04 例の噂
朝の厨房は、夕刻ほどには忙しなくない。
仕える主人の活動開始時刻がまちまちだから、使用人の訪れてくるタイミングがずれるのだ。朝を抜いて早めの昼にする者も少なくない。兵士などは、しっかり食べたいから下食堂で出る軽いものでは足りないと、朝から外に行くこともある。
そんな訳で、朝の戦場は比較的、余裕だ。
「ええっ? 何でそこで言わないんだよっ」
バールが判らないという顔で叫んだ。
「どう考えても、ものにするチャンスだろ」
「いや、確かに可愛かったけど、そんなつもりは」
「水かけられたくらいで怒ってんのか? 水だろ? 熱い煮込み料理とかじゃなかったんだからいいじゃん」
「それはたまたま水だっただけで……いや、怒ってる訳じゃなくて」
あれから数日ほど経っている。
この話になったのは、〈白い河〉亭の店主に借りた服を返しに行かないといけないなと思い、昼に街に出るけど何かあるか――と尋ねたことが発端である。
「のほほんにもほどがあるぞ、ユファス。そういうときは、まずアピール。好きになるかどうかなんて、あとで考えりゃいい」
「うーん、判らなくもないんだけど、僕はあんまりそういうのは」
「お前なあ。そんなこと言ってると、生涯独りだぞ」
「別にかまわないけど」
「かまえよっ」
「まあ、ここで仕事をしてると、なかなか好機なんてものに出会えないからな」
ユファスと同室のガレンが口を挟んだ。
「手に当たったものをとりあえず掴んでおくことは、悪くないぞ」
「そう? それじゃ次には考える」
「次は何年もあと、なんてことになるかもしれないんだぞ」
バールは真剣に言った。
「よし。今日は俺がついてってやる」
「は? いや、でももう、彼女はいないと思うけど」
「そこで終わらせるなよ。店主は親戚なんだろ? 新しい勤め先とか、知ってるかもじゃん」
「いちいち追いかけるのか? そこまでやるのはさすがに、好きになったら、じゃない?」
「追いかけてきましたと言わなけりゃいい。偶然のふり」
バールはそう言った。
「そうだな。しばらくして雰囲気がよくなりそうだと見て取ったら、そこで『実は君に会いたくて……』とやるんだ」
にやりとしてガレンが続ける。うんうんとバールはうなずいていた。
「それは、詐欺だろう」
少し呆れてユファスは言った。
「普通だろ、これくらい」
そうだよな、と同意を求めてバールは周囲を見た。反応は、半々だった。
「まあ、バールは若いしな」
「ガレンは女たらしだしな」
「おい」
言われたガレンは顔をしかめた。
「どうして俺が」
「何が『どうして』だよ」
「三人の女と同時につき合って、それがばれて大騒ぎを巻き起こしたのは、どこのどいつだって?」
「あれは……ひとりなんて選べなかったからだ」
仏頂面でガレンは言った。
「すごかったんだぜ」
事件を知らないユファスに、ウィーディーがにやりとして続ける。
「ひとりなんか、城まで乗り込んできて」
「そうそう、ガレンを出せーって」
「大騒ぎ」
「あんときばかりは俺も」
にやにやと話を聞いていたトルスが、ここで口を挟んだ。
「調理に関すること以外で、料理人のクビを切らなきゃならんかと思ったもんだ」
「もうその話はやめてくれよ、トルス」
知っている者たちはわははと笑い、知らない者もにやにやし、ガレンだけがむっつりとしていた。
「あんときは、ちょっと失敗しただけ」
成程、「女をもてあそぶとあとが怖い」は、これかとユファスは納得した。もっとも、この調子だとほかにもいくつか事例があったりするかもしれない。何かしら、現在進行形という可能性も。
「とにかくよ」
バールはユファスを睨んだ。
「『格好いい兵士さん』を
「いきなりそんなの、おかしいだろう」
ユファスは肩をすくめた。
「もう少し知っている相手ならばともかく初対面も同然なんだし」
「だが、いまは例の噂があるから、送るってのはいい口実じゃないか?」
ガレンはやっぱり、にやっとした。
「例の噂?」
新来のアーレイド市民は目をしばたたいた。
「って、何」
しかし知らないのはユファスだけでもないらしい。バールも首をひねっている。
「知らないのか? いま話題の」
ガレンは効果を狙うように、少し間を置いた。
「人攫い」
その一語に厨房は妙なざわめきを帯びた。
「こりゃまた、古めかしいネタだな」
「そうか? ちょいと田舎行くと、普通にあるぞ」
「ああ、そうだな。俺のガキの頃は『悪い子は人攫いに連れて行かれるよ』が親の脅し文句の定番だった」
「うちもうちも」
「でも田舎の話だろ。この街じゃ聞いたことない」
「それが」
ぱん、とガレンは手を叩いた。
「あるんだな」
何でも、ここひと月ほど、若い女や子供が行方を眩ましているという話がある。これが「ひと月にひとりかふたり」という程度ならば、駆け落ちや不慮の事故とでも思われるが、生憎とそうではない。
「それは、月のない夜だったと言う」
「ひとりの女が、いつものように仕事場に向かっていた。しかし、彼女はいつものようには仕事場にたどり着かない。同僚たちは、彼女が風邪でも引いたか、それともさぼりを決め込んだかと思う。だが、そうじゃなかった」
芝居がかって、男は首を振った。
「彼女は間違いなく、家を出た。途中で忽然と消えたことになる。特定の男がいた形跡はなかったものの、駆け落ちをしたのではないかと言われた」
「それが人攫いの仕業だってのか?」
ひとりが口を挟む。
「言うように駆け落ちか、そうじゃなけりゃ気の毒に、ヤられて殺されて、海にでも捨てられたんだろう」
「その線もある。少なくとも翌朝、港に死体なんかは上がってなかったが」
ガレンはうなずいた。男たちは苦笑する。
「おいおい、人攫いはどうしたんだよ」
暴行されて殺された、などということだったら笑い話ではないが、その話が本当であるのかも判らない。人攫いの話だったはずなのに、という意味合いで彼らは笑ったのである。
「これが、続くんだ」
語り手は指を一本立てた。
「やはり若い女。仕事から深夜に帰る途中、姿を消した。女の息子もいなくなっていたから、夜逃げじゃないかと言われた。だがそれにしちゃ、荷物なんかはそのままだ。これは、最初の女も同じ」
そんなふうに続くと、聴衆たちは少し落ち着かない様子で互いに顔を見合わせた。
「このひと月で、判っているだけで六人。駆け落ちだ、夜逃げだ、事故だ、で終わっている話もあるかもしれない。そうだとすると、六人では利かない数の女や子供が、アーレイドから手がかりなく消えていることになる」
にわか物語師は言葉をとめた。数秒間、沈黙が降りた。
「――大げさだ」
「芝居がかってる」
「怪談だな」
生じた雰囲気を振り払うように、料理人たちはガレンの話を笑った。
「女子供をどこか遠くへ売り飛ばす、なんて話はよくあるがね。さっきも誰かが言ったように、田舎の話だ。アーレイドでも皆無じゃないが、売り飛ばされる先は普通、娼館だよな?」
同意を求めるように、ガレンは周囲を見た。
「そんなところだろ」
「よくある話だ」
聞き手たちは言ったが、語り手は肩をすくめた。
「その女たちってのは、春女なんだよ」
ガレンはそう告げた。
「何だ」
「それじゃやっぱり、逃げただけじゃないのか?」
「男を見つけて新しい生活をするためにどっか行ったとか」
「そうくると思ったよ。だが逃げるなり、違う暮らしをするなりなら、金目のもんを置きっぱなしにしていくか?」
「……しないな」
「しないだろう」
「でも、まさか人攫いなんて」
「嘘だろ。いくら何でも」
「また、ほら吹いて」
「誰がほら吹きだ」
ガレンは顔をしかめたが、そのあとで苦笑のようなものを浮かべた。
「……まあ、絶対に人攫いだと言い張るつもりはない。春女たちはそう言ってる、ってだけのこと」
一部じゃ持ちきりだ、と彼は告げた。
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