06 それじゃ、本当なのか
どうしようかな、と頭をかいた。
いや、どうもこうもない。何を馬鹿みたいなことをやっているんだろうとは思う。
ラウセアが緊急の会議だかで隊長や熟練町憲兵たちと話をしている間、ザックの任務は詰め所で待機していることである。
ちょっと飯を買いに行く、くらいのことであれば目こぼしされるが、厳密なことを言えばそれでも服務規程違反だ。
ましてやふらふらと、用もないのに北街区の散歩など。
(ここを巡回中の組もあるよなあ)
(見つかったら、こっぴどく怒られる)
(減給だって、あるかも)
そんなことになったら、友人との賭けに負ける。下町の友人は口が悪く、ザックに昇給とか昇進とかは有り得ない、むしろ近い内に減給か解雇だ、と言って彼をからかうのだ。
それは決まりごとのようなやり取りであるから腹が立つことはないのだが、言う通りになったらちょっと悔しいだろう。
ザックがきちんと真面目に業務をこなしているのは何も友人に笑われたくないからではないが、ほどよい発奮にはなっている。
だと言うのに、減給されても仕方がないことをやっている、というのは何なのだろうか。
一目惚れ――などというものを彼は知らない。
いや、「言葉を知らない」訳ではないが、あの少女の、ひったくりに盗られた財布を取り戻したときに嬉しそうにしていた顔や、「クビになっちゃう」と気を落としていた顔が頭にこびりついて離れない、という自分の状態が、世間一般ではそう言われるものだと判っていないのである。
下町育ちの割にはザックは「奥手」の部類だった。子供の頃、いじめっ子からかばってくれた年上の女の子に少しふんわりとした気持ちを抱いたり、陽気な給仕娘を何となく「いいな」と思ったりしたことがある程度で、周囲の友人たちがたいてい成人前後には女を知っていたのと違い、いまだに口づけを一度経験したことがあるだけだった。
それも、酔っ払った春女に通りすがりで無理矢理奪われただけであり、女の子とつき合った結果ではないのである。
もっとも、そういうことは好きな女の子とするものだ、と両親に教育されて育った彼は、「お前は童貞だろう」などとからかわれても一向に気にならなかった。
取りようによっては鈍いということにもなったろうが、取りようによっては、意志が強いとも言える。誘惑に負けない、ということだ。
実のところ、彼が町憲兵の試験に通ったのは筆記より実技よりそうした精神面を買われてのことだった。最低限の素養さえあれば知識や剣技はあとからいくらでも叩き込めるが、精神力というのは容易に鍛えられないからである。
ただ現状、試験官たちの認めた精神力は、萌えだした若葉の影に隠れてしまっていた。
若さに恋心が加わると、とてつもない力を発揮してしまうものだ。
(ちょっとだけ)
彼はそう考えた。
(この辺りを一周だけ、しよう)
(会えるはずもないけど)
ザックは心を決めると、歩き出した。
すぐに戻れば、まだ会議は終わっていないだろう。待機中に何をしていたか訊かれるかもしれない、何か言い訳を考えよう。そんなことを思っていたときだ。
「――にしろ、町憲兵を呼ぶぞ!」
「何もしてないだろ、何もっ」
「ほら、いいからもうやめろって。すみません、本当に」
そんなやり取りがザックの耳に飛び込んできた。
彼が自分のためを思うのならば、ここでやるべきことは、くるりと踵を返すことだ。何か揉めごとであれば、それを報告する義務が生じる。そうなれば無論、ふらふらと出歩いていたことはばれるのだ。
「何かありましたか?」
しかし、ザック少年はそうできないのである。
自分の現状をうっかり忘れたという訳でもない。揉めごとであれば、自分は怒られてもいいから町憲兵の任務を全うしなくては、と思うのだ。
「何でもないです、何でもない。ちょっとした言葉の行き違いが」
「俺はそんなにおかしなこと、言ってないはずだぜ」
「いいから黙れって」
ユファスは――それはもちろん、ユファス・ムールとその友人バールであった――友人の襟首を後ろからひっ掴んで、館の警護兵に愛想笑いをする。
「すみません。これはもう、連れていきますから」
「おいっ、何が『これ』だっ」
「君が悪いんじゃないか。それから、町憲兵さんも、本当に何でもないんで」
「あ」
「はい?」
「あなた、確か」
「ええと、はい?」
「ひったくり犯を撃退した人、じゃなかったですか」
「――ああ。あのとき、サリーズさんと一緒にいた町憲兵さん」
ユファスとしては、ラウセアの方は彼に名乗ったし、話をしたので顔も覚えていたものの、一緒にいた若い町憲兵のことはよく覚えていなかった。ザックを見てもすぐには思い出さなかったが、言われたことで気づいた。
「何だ。それじゃ、本当なのか」
言ったのは門番だった。
「本当だって言ったろ」
バールが返す。
「いいから、黙れっての」
ユファスは友人を制止した。その様子に、ザックは首をひねる。
「何してるんですか、こんなところで」
「それがな。聞いてくれよ、町憲兵さん」
「言わなくていいってば。もう帰ろう」
ユファスはバールを引っ張った。
「まあ待てよ、おふたりさん。財布を取り返したとか言う話が本当なら、あのドジ娘を呼んできてやってもいい」
門番は突然、そう言った。
「何しろ、今日で終わりだしなあ」
「またクビになったんですか!?」
ザックとユファスは異口同音に叫んだ。まじ?――とバールが口を開ける。
「いや、もとから病気の使用人が休んでいる間だけという約束だったらしい。働きぶりによっては続けて雇われたかもしれんが、あれじゃ遠からずクビだったろうな」
ユファスは、いったいあの子は門番にまでそう思われる何をしたのだろうかと苦笑いをし、ザックは洗濯物の件がばれたとしてもそれだけじゃなさそうだなと思った。
「支度をしてる頃かもしれん」
待ってろ、と門番は邸内へ声をかけてそれから彼らに身振りで裏口に回るよう指示した。
「裏だって」
「あ? いまの、手ぇぐるぐる回したの、そういう意味? お前、よく判ったな」
バールが感心したのだか呆れたのだかはっきりしない調子で鼻を鳴らす。
「いや、普通に判るだろ」
ちらりと見られてザックは同意するようにうなずいた。バールは、俺だけかよと顔をしかめる。
こういうのは一種の手信号だ。町憲兵と元兵士は身振り手振りで意志を伝えることに対する勘のようなものが育てられている。それだけのことで、特にバールが鈍いのではなかった。
「何でこんなことになっているのか」
歩きながらユファスは呟いた。
「周りを見るだけだって言ったのに、バール」
「いいじゃん、結果的に巧く行ったんだから」
「あの、あなた方は何をしにきたんですか」
料理人ふたりがここにいる理由が判らなくて、ザックは尋ねた。
「あーええと、それは」
「俺はチャルナちゃん見にきたのよ」
堂々とバールは言った。
「僕は引っ張られてきました」
渋々とユファスは言う。
「うん? 何で町憲兵さんまで一緒にくる訳?」
バールがそこに気づいた。ザックは目をしばたたく。
どうやら、ユファスとバールはチャルナに会いにきた。一
だが何にせよ、少女に会いにきてそれが叶いそうなのは彼らであり、ザックではない。
「ええと、その」
「当然だろう。僕らは不審者一歩手前だもの」
ユファスはそういうことだと考えた。
ザックとしては、ここで「そうです」と同意するのも、しかし躊躇われる。少年町憲兵は彼らを疑っているのではない。だいたい、反射的にひったくりを投げ飛ばす男が金持ち狙いの盗賊だとも思えない。
ザックは曖昧な返答をするにとどめ、自分も彼女の様子が気になるのでと言った。財布を取り戻した町憲兵が彼女を知っているのは当たり前だとふたりの料理人は気づき、それ以上は突き詰めなかった。きっとザックの前でも素っ頓狂なことをしたのに違いないと考えたのだ。
「ところで、今日はラウセアさんは一緒じゃないんですか?」
ユファスが問う。ザックはむせた。
「あー、その、会議で」
「ふうん」
町憲兵の巡回はふたりひと組が基本だとは知らないユファスは、ただそうかと思った。
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