第5章・終章
01 十七年前
少年町憲兵の意気込みは、しかしあっさりと砕かれた。
「阿呆」
町憲兵隊最強と言われる熟練の先輩が、彼の首根っこを
「ちょ、ちょっと、トルーディ!」
「待て」
「ま、待てませんよっ。放してください!」
「先生、と言ったな?」
トルーディは、薄闇の向こうを睨んでいた。
「それに、ティオ、だと?」
「知ってるんですかトルーディ」
その名を聞き咎めた先輩町憲兵に、ザックは目を見開いた。
「いや、だが……ありゃあ、十七年前の」
「見た目に囚われなさんなって、言ったろ、俺は」
ため息混じりの声は、現れた黒いローブの内側から発せられた。
「――てめえ、シュヴァイス! やっぱり俺の思った通り、この件はあの野郎絡みじゃねえか! 何が黒い犬は偶然だ、このクソ魔術師がっ」
「あの先生の名前を出すと、あんたはそうやってキレるじゃないか。昔より血圧上がってんだから、落ち着いたときに話そうと思ってたんだよ」
「は? 先生のこと知ってんのか?」
ティオが口を開ける。
「十七年……ああ、十七年ね。てことはあの当時の関係者か。あ、もしかしてあんた、あと一歩のとこまできながら隊長信じてほいほい引っ込んだ馬鹿二町憲兵の、片割れ?」
「この野郎っ」
「待ったっ、ビウェルっ、あんたがキレてどうすんだとっ」
シュヴァイスは片手を奇妙な形に結んだ。トルーディの踏み込もうとしていた足が止まる。
「ええい、やめろシュヴァイス、俺に妙な術を使うな。てめえ、誰に雇われてると思ってるっ」
「金蔓に死なれたら困るからだろうがっ。ここは俺に任せろ、それがあんたの依頼だろっ」
「何だ、さっきのクソ魔法使いかよ」
ティオはじろじろとシュヴァイスを見た。
「ユークオール、あれから殺るか?」
「口ほどの魔力は持っていない。気に留めるな。決めたのならば、娘どもを寄越せ。いちいち、刃に血糊を付ける必要もない」
「あ、そ。じゃあ、任す」
ティオは無造作に、姉妹ふたりを押し出すようにした。少女たちは、まるで投げ飛ばされたかのように、地面に倒れる。
「きゃ」
「いやっ」
「チャルナ! シャンシャ!」
ザックはトルーディの腕を振り払った。
「こら、待てっ。ラウセア、インヴェス! 二、三人連れてこい! それからシュヴァイスっ」
「はいよ」
シュヴァイスが指を弾いた。トルーディが走る。遅れじと、ユファスも続いた。
「おい、兵士」
素早くトルーディはユファスに囁いた。
「ガキをやれ。俺はザックの援護に回る」
「え? 町憲兵が民間人に、殺れって言った?」
「ほかのがくるまで保てばいい。ただし、殺らなきゃ殺られると思ったら殺れ。書面はどうとでもしてやる」
「――いい町憲兵さんだ」
彼の軍兵時代、盗賊山賊の類に斬りつけたことはある。殺したことはなかった。
だがそれは、踏み込みが甘かったとか、ほかの兵士に手柄を取られたとか、そういう話だ。街道で狼藉を働く山賊の一団などに対して殲滅を目的とするのが普通のことであり、必要なときにそうできるだけの能力は、元軍兵に備わっている。
怖ろしくないと言えば嘘になるが、人の命を奪うことに感傷的な気持ちを抱くようでは、兵士はやっていられない。ユファスは仮に、ここではっきり「殺せ」と言われても、空白期間ゆえの不安以外の理由で「できない」とは言わなかっただろう。
「あー俺、剣とか、あんま得意じゃないんだよな」
ティオは瞬きをして、ユファスの短剣を見た。
「ほら、訓練受けた訳でもないし。自己流なんで」
言いながら、その手が腰に行った。と思うと、闇を切って飛んでくるものがある。思い切りティオに向かって踏み込んでいたユファスは、投擲された小刀を完全には避けきれなかった。
「つ……」
左二の腕に、痛みが走る。刃は薄い衣服を破って、斜めに大きく赤い線を走らせていた。
(これ、チャルナに水をかけられた服だったな)
(何か厄でもついてるのか?)
もう二度と着ないことにしよう、などと益体もない考えが頭をかすめた。
続けざまに、二投目がやってくる。ぎりぎりでかわす、などとやるには勘が鈍っていて、ユファスは大きく斜めに跳んだ。だいたい、現役だったとしたって、鎧も身につけずに勘で勝負などできるものではない。
「上等」
彼は小さく呟いた。
「剣戟にはもっと自信がないって訳だ!」
もう、投げるには距離が足りない。大きな動作をして外せば、あとは的になるだけだ。
ティオは舌打ちして、小さな武器をかまえた。刀身は十五ファインあるかないか。ユファスの手にあるものよりも短い。
油断はできないが、長い武器をかまえられるよりはまし。ユファスは思い切りよく、横から切り込んだ。ティオは短く後方に引き、それをかわすと同時に右方からナイフを振るってくる。かろうじて、それはユファスに届かずに済んだ。
「次!」
ユファスは、まるで訓練でもしているように声を出した。そうして勢いを得なければ、思い出せない気がした。
間合いを計る。足を使う。あの日の酷い負傷以来、ほとんどやっていないこと。
短い武器同士では、刃を合わせるという感じにはならない。まさしく、トルーディの言った通り。刺すか刺されるか。
それでも町憲兵は、犬よりもこちらの方がましだと判断したのだ。確かに、ただの凶暴な野良犬であっても危険だと言うのに、あの黒い犬には奇妙な知性のようなものがある。
(そう言えば)
(トルーディ町憲兵は、負傷してたんじゃ)
あの犬に傷を負わされたという話だったはずだ。
大した怪我ではなかったのか――何にせよ、襲われたときの恐怖を簡単に克服しているのであれば、すごい人だと思った。
一方でザックは、その人の援護を信じ、ユークオールに剣を振るった。
先ほどかすりもしなかったことや、シュヴァイスの言葉を忘れてしまっていたのは、仕方のないことと言えるだろう。油が水を弾くように獣が刃を受け付けないなど、聞いて理解できることでもない。
思い切りよく外れた剣に、少年はようやく不可解な事象を思い出した。
「どけ、ザック!」
トルーディの声にザックが横に跳べば、老町憲兵はその年齢に似合わぬ勢いで、ユークオールに飛びかかった。
ぐう、と犬はうなって、トルーディの下敷きになる。
「シュヴァイスっ」
「うるさいね、ほら、どうぞ」
魔術師が何か術を振るった。それは何も目に見えるものではなかったが、トルーディは確信を持って剣を抜こうとした。
本当に同じ犬であるものかは彼には判らない。だが彼は、聞いて知っている。かつて、ある黒い大きな犬が、奇妙にも刃を一切受け付けなかったという話。
当時のトルーディは、正直なところ、躊躇いがちに報告してきた少年の話を話半ばに聞いた。自分の能力のなさを言い訳するようなガキではないと思ったが、所詮ガキだったかと思った。
だがその「少年」が、いまでは王城の信頼を受け、王女の護衛騎士という立場にいること、彼も知っている。子供の言い訳と思っていたことに真実味を覚えたのは、何も権威におもねる気持ちがあった訳ではなかったが、最初の印象の方が正しかったのだろうと考え直した。
それから、シュヴァイス。
諸々の事情のために、トルーディが雇った魔術師。彼が話してきた。犬の形をした魔物の存在のこと。
具体的な能力は判らないが、刃を受け付けないというようなことは有り得ると。
だが、いまなら、効く。シュヴァイスがそう言ったからだ。
シュヴァイスという魔術師のこと、トルーディは信頼していた。
この人物は、彼自身と、ラウセア以前の相棒であったアイヴァ・セイーダのほかに、ただひとり全ての事実を知る人物。
ラウセアに隠していることもシュヴァイスには告げた。
トルーディがラウセアを信頼していないと言うのではない。事実を知る人間は少ない方がいいと思うだけだ。彼とアイヴァだけで済むならそれでよかった。だがどうしても、魔術師の手が必要なことがあったのだ。
この犬の件、然り。
いくつも事情があるというのではなく、全てはひとりの男に結びつく話だ。
ラウセアは知らぬままで、トルーディのそれを執念と言った。
もし聞けば、トルーディは苦情を言うことなく、その通りだと認めただろう。
その執念が、いま、ユークオールをねじ伏せていた。
犬を全身と右腕で押さえつけ、左手で左腰の剣を抜く。斬るには向かず、突き刺すしかない態勢だ。
その動作は、どうしても大振りになった。
ユークオールも黙って組み伏されてはいない。
大きく暴れ、町憲兵の右肩に噛みつこうと、鋭い牙の生えた口を開ける。
前夜、ユークオールは彼の捕らえていた男を噛み殺し、彼の右腕にも傷を作った。
それと同じ牙が、同じ場所に、より深い傷を作ろうとしている。
二者の攻撃は、ほぼ同時だった。
短剣とナイフが、互いに引かれたのもまた、ほぼ同時だった。次の攻撃も、同時になるだろう。
ユファスがティオを攻撃範囲に納めている、そのことはつまり、ユファスがティオの攻撃範囲に納まっているということでもある。
引くか、突っ込むか。
その判断は一瞬でしなければならない。
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