07 黒い血
何やら急に明かりがついたようだな、とユファスは見るともなしにラ・ザイン神殿を見た。
「夜の祈りとかがあるんだろうか」
「え? ああ、どうでしょう。俺はあんまり、神様のこと知らないんで」
「僕も詳しくないな。神殿なんて、婚礼や葬儀のときに足を運ぶくらいだ」
「まあ、そんなもんですよね」
そんな話をしながら、臨時で組んだふたりが神殿の周囲を一周したときだった。
「ん?」
ザックがぴたりと足をとめる。
「どうかした?」
「いまの……」
少年町憲兵は、ひとつ先の曲がり角を見ていた。
「チャルナ」
「は?」
ユファスは目をしばたたいた。
「何、言ってるんだ。彼女は神殿に」
「でもいまの、チャルナだ」
「あ、おい、ザック」
少年は駆け出し、彼はそれを追った。
「……あれ?」
しかし、ザックが曲がり角の向こうをのぞき込んだとき、その先には誰もいなかった。
「疲れてるんじゃないか?」
ユファスは心配してそう言った。
「昨日から、あんまり休んでないんじゃ」
「まあ、確かに休んでないです。でも、いま、確かに」
「あ、おいってば」
ユファスは慌てて、またザックを呼びとめようとした。少年は言いながら、素早く小路を駆けて行ったのだ。仕方なしにユファスは再び追う。
「いたか?」
「人影が向こうを曲がった」
「待てってば。チャルナは帰ったはずだろう? 気になるなら、訊いてくるとか」
「いえ」
ザックは首を振った。
「俺の気のせいならかまわない。でももしチャルナだった場合、ここで引き返せば見失うだけだ」
その理屈は確かに合っていた。もとより、彼らは神殿の警護をしている訳ではないのだ。判ったとユファスはうなずく。
「行こう」
同意をもらえたことにザックはほっとして、また駆け出した。ユファスも続く。
次の角を折れて、彼らはぎょっとした。
まず目に入ったのは、黒い塊。
いや、それはもちろん、何かごみの山などではなく、ティオがユークオールと呼ぶ、黒い大きな犬だった。
先を歩いていたのではない。彼らの前に、立ちはだかるように。
そして、その向こうには。
「――チャルナ!」
「ティオ!」
「ちっ、何だよ、まだうろついてたのか」
追いかけてきたふたりに舌打ちして、ティオは少女の腕を掴んだ。
「え?」
「チャルナ、そいつから離れろ!」
何が起きているのか、少年にはすぐに判った。ザックは躊躇なく、左腰の剣を抜いた。
「はっ、何だ、やる気かよ?」
「そこでしばし待て、ティオ」
「判った、任せるぜ」
奇妙な独り言に聞こえる台詞を吐いた若い男はにやっと嫌な笑いを浮かべ、チャルナをそのまま抱きかかえるようにした。
「やだ、何? 放して!」
「黙れよ、馬鹿女。抵抗されると面倒臭えが、こうなったら仕方ないな。こいつら片づけてから、引きずってってやるわ」
大して隠す気のなかった本性を現し、ティオはチャルナの動きと口を封じた。
「チャル」
「危ない!」
ユファスはザックを引き寄せた。その瞬間、犬が飛びかかってくる。すんでのところで、ザックはその爪を逃れた。
黒い犬。
もはや間違いがない。
昨夜の襲撃者たちとティオは、同じ一味だ。チャルナを拐かそうとしている。
ぐるる――と犬はうなった。薄闇に、赤い目が光る。
「ユファス、チャルナをお願いします!」
「おい、なかなか無茶を言ってくれるじゃないか」
元軍兵は半ば呆れ声でそう返した。
彼らの前にユークオール、その数ラクト以上先にティオとチャルナ。ユファスが彼らのもとへ行くには犬をかわさねばならず、それが為せたとしても、彼がそうすればザックがひとりで犬と対峙することになる。
これがトルーディに怪我を負わせた犬であることは間違いないだろう。熟練町憲兵が捕縛者を守るために積極的に攻撃に出られなかったのだと考えることもできるが、単純に、これだけ大きな犬と人間の身体能力を比較したら、前者が上だ。そしてトルーディとザックの剣技を比較しても、前者が上である。
彼らの知らぬこととは言え、十七年ほど前、ユークオールに組み伏せられた少年の剣技もまた、ザックより上であった。
「犬は俺がどうにかします」
それは若さ故の
ユファスはそれに応とも否とも言わず、腰帯に挟んだ短剣を黙って抜いた。
不安はあるが、やるしかない。
「このっ、どけっ!」
ザックが叫んで、剣を振りかざした。ユークオールは素早く後退し、後ろ脚に力を込める。と思うが早いが、犬は地面を蹴っていた。
行ける、とザックは思った。
所詮、犬だ。彼の手にしている長いものが危険な武器だとは判らないのだ、と。
完全に、斬ったと思った。
だが、思っただけだった。
振り下ろした剣は冗談のように空を切り、何が起きたか判らないまま、ザックはそのまま路地に倒されていた。
「ザック!」
ユファスは短剣をかざす。犬がザックを組み伏すなら、彼の短剣が犬を突き刺すことができる。
当然そのはずだと、彼も思った。
だが、思っただけだった。
傍から見ればまるでふざけてでもいるように、短剣は犬を逸れ、思い切り体重をかけようとしていたユファスは均衡を崩した。
馬鹿にするようにティオが笑う。
「こりゃいい。喜劇だ」
その腕のなかでチャルナは暴れた。だが、女の力では男に敵わないと言う以上に、彼女がティオから逃れることはできなかった。ティオは、からくりでぴょこぴょこ動く人形を軽く抑えているとでもいう様子で、少女を抱えたままでいた。
があっと犬が吠える。その口が大きく開いた。鋭い牙が物騒に光って見える。
(やられる!)
ザックの身に戦慄が走った。
「クソっ」
ユファスは再度短剣を振るったが、やはり刃は犬を逸れた。
(そんな、馬鹿な!)
いくらしばらく剣を扱っていないと言ったからって、こんな間近で大きな目標を繰り返し外すなど、素人だって有り得ない。
だが、有り得ないと首を振っていても何にもならない。現実に、起きているのだ。
何か考えた訳ではない。ただ、どうにかしなければと焦っただけだった。
しかしそこで彼は幸運神の尻尾を掴む。
刃を下にして勢いよくぶつけた肩は、犬に命中した。牙をザックの首に突き刺す直前、ユークオールは押しやられる。
ザックは反転して素早く立ち上がった。剣をかまえる。その切っ先が震えた。
(クソ)
(しっかりしろ、俺!)
怖い。
あと一
習った剣技も、培ってきた自信も、全て足元で砂となったような。
だがここで、恐怖に負ける訳にはいかない。
町憲兵として。
チャルナを守ると決めた男として。
「うわああああっ」
意味を為さない叫び声と共に、ザックは剣を振るった。ユークオールにはかすりもしなかった。それは、少年の失態ではない。犬が、ただの犬ではないのだ。
しかし理性でも言い訳でも、そんなことが彼らに思いつくはずもなかった。
みっともなく的を外した少年町憲兵に、大きな隙ができる。犬が再び、飛びかかる。ユファスの短剣も、また空を切る。
若い戦士たちは、絶望的な思いを味わった。
いったいどうして。
いや、理由などはどうでもいい。どうにかして当てなくてはならない。それだけ。
しかし、それだけのことが、できない。
ユークオールがザックをまたも組み伏せた。
ザックは見た。犬の攻撃的な赤い瞳に、奇妙な――優位な立場にある者としても、獣としても奇妙な、戸惑いの色を。
「いまだ、やれ!」
知らぬ声が言った。鋭い命令に反射的に身体が動くのは、元軍兵の
刃が――かすった。
犬は飛びすさる。立ち上がったザックが
手応えが、あった。
彼らはぎょっとした。
闇夜に舞った、それは黒い血。
「な……ユークオール!?」
ティオが仰天した声を出す。
「
同じ口から、うなるような声が続いた。
「引く。娘は置いていけ」
「何だって? ちくしょう、仕方ねえ」
絶対的有利を確信していた者が、すぐに引ける。それはザックらには生憎なことに、立派な才能、素質と言えた。
ティオは、軍兵もかくやという調子でユークオールの命令――聞いていた彼らには奇態な独り言としか聞こえぬのだが――に従った。
「きゃっ!?」
無情にも少女を突き飛ばし、駆けてくる犬を待つ。その手がユークオールの背中に触れた。
と――犬と若者は、文字通り、消えていた。
「な」
「何」
「いったい」
「チャルナ!」
ザックは少女を呼んだ。どんな不可解な状況よりも、彼にはそれが優先だった。
繰り返し石畳に打ちつけた背中が痛い。だがそれを無視して少年町憲兵は少女に駆け寄った。
「ああ、血が」
チャルナの膝はすりむけ、赤いものがにじんでいた。
「ザック! シャンシャが、シャンシャがいなくなったの!」
自分の怪我のことなど気づいていないように、チャルナは声を裏返らせて、妹が〈麻袋〉亭に行くと言って出たままであることを告げた。
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