10 劣化が進んでいる

 犬の首筋に、もう傷跡などは少しも見当たらなかった。

 不思議だなと思いながら、シンガはユークオールの背を撫でた。

 はじめは訳が判らなかったし、凶暴な犬だと思って怖ろしく感じた。

 だが獣とは見えぬ知性のある瞳と、乱暴なティオの口調とは明らかに異なる理性的な言葉に、ユークオールが賢い生き物であることはすぐに知れた。

 もちろんと言おうか、それは「賢い犬だ」というような話ではない。人間を格下に見るという段階だ。

 それでもシンガはユークオールにすぐに馴染み、「彼」が負傷して戻ってきたときなど、不要だと言われたにもかかわらず慌てて包帯を巻いたりしたものだ。

 ティオが傍らにいなければ、ユークオールと話をすることはできない。しかしシンガはユークオールの近くにいることを好んだ。

 ティオやは、ユークオールを撫でたりしない。シンガがそうするのを面白そうに見ていた。

「でもさ」

 シンガは呟いた。

「こうされるの、嫌いじゃないだろ?」

 ぐるる、と犬は喉の奥を鳴らした。怖ろしい唸り声にも聞こえるが、気持ちよさそうに目を閉じているところを見れば、シンガの台詞を否定している感じはしなかった。

「惜しいのはさあ、やっぱりここだよな」

 シンガはユークオールの腰の辺りに触れた。

「ここだけ、毛並みが違う。怪我でもしたのか? いや、でも、怪我なんか治るのか」

 ユークオールは返事をしない。しようとしたのだとしても、ティオの声帯がなければ、人間の言葉としてシンガには伝わらない。

 ただ、尖った耳をぴくんとさせる様子は、その話題を好んでいないように感じられた。どうやらユークオール自身、そこだけ毛質が異なることを気にしてでもいるらしい。ごめん、とシンガは謝罪の言葉を口にした。

 アーレイドを離れるのは、簡単だった。

 刀屋を継いでつまらない人生を送るより、こちらの方が興味深かった。当座の軍資金にと店の金を盗ってきたが、そんなはした金は不要だった。先生は、いくらでも金を調達できたからだ。

 あの夜、「あとふたり」の心臓を食らえなかったユークオールの力は、やはり少し、足りなかったらしい。だが、もう意識を回復しないと言われていた富豪の子供を数日ほど元気に走り回らせてやるくらいならば可能だった。

 富豪は涙を流して感謝し、先生に約束通りの金を支払った。刀屋が少しばかり儲けても、とてもではないが目にできないほどの金額だ。

 難病の子供を助けるために、十五人の命を犠牲にする。それはもちろん、褒められた話ではない。

 たとえばそれが血を分けた子供で、その子が助かるならばと悪魔ゾッフルに魂を売って十五人を殺戮しただとかそうした物語であれば、やはり正義とは言えなくとも、吟遊詩人や物語師の語る「哀しいお話」くらいにはなるだろう。

 たとえばそれがどこかの街の唯一の王子で、死ねば跡目争いで近隣諸都市まで大きな戦に巻き込まれるというような話であれば、最上策とは言えなくても仕方のないことと言えたかもしれない。

 しかしもちろん、そうではない。

 ここで重要なのは、子の父親に金があるということだけ。

 もしもその子が長生きをして天寿を全うすれば、そこには少しだけ救いがあったかもしれない。

 だが死んだ。数日で。

 十三人の命と未来は、その数日のために奪われた。

 いや、そうではない。

 何とも単純に、金のため。

 その事実に吐き気を催す者もいるだろう。それが正しい感性だと、多くの者は言うだろう。

 シンガは、多くの方に入らなかった。

 春女や家出娘たちが生きていたって、彼のもとに金は入らない。死んでくれたからこそ彼はおこぼれを頂戴できる。それだけのことだ。

 ユークオールは、シンガのそうした気質を的確に見抜いていた。

 他人のために、指一本だって動かしてやる気はない。その代わり、自分の利益になるのだったら、どこにでも駆けていく。

「なあ、ユークオール」

 犬の首筋をかきながら、シンガは呟いた。

「最近、ティオの様子がちょっとおかしくないか?」

 返事はない。だがシンガは続けた。

「よく喋ってたかと思うと、突然ぴたっと口をつぐむだろ。ここだけの話、ちょっと気味が悪いなって思ってるんだが」

「そう思うか」

 シンガはぎくっとした。

「あ、ティ、ティオ」

 年下の――そう見える――若者が、戸口に立っていた。

「いまのは、いや、別に何も」

「急激に劣化が進んでいる」

「……は?」

 意味の判らない言葉に、シンガは目をしばたたいた。

「神官の術の影響かもしれん。ティオとの契約は突発的だった割に何も問題が生じなかったが、この先、いままでと同じようにとは、いかないだろう」

「ユークオール」

 犬の台詞であることはすぐに判った。

 だがやはり奇妙だ。

 ティオの口からユークオールの言葉が出てくることに対して、そう思うのではない。その段階は過ぎてしまった。

 奇妙なのは、ティオ自身の台詞が、間に挟まってこないこと。

 はじめは不気味に思っていた現象が、いまでは逆に、ないと不気味に感じられる。

「ティオは眠っている」

 ユークオールはティオの口で言った。

になると、こうした症状が頻繁になる。ティオ自身の意志はまだ明確であるから、すぐさま代替を考える必要はないが、シンガ、お前に心構えをしていてもらうのも悪くない」

「心構え」

 シンガは繰り返した。

「それって」

 自分が、ティオの代わりに、ユークオールの媒体になるということか。

 ティオが持っているような怪力を得て、いつでもユークオールと話せるようになると。

「もしかしてユークオール。そのために俺を連れてきたのか?」

「考えには入れていた。ティオの前で言えば、自分を捨てる気かと反発することは必至ゆえ、ティオの片腕にと言った」

 ユークオールの考えでは、シンガはティオの手下ではなく――後釜ということか。

「先生は、何て?」

「彼が私の選択に口出しすることはできない」

 得意気になるでもなく、ユークオールは淡々と言った。

「ティオのようにすぐかっとなる人間は、もっと早くに劣化がはじまってもおかしくなかった。ここまで保ったのは意外ですらあったが、私は特に、新しい境地を試してみようとは考えていない」

 短気なティオを使ったのは特例で、本来はシンガのような慎重な若者を欲するのだと、犬はそんな話をした。

「しばらくは、このままティオとつき合え。あやつは短慮だが行動力はある。お前がティオのように、私が手を貸さずともちんぴらどもを集め、必要最低限の情報で操ることのできるだけの能力を身につけたら、そのときは」

 そのときは、シンガの番。

「俺、やるよ」

 にっと、シンガは笑った。

 終盤だの劣化だのという不気味な言葉は、気にならなかった。

 意味が判らないのではない。黙って話を聞いている内に、「不思議なこと」の概要は掴めていた。

 あと四十年あくせくして生きるより、たとえ十年だろうと、彼らの側についた方がいい。それが若者の判断だった。

「刃物の扱いならさ、けっこう慣れてんだ。うちを贔屓にしてた戦士がいて、手ほどきしてくれたから。まあ、町憲兵連中のようには行かないけど、完全素人じゃない」

「荒事に積極的に取り組む必要はない。戦士が要るなら戦士を雇えばよいだけだ」

「そ、そうか」

 余計な売り込みだったろうか、とシンガは不安になった。

「だが使えぬよりは使える方がいい。ティオの剣はちんぴらの喧嘩どまりだが、訓練などはしたがらない。お前が望むならば教師を用意させてもいい」

「えっ、まじ」

 シンガは顔を輝かせた。

「ガキの頃は、戦士になりたいとか思ったんだ。親父にふざけんなって怒鳴られて諦めてたけど、影で商品の刀剣をこっそり振ったりは、ずっとやってた」

 刀屋の息子は、少し照れたように笑った。

「本格的に剣が使えたら、もっと先生の役に立てる」

「傍らに犬と剣士を置く。彼は面白がるだろう」

 ティオの唇が歪められた。

「お前とティオに優劣をつけるつもりはない。ティオに軽はずみなことは言うな」

「判った」

 シンガはうなずいた。

「俺だってティオを見下す気はない。だかんな」

 そう言えば、ユークオールは笑った。

「結構だ。増長さえしなければ、意外と人間は、何でも吸収できる」

 まるで学舎の教師か、皮肉なたとえをするなら神官のような言葉だった。

 シンガは少し迷って、ティオを眺めたあと、ユークオールの背中をまた撫でた。

「確認しときたいことがあるんだけど」

 若者は言った。

「言ってみろ」

 声はティオから発されるのに、ユークオールの瞳を見ると、犬が喋っている感覚が湧くのは、やはり不思議な感じだった。

「あのさ」

 シンガは言った。

「俺、この手触りが好きなんだけど。犬みたいに扱うなとか、怒ってないよな」

 どんな質問がくると思っていたとしても、これは魔物の想定外だったらしかった。

 ユークオールはティオの声で笑い、シンガは安心して、黒い毛並みの感触を楽しんだ。

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