――王都から、監査の通達だ。
最悪なことに、二週間後には監査役としてオーウェンの叔父がやってくることが決定していた。悪いことが重なるとは、まさにこのことだ。
*
オーウェンに呼ばれたため、ルティは執務室へ向かった。扉をノックすると、オーウェンの声が「どうぞ」と告げる。
気乗りしないまま入室すると、すぐそこに立っていたオーウェンが顔を出し、見張りたちに休憩を言い渡した。
彼らが去ったのを確認すると、オーウェンは鍵を閉める。
しんと静まり返った室内は妙に心地が悪い。口火を切ったのは、ルティを呼び出した本人であるオーウェンだった。
「ここまでおかしな噂が何度も広がってしまったら、金に困ってわたしの『恋人役』を引き受けたと言われても仕方ない」
「返す言葉もありません」
ルティは否定する気にはなれかった。
「このまま君がわたしの気を引き、あわよくば地位と権力、そして金をむしり取ろうと思っている……そんな噂も多く聞こえてきている」
ルティはそれには「違います!」と即座に反応した。
「引き受けたのは弟のためです。それ以上は最初から望んでいません」
「レイルもそう言っていた。君を信じるようにと」
窓の外を眺めていたオーウェンは、ルティに詰め寄ってくる。ルティは彼の威圧的な雰囲気に気おされ一歩あとに下がった。
後ろにあった事務机に身体が当たる。逃げ場が無くなると、オーウェンは机に手をついてルティを腕の内に囲うようにして覗き込んできた。
オーウェンの空色の瞳は、複雑な気持ちに揺れているようだ。
「……わたしは、君を信じたい気持ちを持っている。だが今まで、裏切られることが多すぎた」
仮恋人役を提案してきたのは他でもないオーウェンだ。
しかし疑うことが身に沁みついているオーウェンとしては、ルティに対して疑心暗鬼になりつつあるようだ。
「契約期間が終わったあと、君が素直に引き下がってくれるか、なにかと理由をつけて金銭や地位を欲しがらないかが心配だ」
「そんなことしません」
それにオーウェンはうなずきつつ「でも、口ではなんとでも言えるものだ」とほんの少し悲しそうに呟いた。
「君がわたしの弱みを言いふらさないか……たとえ誓約書に署名したところで、破られたら終わりだ」
「ですが、ご自身で暴露したじゃないですか」
「君を逃がさないようにするために咄嗟に言ったが、今ではそれが本当によかったことなのかわからない」
オーウェンは少々疑心暗鬼になっているようだ。
「今だけでも私のことも信じてくれませんか?」
「では、わたしに対してやましい気持ちが一つもないと言い切れるか?」
「それは」
やましい気持ちはない。まっすぐそう言いたかったのに、ルティはできなかった。答えを濁したままいると、オーウェンは息を吐いた。
「……君に触れてみたいんだ、本当は」
頬に伸びてきた手には、防御のために手袋がはめられている。それを外す決断が、オーウェンにはできないようだ。
どうぞ素手でさわってと、ルティは彼の手を取ることができなかった。
ルティが『偽恋人役』を引き受けた動機は、もともと弟の学費の援助というある意味不純なものだ。
たとえそのあと感じた、彼の役に立ちたい気持ちや痛みの心配が、金銭とは結び付いていなかったとしても。
それを証明するものはこの世の中にはない。
人の気持ちは、目に見えないのだから。
弟のためと思ったことだが、それはある意味ルティが『不純な気持ち』を持っているということではないだろうか。
それはオーウェンに対するやましい気持ちの一つにならないのだろうか。
もしそれが下心にカテゴライズされるようなら、オーウェンはルティに触れた時に痛みを感じてしまうだろう。
万が一そのようなことが起これば、オーウェンとの恋人役はこの先うまくいかなってしまうだろう。
もともと用心深い彼と、やっと信頼関係を築けた気がしている。それだからこそ、壊してしまうようなことをしたくない。
ルティはいつの間にか身を縮めて、唇をぎゅっと噛みしめていた。
オーウェンの空色の瞳の奥にある不安が見えたような気がした。すると彼は意を決したように手袋を外し、指先をルティに近づけた。
(弟のことで金銭のやりとりに負い目を感じているいま、触られてしまったら……!)
しかし、あと少しでルティの頬にオーウェンの指先が触れる寸前で、彼は手を握りしめた。同時にルティ―もオーウェンを押しやろうと腕を伸ばしていた。
「あ……その……」
「いや、すまない」
触れてもらえたら。触れても痛くなかったら。疑心暗鬼になる気持ちは杞憂だとお互いに安心できたはずなのに。
そのままオーウェンの手は遠ざかり、だらんと下ろされた。
ルティは彼に触れられなかったことにホッとしていると同時に、なんとも言えない気持ちが胸の内に広がる。
オーウェンはすっと身を引き手袋をはめ直すと、苦々しそうに口を開いた。
「コルボール伯爵令嬢。しばらくは不用意に出歩かないでくれ」
「え?」
「君を疑う気持ちを持ちたくない」
ルティが部屋に引きこもれば、騒動も早めに鎮火するのだとオーウェンは付け加えた。
あちこちに出歩くから、事実とは異なる要らぬ噂が広がってしまいやすい。しかし部屋にいれば、使用人たちに嫌なことをしたというような話は、ひとまず鳴りを潜めるはずだった。
ルティは自分の浅はかだった行いを反省した。
部屋に閉じこもるのは、フェルナンドの来訪が決定した今、これ以上騒ぎを大きくしないための最善策に違いない。
「殿下に許可をもらい次第、わたしの部下を不寝番につける」
堂々と触ってくれとオーウェンに言えなかった自分が悔しい。それも相まって、ついルティは言い返してしまった。
「私のことを疑っているんですね。どこかに行かないように見張りをつけるのだと、本当のことをおっしゃってください」
「違う。わたしは君を大事にしたいだけだ」
「では、外出禁止の措置は『恋人』に逃げられないようにするためじゃないと言い切れますね?」
売り言葉に買い言葉だった。
オーウェンは大きく息を吐くと自身の前髪をくしゃくしゃと握った。
「……厨房に行くのも当分控えてもらおう。昼食は君の部屋に持ってくるように伝える」
「っ!?」
「散歩も当面禁止だ。部屋を出る時は、出かけるのなら供を二人以上つけてくれ」
頼んでいるように聞こえて、それは確実に決定事項で命令だった。
殿下の元へ行く、と言うなりオーウェンは執務室を出て行ってしまった。
「なんだか胸が痛い……」
心配そうにしているボーノを連れて、ルティは自室に戻った。
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