02 後悔させてやる
(引け)
理性は言った。
少しだけ保てばいいのだ。無茶をして大怪我をする必要などない。いや、今度は怪我では済まぬかも。
勝負が決まる――という感覚。
普段のユファス・ムールならば慎重に、ここは引くだろう。だがいつもの気質は、戦いの高揚感に隠された。まるで悪戯好きな女が背後から目隠しでもしたように。
彼は長い剣を持っているかのように、左手を添えて短剣を振り上げる。
この一打に賭けると、理屈ではなく感覚で思ったとき、彼の心臓は跳ねた。
(上がらない)
左肩。北の街を離れて以来、何の治療もしていない、怪我のあと。
判っていたはずである、無論。だが、頭で理解するのと、体験で理解するのは、別。
振り上げ切れなかった左腕に、ユファスは敗北と、それから死を覚悟した。
そのときである。
ほとんど彼を突き飛ばすようにして、ティオと彼の間に人影が割り込んだのは。
嫌な音がした。
剣が、肉を斬る音。
「う……あ……」
よろよろと、ティオは胸を押さえて後退した。少しばかり手で押さえたところで、襲いかかった剣の作った、左鎖骨から右腰までの傷口が塞げるはずもなかったが。
「くそ……ふざけやがって。よくも」
「おとなしく武器を捨てなさい。犬にも暴れないように命じなさい。逆らうようなら、容赦しません」
ラウセア・サリーズは、剣の切っ先をぴたりとティオに向け、はっきりとした声で告げた。
ユファスは安堵する。現役で、しかも彼より熟練の玄人。
ザックを見くびるのではないが、新米現役町憲兵と引退軍兵だとどちらがましか、というような葛藤はここにない。
安心してあとを任せられるというものだ。
「この……くそ……」
ティオは、流れる血に負けぬくらい、顔を赤くしていた。
「痛えじゃねえか、ちくしょう!」
「早く治療をすれば痕も残らない程度の傷です。それ以上のものを負いたいなら、私はそれでもかまわない」
新人の頃には、捕縛の縄が痛いと嘘泣きをする掏摸の子供に騙された若者も、二十年も経てば、同情で必要な行為を躊躇うようなことはしない。
もっともティオには、同情を買おうとする様子など、かけらも見られなかったが。
「早く! 犬を引かせなさい!」
ラウセアは繰り返した。
しかしそこで、ティオは、笑った。
「ああ? 勝ったつもりか? 少しでも優位に立ったつもりなのか。笑わせる。変わんねえなあ、あんときと」
「何を」
どこからどう見たってラウセアが勝ったし、町憲兵が優位にいる。ティオのそれは、負け惜しみとしか聞こえなかった。
だが、悔しがる様子はどこにもない。血を流しながら可笑しそうに笑う、その姿は狂人とさえ見えた。
「トルーディ!」
ザックは叫んだ。
ラウセアがティオに切りつける横で、老町憲兵は牙をかわし、犬の首筋に剣を深々と突き刺していた。
それは、まるで気の利かない墓標のようだった。
そこがむき出しの地面であったら、ビウェル・トルーディの剣は本当に墓標のごとく、大地に立っただろう。
しかし港の岩盤に剣は突き刺さらず、柄はかすかに、揺らめいていた。
仕留めた――と、トルーディの手が剣を離れたとき、ザックが叫んだのだった。
「そいつ、まだやる気だ!」
ユークオールの瞳はまだぎらぎらと赤く光っていた。横から見ているザックには判ったそれが、犬にのしかかった状態のトルーディには、判らなかった。
後輩の警告に最年長町憲兵は再び柄を握ろうとした。
だが、まるで冗談のように、彼は自分の剣を握ることができなかった。その手は何もない空中を握る。
「何」
「逃げろ、ビウェル、それが何の術は俺にも判らんっ」
シュヴァイスが叫んだ。
「この」
トルーディは犬を罵ろうとしたのかそれとも魔術師の方か、或いは両方だったろうか。
何にせよ、どぎつい罵詈雑言は、彼の口から出てこなかった。
剣を首に深々と刺したままで、黒い犬は怖ろしい咆吼を上げた。
「早く!」
その叫びにかぶせるように力強く、ラウセアは繰り返した。
「犬を引かせるんです!」
ティオは笑っていた。血止めのために身体を押さえている様子が、まるで可笑しくて腹を抱えているように見えた。
それとも、そうだったのだろうか?
「まいったね。あとふたつってとこで、これだ。何だろうな、痛み分けってのか? あんときもそうだったよな、火事なんか起こしやがってよ」
すっとティオは、笑いを納めた。
「面白く、ねえ」
ティオはうなった。その目は、物騒な光を帯びる。
「クソ面白くねえ! 俺は、命令する方が好きなんだぜ。俺に命令していいのは先生とユークオールだけだ」
全くもって、それは意味を為さない台詞であった。少なくとも、ユファスにとっては。
「何を」
ぱっとティオが手を振った。
赤く染まった手から、血しぶきが飛ぶ。ラウセアは反射的に、左手で目をかばった。
町憲兵隊最上位級の剣士は、それでも切っ先を逸らさなかった。しかしそれでも、隙は、できた。
ティオは、傷を負ったとは思えぬ敏捷さで、跳ね虫のように後方へ跳んだ。それはとても気味が悪かった。とても人間の動きには見えなかった。
ユファスはもとより、熟練の町憲兵ですらぎょっとした。だがラウセアは一瞬で理性を取り戻すと、ぱっと背後を振り返る。
「インヴェス!」
「待ってましたっ」
ユファスとラウセアの間ほどの年代の町憲兵が返事をすると、ユファスとラウセアの間を何かが飛び抜けていった。
「何だ?」
それは、投げ玉遊びに使うような、拳大の球体に見えた。石でも投げたというのならまだしも、当てたところで損傷を与えそうにない。
ともあれ、それは見事に、ティオの頭部に命中した。
すると、薄い煙のようなものが舞う。
「何、うげっ、げほっ、何だ、こりゃ」
ティオは煙を吸い、激しくむせ返った。
「もいっちょ」
インヴェスは手製らしき投石器のようなものを振り回すと、今度はユークオールをめがける。
「トルーディ、ザック、離れろっ」
先輩と後輩に呼びかけると、彼らの行動を確認するよりも早く、インヴェスは投擲態勢に入っていた。
シュヴァイスの警告に従おうとしていたトルーディはもとより、チャルナたちを守るべく犬と少女らの間で剣をかまえていたザックも、何か尋ね返すこともせず、仲間の言葉を聞く。
ぱぁん、と水風船の割れるような破裂音が響けば、ユークオールは可愛らしくもキャンと鳴いた。
ティオが何か言った。だがそれは言葉にならず、事情を知る者が耳にしても、それがティオの言葉かユークオールのそれか、判断しかねただろう。
ただ、どちらの台詞であったとしても、意味するところは同一だった。
若い男は赤い血を飛び散らせながら、犬に向かって走った。
「ザック!」
叫んだのはラウセアとトルーディだった。
尊敬する先輩たちのひと声に、新人町憲兵は地面を蹴った。
ゆらりと立っているユークオールの脇を駆け抜け、走ってくるティオが彼を避けようとするところをかろうじて捕まえた。そのままティオの脚を払い、頭を押さえつけ、相手の勢いを使ってぐるんと投げ飛ばした。
偶然にもそれは、ユファスがひったくり犯を投げ飛ばしたのと同じ形の技だった。
どん、と鈍い音がして悪党は地面に叩きつけられる。
「確保!」
ラウセアが手を叩けば、連れ立ってやってきていた数名の町憲兵たちがティオの抵抗を抑えるべく走り寄る。
「クソっ、ざけんな、放せ。こい、ユークオール!」
ティオは助けを求めるように黒い犬を呼んだ。
だが無情にも、と言うのだろうか。ユークオールはティオを一顧だにせず、黒い血溜まりだけを残して――消えた。
「シュヴァイスっ」
「いちいち叫ぶなって。こちとら、自分のやるべきことは判ってるんだ」
年長の町憲兵の声に魔術師はふんと鼻を鳴らした。両腕を前に伸ばすと、手を組んで何か唱える。犬の消えた辺りがちらちらと明滅したように思えたが、ユファスもザックも確信には至らなかった。
「ユ、ユークオール!?……クソ、こんちくしょうめっ」
置いていかれたと知ったティオは、ありとあらゆる呪いの言葉を吐いた。
「放しやがれ、雑魚どもっ。俺様を捕らえようなんざ、身の程知らずが!」
その台詞は、自分の状況を全く判っていないか、それともただの負け惜しみと聞こえただろう。少女ふたりならば意のままにできたとしても、訓練を受けた町憲兵たちに囲まれ、地面に押さえつけられて、何ができると言うのかと。
だが、ティオは状況を判っていたし、台詞は負け惜しみでもなかった。
「う、うわっ」
「何だこいつ!」
町憲兵たちが泡を食ったのは、彼らが完全に動きを制したと考えていた男が、少し身をよじっただけでその手の数々を弾き飛ばしてしまったからだった。
「ば、化け物」
これはもちろん、彼らが老町憲兵に尊敬と畏怖を持って発する一語とは異なった。
言葉の通り、人間とは思えない、ということ。
シュヴァイスがぱっと前に出た。いつの間にか左手に短い杖を握り、右手が素早く印を切る。
「……ちっ」
魔術師は舌打ちした。
「効かん」
「なめやがって。なめやがって!」
激高したようにティオは喚き、手近な町憲兵を捕まえた。
「俺を誰だと思ってる。何が町憲兵だ、後悔させてやる――」
怒りに満ちた男の手が、身をすくませた町憲兵の首にかかった。
と、次の瞬間。
ティオはまるで、糸の切れた操り人形のように、ぱたりとその場にくずおれた。
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