09 すぐに戻りますよ

 猥雑、という雰囲気があまりにも当てはまる。

 港付近の西街区は、昼間と違う賑わいを見せていた。

 チャルナを伴わなければ、彼らは十数秒も間を置かず、ひっきりなしに客引きに呼びとめられていたことだろう。

 いや、少女が一緒だって、かけられる声は皆無ではない。

 三人でひと部屋使っていきなよ――という辺りである。

「こういうのは取り締まりの対象じゃない訳?」

「強引な勧誘は罪ですが、正直言って、線引きは難しいです」

「まあ、そうだろうね」

 どこの誰だどの店だと特定しても、とぼけられれば罪に問うのは困難だろう。たまたま町憲兵かその身内にしつこくしてしまった、ということでもない限り、町憲兵だって「そんなのは毅然とはねつけられない方が悪い」――とまではいかないにしても、気の毒だが何もできない、今後は気をつけるように、くらいのことしか言えまい。

「でもこうした地区は人目があるだけ、まだ安全とも言えます。事件を大きくして制服姿にうろつかれたくないという考え方があるので」

 あからさまに悪質な客引き――たとえば脅して連れ込むような――などは、ほかの店の護衛がすごんでやめさせたりするのだとか。こうした場所ではこうした場所なりの自浄作用がある訳だ。

「店がほとんどなくなって倉庫ばかりになる港隣は、犯罪の温床です」

 人目がない、というのは実に大きいものだ。

 この付近では夜の警邏を昼間より頻繁にやっているとのことだったが、それでも犯罪件数は減らない。町憲兵をぶん殴っても海へ出ていけばいいと思う船乗りも珍しくなく、そうした連中を真似る馬鹿もいる。

 喧嘩騒ぎのように判りやすければまだ助かるというもの。倉庫からの窃盗などもあれば、倉庫に連れ込んでの暴行もある。余所の街よりはずっと少なかったが、どうしても皆無とはいかないものなのだ。

 ふたりの若い男が、やはり若い少女を挟むようにして夜の倉庫街をうろつけば、それはむしろ、言葉巧みに女を騙して乱暴しようとでもしているふたりに見えたかもしれない。

 だがそうした不埒者たちにあるように、耳の腐りそうな甘い台詞で少女を褒め称えたり、会員制のいい店はもう少しだからとありもしないものについて語っていたりは、もちろんしない。

 黙りこくって、付近を警戒しながら、歩いている。

「誰も、いないね」

 こうして彼らが港湾に向かったのはとなったのは、ユファスがシンガを初めて目にとめた場所が気にかかったためと、それから昨夜の男たちが港へ行ったようだという事実のため。

 海に逃げられることがやはりいちばん怖ろしい。

「隊でも、そうした結論になっていたと思うんだけれど」

 港を重点的に回る、という話だったはずが、彼らはひと組の町憲兵とも行き会わなかった。

 しんとした街区は、とても不気味だ。

 賑やかな場所を抜けてくれば、なおさらそう感じる。

 チャルナは、神殿で育った娘らしく、厄除けをラ・ザインに祈った。

「――シャンシャ」

 小さな呟き。

 妹につながる細い糸がそこにあるとでも言うように、シャンシャの姉は両手を握り締めた。

 さああ、さああ、とさざ波が堤防に打ち寄せる。

 海の風がばたばたと船の帆を殴りつける。

「……ん?」

 ユファスは瞬きをした。

「――あの船」

 港の端の方に、中型の帆船があった。

「あれが何か?」

 ザックは首をかしげる。

「いや、僕はあまり船のことは詳しくないけど。帆って常に張っておくもの?」

「そんなことないんじゃないですか。普通は港に入ったら畳んで、出航前に……張る……」

 少年町憲兵もはっとした。

 夜に出港する船が、絶対にないとは言わない。

 だがそれは珍しいことだ。たいていは、明るくなってから港を離れる。

「着いたところ、かな?」

「でもそれなら、もっとざわついていそうなものです」

 着岸したばかりであるなら、それこそ帆を畳もうだとか、商船ならば荷を下ろそうだとか、ばたついているはずだ。客船ならばもちろん人が降りてくるし、そうでなくても船員は出たり入ったりするだろう。

 だがその船は、港と同じように静まりかえっていた。

 まるで、息をひそめるように。

「俺が様子を見てきます。チャルナとユファスはそこに」

「判った」

 もしも危険であれば少女を近づける訳にはいかない。ザックひとりで行かせるというのも心配だが、チャルナをひとりにもできない。

 ユファスはザックを見送りながら、きょろきょろと周囲を見回した。チャルナが隠れられるような物陰がないかと思ったのだ。

「――あ、ザック!」

 少女が声を上げた。

「え?」

 ユファスが少年の方を見れば、ぎくりとさせられた。

 人影が、ザックのすぐ背後に迫っている。

「ザック、うしろ――」

 警告を発しようとしたときである。ぐい、とユファスは後方に引っ張られた。

「何だ、てめえら? 逢い引きラウンなら余所でやんな。この付近はいま、立ち入り禁止だ」

 ざらついた声が言った。彼より頭ひとつ半は大きな船員ふうの男が、彼の首根っこを捕まえていた。

「ケイロスの野郎め。見張ってろと言ったのに、どっかに飲みに行きやがったな」

 見ればザックの方に近づいた人影も、同じように少年町憲兵の腕を掴んで何か言っているようだ。

「早くどっか行け。少し戻ればいい店がいくらでもあんだろ。金がないなら、路地裏ででもヤるんだな。海が見たいとでも言うなら浜辺へ行けよ」

 下卑た笑いを浮かべて大男はユファスの返事を待った。

「やめて、放して!」

 怖ろしいであろうに、チャルナは抗議をした。

「――ああ、すみません」

 若者は弱々しい笑いを浮かべた。

「道を間違えたみたいです。すぐに戻りますよ」

「判りゃいい」

 ふんと鼻を鳴らして、男は彼を放した。

「この辺りはよくないね。戻ろうか」

「ちょ、何言って」

 少女は目を見開いた。もちろん彼らは逢い引きにきたのではないのだし、仮にそうであったところで、少し絡まれたくらいでこんな弱腰になる必要は、彼にはないはずなのに。

「しっ」

 ユファスは指を一本、唇に当てた。

「あそこ」

 と、彼は木箱が積み重なった場所を指した。

「隠れていて。約束」

「え?」

 チャルナが聞き返すよりも早かった。

 元軍兵は、姿勢を低くした。気弱な男が恋人を連れてそそくさとその場を去ろうとしている、と思い込んだ大男の脚に思い切り飛びついた。

「うがあっ!?」

 完全に油断していた船員は、面白いようにひっくり返って地面に頭を打ちつける。ユファスはそのままザックのもとに走った。

 少年町憲兵は男ともみ合いになっていたが、体格は同等、いや、ザックの方がやや勝るくらいだ。となれば、荒くれ者と訓練を受けた町憲兵とでは勝負にならなかった。ザックもユファスと同じように、いや、もっときれいに投げ技を決め、襲撃者を振り払う。

「ユファス!」

「こうなったら、あれに」

 若者は中型船を指した。

「後ろ暗いところがあるのは間違いない」

「行こう」

「待った! 僕たちふたりでどうするんだ? 応援を」

「どうったって、応援を呼んでいる間に出港されたら」

「僕らが乗り込んで出港されても、あまり解決にならないと思うね」

 袋叩きにされて海に投げ込まれるのが落ちだ。

「それじゃどうすれば」

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