09 振られたってことは、失恋だろ
冬の空気は、きんと張っている。
朝はだいぶ冷え込み、息は白かった。
この冬は厳しそうだな、と考えながら、えんじ色の制服を着た少年町憲兵は街路を歩いていた。
「おはよう、町憲兵さん」
「今日は寒いね」
「いつもご苦労様」
概して朝の人々は、夜の人々より町憲兵ににこやかだ。
ザックもにこにこと挨拶を返しながら、決められた
彼らはふたりひと組での行動を基本とするが、ラウセアが隊長たちと会議に入れば、ザックが先にひとりで出ることも増えた。二、三軒回っている内に、先輩相棒は追いついてくるだろう。
だが少年町憲兵は、行くべき場所にまっすぐ向かってはいなかった。少し、ひとりでいたかったからだ。
白い息が恨めしい。
失意のため息が、目に見えるようだからだ。
バールはある意味、正々堂々としていた。〈麻袋〉亭にザックがやってきたことを確認してから、その目の前で、チャルナに冬至祭での
少女は一縷の迷いもなく嬉しそうに了承し、そこでザックはほかの給仕から、彼らが既につき合っているようであることを聞いた。
昨夜のことである。
またしても発展する前に失恋か、という思いは少年を落胆させたが、仕方がないとも思っていた。ザックとバールは、ほぼ同じタイミングでチャルナと知り合った。そしてその後に起きた出来事の数々は、ザックにいくつも好機を提供したのに、彼は気後れして、それらを全て棒に振ってきた。
絵に描いたような自業自得、いや、自業不得とでも言うべきだろうか。
幸か不幸か、こうなっていまから発奮できるような性格でもなく、失恋は確定したものと考えていた。
仕方がないが、晴れやかな気分とは行かない。
ラウセアがいれば、落ち込んだ様子に気づいて事情を尋ねてきただろう。話さずに済んで少し安心するような、ぶちまけることができなくて残念に思うような、微妙な気持ちだ。
青い空を見上げた。
何だか、急に寂しくなった。
と、ばしっといういい音とともに、腰の辺りに衝撃がきた。
「あいたっ」
「隙だらけだぜ。お前、背後から襲われたらどうすんだよ」
「普通、人はいきなり町憲兵を襲わないよ、エイル」
ザックは平手で殴られた辺りをさすりながら返した。茶色い髪の少年は、お前は甘い、などと言って首を振った。
「普通じゃないときに活躍するのが町憲兵だろうが」
「うん、まあ、それもそうだけど」
常に背後に気を使って緊張している町憲兵というのもどうなのだろうかと思ったが、反論は控えた。
「久しぶりだね」
「そうだな。お前、最近こないもんな」
友人が言うのは、彼らがよく飯を食いに行く店や屋台街にきていない、という意味合いである。ザックは〈麻袋〉亭にばかり行っていたから、当然のことだ。
「んで?」
「何?」
「だから。こなかったのには理由があんだろ」
「ああ、うん、そうだね」
曖昧に返事をしたつもりだったが、エイルはそれで納得などしてくれなかった。
「この前の女の子と会ってばかりいたんだろ」
見透かされていた。
「どうなってるんだ」
エイルは、にやっとした。
「どうせ、振られたとかだろうけど」
「うん」
否定しても仕方がない。ザックはうなずいた。エイルは目をしばたたく。
ここで少年町憲兵が「そんなんじゃない」などとむきになれば、エイルは調子に乗ってからかったことだろう。だが素直な返答に勢いを削がれたようだった。
「あー、その、何だ」
彼は考えるように両腕を組んだ。
「そういうときはあれだ。飲もう」
「エイルはお酒、弱いじゃないか」
ザックは笑った。エイルはしかめ面をする。
「そうだよ。だから、俺はそんなに飲まないよ。金もないし。だいたい、俺が酔ってどうすんだ。失恋したのはお前だろうが」
「失恋」
ザックは視線を落とした。
「うん、失恋だよな」
「あー」
エイルはぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。
「振られたってことは、失恋だろ。何を確認してんだよ」
「確認した訳じゃないよ。そっちだなあって思っただけ」
ザックは言い、エイルは「何だそれ」と言った。
恋をしていた自覚はある。失恋をしたとも、思う。
ただ、振られたのかと言われれば、少し違うなと思ったのだ。彼は、断られるようなことを何もしなかったのだから。
「とにかくよ。今夜、〈森の宝石〉亭に何人か集めてやる。ぱーっとやれば元気になるさ。そうだ、リターにも友だち、呼ばせよう。新しい子を見つけろよ」
エイルの言うのはどうやら「しみじみと飲む」のではなく、「どんちゃん騒ぎをする」の意であるようだった。
もっとも、十代である。それが相応しいとも言えるだろう。
「新しい子とか、考えられないけど」
少し戸惑い気味にザックは言った。気持ちは嬉しいが、そう簡単に切り替えられるなら、苦労はしない。
「まあ、それならそれで、とにかく今夜は飲もう。仕事上がったら、すぐこいよ」
じゃ、とエイルはぱっと走り出した。
「あっエイル」
呼びとめようとしたが、もう聞いていない。いつもながら元気だよな、とザックは思った。
だがそこで、エイルは立ち止まった。ザックの声が届いたのではない。立ちはだかる人影があったせいだ。
「げっ、爺!」
「トルーディ!」
ザックはぱっと姿勢を正すと、ついつい敬礼をした。
命令を了解したしるしに敬礼をするのは正しいが、挨拶代わりにするなと言われている。しかし、この人を見ると緊張するのだ。詰め所でならば姿を見かける予測はつくが、街なかでいきなりだと、反射的に出てしまう。
トルーディはじろりとそれを睨んだが、特にザックを咎めることはせず、次にエイルを睨んだ。
「朝っぱらから騒々しいガキだ。夜に出歩くよりは朝の方が健康的でけっこうだが、妙なことは企むんじゃないぞ」
「何だよ、妙なことって。俺が朝市で
「それは、自白か」
「阿呆かっ」
エイルは罵りの言葉を吐いた。
「何であんたは、何かと俺を目の敵にするんだよ。俺ぁ何も、悪いことなんかしてないぜっ」
「引き続き悪事に関わるな、と言ってるんだ」
「あんたに言われる筋合いなんかないね。俺ぁ、母さんを泣かすようなことはしないんだ」
ふん、と鼻を鳴らすとエイルは、今度こそトルーディの横を走り抜けた。
「……まあ、心配は要らなさそうだな」
「要らないですよ」
その後ろから、ラウセアが顔を見せた。
「こんなところにいたんですね、ザック」
「す、すみません」
今朝の会議は短かったようだ。もしかしたらラウセアは、一軒目のレドキザンにザックがまだ着いていないことを知って、探しに戻ってきてくれたのかもしれない。
「迷子の町憲兵が見つかったなら、俺は帰るぞ。説教はきちんとやれよ」
「判ってます。あなたもちゃんと仕事、してくださいね。すぐにひとりでどこかに行く、とインヴェスがしょっちゅう困ってます」
「あいつもひとりで動くだろうが」
「それはよくないと思うんですが」
「知るか」
言い捨ててトルーディは踵を返した。
「……彼らを組ませたままでいるのは、ちょっと問題かもしれないな」
その後ろ姿に、ラウセアはそんなことを呟いた。
「あの、ラウセア」
ザックは先輩に声をかける。ラウセアは片眉を上げた。
「どうしてトルーディは、エイルに厳しいんですかね」
以前にエイルから、どうにかしてくれと言われていたことをようやく思い出した。ザックは尋ねてみることにした。
「ビウェルは、犯罪の芽に敏感なんだよ」
それがラウセアの返答だった。ザックは眉をひそめる。
「エイルは、罪を犯したりしませんよ。さっき彼が言ったことは本当です」
母ひとり子ひとり。彼ら母子は口喧嘩ばかりだが、そこに大きな愛情があることは、ザックもよく知っていた。
「判っている。あの子はそんなものを芽吹かせる子じゃない。ただビウェルは、その種子もよりつかないようにと、気を払ってるんだよ」
「……どうしてですか」
ザック程度の若造ならばともかく、年の行った町憲兵にとっては、青少年の指導も仕事の一環だろう。だが、ラウセアが言うのはそういう一般的なことではないようだ。個人的な話であるように聞こえた。
「借りがあるんだ。彼の父親に」
そう告げた先輩町憲兵の視線は、どこか遠くに向いていた。
「父親?」
初耳だった。エイルの父は確か、彼が生まれる前に死んでいるとか。
「内緒だよ、私が言ったことは」
ラウセアは視線を戻し、にこっと笑った。ザックはうなずき、続きを待ったが、話はそれで終わったようだった。
「さあ、もう行こうか。キンディスが近くの商店主から難題を持ちかけられて困っているらしい」
「は、はい」
為されなかった話を追及することはできず、ザックは同意の返事をした。
歩き出したラウセアに続く。
空を見上げた。
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