第4章
01 暗い縦穴
つまらん失態だ、と若者は手を振った。
「だが、あれくらいはどうってこともないだろ。――そうかな。――何だよ。――お前がそう思っていても、彼はどう思うかと言うこと」
それは一見したところ、狂人にでも見えただろう。ひとりで、ぶつぶつとそんなふうに呟いていれば。
しかしこの若者が狂っているとは感じられなかった。瞳は理性的な色を宿しており、相手さえいれば、ごく普通に話をしているとしか思えない。
ただ、その相手がいない。返答は、彼自身の口から出てくる。
確かに、それは非常に奇妙だった。不気味と言えた。だと言うのに、正気を失っているという感じはしないのだ。
「まあ、先生が焦る気持ちも判る」
ティオは口の片端を上げた。
「〈変異〉の年も近いってのに、淀む穢れは半端もいいとこ」
「お前に判るのか?」
同じ口から同じ声で、返す言葉が発せられた。
「判るもんか。ただ、あんたが言うんじゃねえか」
彼はにやっとした。
「今期の穢れは足りなくて、何とか病の子供を治すのに、普通なら数人分で済むとこを十五人分ってんだろ?」
「
「ま、あとふたりだ。今夜で巧いこと揃うだろうさ」
シンガは黙って、ずっとティオの「独り言」を聞いていた。
実に奇妙だ。
不気味だし、意味は判らない。
しかし刀屋の息子は口を挟まなかった。判らないことを尋ねていいときと、沈黙を求められるときがある。いまは後者だ。
「最初は、何でいちいちこの街なのかと思ったけど、いまはだいたい判ったぜ」
「ほう? どう考えている?」
「先生はここを気に入ってるが、
「
「んじゃ、昨日の失態も却って役に立つかもしれん、と」
「そうなりそうだ。今日のお前の挑発も同様。これで動かないようならば無能。彼は堂々とこの街に戻るだろう。動いたところで的を大きく外すようなら、やはり気にする必要はない」
「じゃ、やっぱ今夜だな」
ティオはにやっと笑った。
「んで」
そこでシンガの辛抱を感じ取ったかのように、ティオは独り言をやめ、シンガをじろっと見た。
「もう一度説明してもらおうか。昼間のあれは、何だ」
「だから」
刀屋の息子は咳払いした。
「あの給仕娘にひっついてる連中だよ」
そうシンガが言えばティオは再び年上の――年上に見える――男を睨んだ。
「そんなこたあ判ってる。……ん、連中だと?」
「一緒にいたガキの町憲兵も、同じってこと。俺が前に言った、あの娘の周囲にいる町憲兵ってのがあいつなんだ」
「ああ? あの、身体がでかいだけのでくか。それじゃ言いなりになる頭の弱い町憲兵を脅して同行させた訳じゃないんだな」
ティオは舌打ちした。
「シンガ」
「あの場で言うべき……だったか?」
少しおののきながら、シンガは尋ねた。ティオは首を振る。
「いい判断だ。向こうは手ぇ組んできたつもりだろうが、それがばれてないと思ってんな。それに、こっちが恋敵より町憲兵に気をつけたと、確信してる訳でもない」
ただ、とティオは呟いた。
「軍歴だとかぬかしやがった。まあ、口だけかもしれんが」
「いや」
と言ったのは、ティオでありながらティオではなかった。
「嘘ではないな。あの男は、お前のように簡単に嘘をつける顔をしていない」
「け」
ティオは唇を歪めた。
「昔ぁ俺だって、純真だったぜ?」
「軍兵であったということは」
ティオではない声は、ティオの言葉を無視して続けた。
「町憲兵よりも人殺しの訓練をしているということだ」
「ああ、まあ、そうとも言えるな」
町憲兵は対象を捕縛することが目的。場合によっては怪我をさせるとしても、生かして捕らえることが主眼だ。だが兵士は、有事の際に命を賭けて戦うもの。
相手を殺すか自分が死ぬか。この付近で大きな戦は長らくないが、「警護兵」程度でなく軍を持つ王城都市であれば、鍛錬が甘くなるとも思えない。
「生死を賭した局面では、注意すべきは町憲兵より元軍兵と心得るんだな。もっとも、あれだけの一言で能力の高低は判らないが」
「油断はするな、だろう?」
「
ティオはやはり、ひとりで呟いていた。少なくともシンガにはそう聞こえた。正直、シンガは非常に気味が悪かった。
しかし、ティオの提案は魅惑的だった。
身よりのない女子供を見つけ、いなくなっても町憲兵隊に届けられないほど、人間関係の薄いことを確認する。生活パターンを把握し、ひとりになる時間帯を知らせる。それだけで金がもらえるのだ。数月は派手に遊んで暮らせるだけの金額。
犯罪をしろと言われる訳でもない。いい話だった。
何の価値もないような女ども。シンガは春女に目を付けて幾人か売った。もっと見つければもっと金をやると言われた。だが春女たちはそれなりに警戒しはじめていて、シンガは神殿の捨て子たちのことを思いついた。
子供も報酬の対象だが、若い女の方が高い金額を払ってもらえる。チャルナは彼の三人目の標的で、巧いこと運ぶはずだったのに――つまらない邪魔が。
「シンガ」
そのときであった。
じっと座り込んでいた、黒い大きな犬が立ち上がったのは。
「お前の慎重さは買える。ティオにはないものだ」
という言葉が当のティオから発せられるものだから、シンガは目をぱちぱちとさせ、対応に困った。
「短気で悪かったな。でもこれで長年、やってきてるじゃないか」
「確かに。しかし走り出す前に周囲を確認する役割も必要だ。リクテアーのいなくなったいま、新たな手が要る」
「こいつか?」
「一考の価値はある」
じっとシンガを見ながらぶつぶつと続けるティオに、青年は薄ら寒くなる思いを味わっていた。
このティオという若い男は、「誰か」と彼らの間に立っている。それくらいはシンガにも判る。ティオから金が出ているとは、とても思えない。
ティオの上にいるのが誰であるのかは知らない。「先生」と言っているようだが、それが誰であるか知る必要はない。それどころか、おそらく知らない方がいい。
詮索してもっと金を得ようとした馬鹿は、翌日から姿を見かけなくなった。それが何を意味するか気づかないようであれば、次に消える運命にあるだろう。
そう、シンガは慎重だった。金の提示にただ飛びついたのではない。自分に危険が及ばないことを確認したし、父親と喧嘩をしても、金を手にする前から家を飛び出すようなことはしなかった。標的の選出にも気を使い、下調べも丁寧にやった。
現状としては、大雑把でいい加減なちんぴらの出した結果と何も変わっていない。だがシンガは油断しなかった。
そこを――買うと言われた。
誰に?
「こいつは、ユークオール」
ティオは少し面白がるようだった。黒い犬の背を撫でる。腰の辺りと言うのだろうか、わずかに毛の色が違う部分がある。それさえなければ完璧な毛並みであるのに、もったいないように思えた。
「お前を認めたようだぜ」
それは、とても大きな犬だ。後ろ足で伸び上がれば、シンガよりも背が高くなるだろう。太い足と丈夫な爪で引っかかれたり、鋭い牙で噛みつかれたりすれば、ただではすまない。
「犬、が?」
気の毒に、シンガは困惑していた。
「これから……とも言うべきだろう。シンガ。お前はこのささやかな手伝いを越え、ティオの右腕になるつもりがあるか?」
「え? い、あ、何の」
「あー、待てよ、ユークオール。いきなりは無理だろ、普通。俺自身だって最初は頭が混乱しそうだったんだぜ。俺の口から、お前の台詞が出てくるなんてな」
「……え?」
「ユークオールは、ただの犬じゃない。だが、人間の言葉を喋るようにはできていない。だから俺が代弁する……と言うか、俺の声帯を勝手にこいつが使うのさ」
ティオは肩をすくめた。
「俺がふたり分喋ってるのは、気づいてたろ? 俺の頭がおかしいと思ってるかもしれんが」
そうじゃないとティオは言った。
「信じられなきゃ、忘れな。数月分の報酬で、お前とはさよならだ。だが人生の転機ってのは、そうそう訪れるもんじゃない。もうお前の人生に、二度と幸運神の降臨はないかもしれない。俺は選択権が訪れたとき、即断した。後悔はない。それどころか、最高だね」
ティオは笑った。
「だが俺は優しいからな。お前にも即断しろとは言わない。時間をやろう。――今夜までな」
「それは優しいことだ」
ティオ――いや、ユークオールも笑った。
いくらかだらしない生き方をしてきたところで、これまで出会うこともなかった不可思議な出来事を前に、シンガ青年は呆然とした。
正直、判らない。さっぱり判らない。
しかし、判ることもある。この決断が、彼の人生を変える。よくも悪くも。
大した儲けも面白味もないが、真面目に刀屋を継いで細々と生きていくか。それとも、人生を――命を、或いは魂を賭けて、一寸先も見えない暗い縦穴に飛び込むか。
若さというものは、夢を見せる。
よくも悪くも。
彼が出す答えは、決まっているようだった。
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