07 強いて言うなら

 赤魚の切り身が、崩れそうになった。

 おっと、とユファスは慌てて扱いを慎重にする。これ以上崩すと、トルスの雷だ。

 怒られることを怖れるのではないが、気持ちよく料理を提供できればいちばんである。

 上厨房と違って、下厨房の皿はそれほど見た目を重視しないが、崩れた焼き魚では食欲も削がれるというものだ。

 エディスンの若者がアーレイドにやってきてふた月強、いまや彼はすっかり料理人になりつつあった。

 街を訪れたばかりの頃に巻き込まれた事件のことも、日々の忙しさの向こうに紛れていく。

 あのときの切り傷はすぐに治った。宮廷医師ランスハルの治療は適切であり、痕もほとんど残らなかった。

 肩の古傷は相変わらず抱えており、鍼医者にもかかるようにしたが、これが問題になるような出来事にはもう出会わないだろうと思っていた。

「まあ、そうだね。慣れてきたよ」

 倉庫の整理をしながら、ユファスはそう言った。よ、とかけ声をかけて高い棚に箱を押し入れる。

「ただ、気をつけないとね。自分が『慣れたから大丈夫』と思う時期にこそ、油断がつきものだから」

「お前はよ」

 バールはしかめ面をした。

「そういう台詞は、俺に言わせろよ」

「ごめん」

 確かにこういうのは、先輩の言葉である。バールは何も先輩風を吹かしたいのではないだろうが、後輩が調子に乗りそうなところを先輩がたしなめるというのは、一種の決まりごとみたいなものだ。

「謝んなよ、んなことで」

 バールは笑った。

 それから、ふっと笑いを納めると、ちょいちょいとユファスを手招いた。

「なあユファス」

「何」

「いま、ちょっといいか」

 僕はいいけどトルスはどうかな――という返事が彼の内に浮かんだが、声に出してはもう一度「何?」とだけ言い、バールを促した。

 と言うのも、友人がいつになく、真面目な顔を見せていたからだ。

「お前、本当に最近、〈麻袋〉に行ってないのか?」

 やってきたのはそんな言葉で、ユファスは片眉を上げた。

「そう言えば行ってないね」

「『そう言えば』って程度か。んじゃ、意識して行かなかった訳でもないってことか」

「別に意識してないよ。だって、チャルナはもう心配ないだろ」

 うっかり娘のうっかりが、魔法のようになくなった――ということは、ない。彼女は相変わらず、卓にぶつかり、注文を間違え、何もないところでつまずいている。

 だが、彼女の持つ愛嬌のせいか、もはやチャルナのドジは〈麻袋〉亭の名物と言えるものになっていた。常連たちは、少女がどんなことをやらかすか、賭けまでするのだ。

 「やらかすかやらかさないか」ではない。「今日は何をやらかしてくれるか」である。

 もっとも当人は、それに甘えて失敗してよい、などと考えていないらしいが、失敗をなくそうと考えてみても現実が追いついてこないというところのようだ。

「バールは、行ってるんだね」

「まあな」

「ザックとは会う?」

「ああ、たまにな。あいつは日参してる割に、相変わらず友人以上に進まんようだし、俺としちゃ」

 バールは両腕を組んでうーんとうなった。

「何なのさ、いったい」

「確認しとくわ」

 友人はぴっと指を一本立てた。そこには、前日ぼうっとして指を切ったために包帯が巻かれている。もっとも見た目には、薬やら糸くずやらが間違って料理に入らないようにするためにかぶせられている専用の指鞘しか見えない。

「お前、本当のところは、チャルナのことをどう思ってるんだ?」

「どうって」

 ユファスは次の箱を持ち上げる前に、両腕を組んだ。

「うーん、強いて言うなら……弟、かな」

「……それを言うなら、妹じゃないのか」

「うん、まあ、そうなんだけど」

 若者は少し笑った。

「僕にいるのは弟であって妹じゃないから。それにティルドはうっかりと言うより、何かに夢中になるとそれ以外見えないという感じなんだけど。結果的に招く失敗と言うか勇み足というのは、似ている気がして」

「お前なあ。だからって、女の子まで、弟になぞらえるなよ」

「そうじゃなくてさ。もし、僕に妹がいて、あんな調子だったら心配するだろうなと思っていたんだ」

「あのな。俺だって妹がいてあんな調子だったら心配するわ」

 ユファスの言うことは的を外している、とバール。

「君が、どう思うかと言ったんじゃないか」

 正直に話しただけだよ、とユファス。

「弟妹みたい、ってことでいいのか」

「うん、そんなところだね」

 ユファスは認めた。

 少し危なっかしい娘をはらはら見守る以上のことを考える様子はなさそうだ、と他人事のように分析する。

「それが何? 今度は僕をザックへの奮発材料にしようとか考えてるのか?」

 言いながら思い出していた。

 バールが当初、ユファスが恋敵を演じてやれば焦って行動を起こすのではないか、などと言ったのは、刀屋の息子シンガが彼女に秘めた思いを抱いているという仮定に基づいていた。

 それが的外れだったことはとうに判っている。シンガがチャルナを尾け回していたのは、恋心のためではなかった。

 だが、判らないこともある。

 あのあとユファスは町憲兵隊を訪れて話を聞いた。ティオの逃亡や亡くなった人たちのことをとても残念に思ったが、答えのもらえない疑問があった。

 それは黒い犬のことや、老町憲兵の秘密とは関わりがない。

 捕縛者のなかにシンガ青年はいなかったということ。

 それだけなら「あのとき船には乗っていなかったのだ」というだけのことだ。だが気になって刀屋を訪れてみれば、やはりシンガはいなかった。ソルは、息子が書き置きひとつ残さず、店の金まで盗んで家出をしたと嘆いていた。

 ティオは逃げた。ではシンガは、彼について行ったのか。

 ザックには話した。彼もラウセアに話しただろう。だが、何ができる訳でもない。成人した男が家を出たらしいと思われるだけなら――。

 嫌な符号にぞっとしたのは、冬のとば口の頃だった。

 彼らの消息は、よくも悪くも聞かれることなく、季節は冬に移り、街は冬至祭フィロンドの時季を迎えようとしていた。

「なあ、祭りの日なんだが」

 言いにくそうに、バールは頭をかいた。ユファスは答えのでない謎の詮索をやめ、友人の話に耳を傾けた。

(まさか僕に、チャルナを誘えとでも言うのかな)

(いや、そんなことなら、バールは躊躇なく言うよな)

 そのようなことを考えているなら、もっと状況を面白くしろ、などと言ってにやにやしそうなものだ。しかしバールにそんな様子はなく、何だろうかとユファスは首をひねった。

「俺さ」

「うん」

「冬至祭に、チャルナを誘うから」

「……はっ?」

「一応、お前にはあらかじめ話をしておこうかと。ザックはいいよな、競争相手なんだし」

「ちょ、バール、君、いつの間に」

 それはつまり、ユファスを焚きつけようとしていた厨房の友人が、いつの間にか食事処の給仕娘に恋をしていたと、そういう告白であった。

「いつの間も何も、何で俺がちょくちょくまめに〈麻袋〉亭に通い詰めてると思ってんだよ。あそこの飯は美味いが、種類が少ないから、続くと飽きるぞ」

「うん、それは判る。ああ、いや、ええと」

「実は、何度か一緒に出かけたりもしてる。正直、感触はいい。彼女も俺を好いてくれてるというのは、自惚れじゃないと思う」

「そうなのか」

 思いがけないことであった。だがユファスは、更に思いがけない言葉を聞くことになる。

「祭りのあとは、思い切って求婚するつもりでいる」

「はあっ!?」

 彼は大声を出した。

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