10 いい職場を知りませんか
「僕は、気にしてないですから。クビにまでしなくても」
「いいや、こいつのためでもある」
主人は首を振った。
「お客さん、あんたは優しく許してくれるが、この辺には荒くれ者が多い。うっかり水をかけたりした日には、うちの評判が悪くなるだけじゃない、こいつが酷く殴られることになるからな」
「あー、成程」
それはとてもありそうなことだ。それは主人の言い訳であったかもしれないが、納得できる理由でもあった。
「本当にすまん。金はもちろん、返す。それから、こっちへどうぞ。こんなことで風邪でも引かせたら悪い」
男の案内にユファスは立ち上がった。酔いを警戒したが、幸いにして目眩などは起きない。だが念のためにゆっくりと歩く。
少女チャルナは、突然の――当然の――解雇宣言に呆然とした様子で立ちすくんでいた。
それを目にとめたユファスは、何か言ってやろうかと思ったが、慰めの言葉は何も思いつかない。仕方なく彼は曖昧な笑顔だけを浮かべて、チャルナの横を通り過ぎた。
昼時の港湾は、比較的落ち着いていた。走り回っている
〈白い河〉亭の店主の服を着たユファスは、どこかの倉庫に寄りかかって、しばらく海を眺めていた。
湾の奥地に位置するアーレイドでは、エディスンのように「どこまでも広がる海」という景色は臨めない。曇り空に霞んではいるものの、じっと見ていると、南側の岸が遠くまで続いているようなのが判る。
懐かしい気がすると同時に、違う景色だと思う。
当たり前のことなのだが。
(今度の休みには、浜辺の方に行ってみようか)
そんなことを考えた。だが、男ひとりで浜辺を散歩するというのもどうだろうか。やっぱりやめておこう、と首を振って壁を離れた。
そのときである。
「あっ」
「え?」
驚くような声を上げられて、ユファスも驚いた。
「さっきの人」
「ああ、君、さっきの」
倉庫の角を折れてきたのは、〈白い河〉亭の給仕娘だった。いや、荷物らしきものを抱えているところを見ると、本当に追い出されたらしい。元給仕娘だ。
「……悪いことしたね」
ユファスは何も悪くないのだが、つい、彼はそう言った。
「いいえ、どう考えても私が悪いです」
少女は真顔で答えた。それはそうである。
「服、叔父さんのを借りたんですね」
「ああ、確かに大きいけど、着られないほどじゃない」
袖口は折り込んだ。腰を締める必要はあったが足の長さの方はあまり変わらないようで、大柄な主人は苦笑いをしていた。
「本当にすみませんでした」
「いや、もういいから」
本当に、と彼は言った。
「君、行く当てはあるの?」
少女の荷物を眺めて、彼は尋ねた。
「ええと。寝場所はまた、神殿においてもらおうかなーって。あ、私、孤児なんです」
あっけらかんと少女は言った。
神殿に赤子が捨てられるという話は珍しくない。出産で親を亡くした子供、というような場合も神殿に預けられたりする。
神官たちは世話をしながら養い親を探すが、見つからないまま育つ子もいる。神官見習いとしてそのまま神に仕える者もいれば、成人して出ていく者も。
ユファスはあまり詳しいことを知らないが、親を亡くしたときは彼ら兄弟も神殿の世話になるかという話が出たことがある。そのときに少しだけ仕組みを聞いた。
他人に引き取られるとなれば、まず、兄弟は離れ離れになる。それは受けられない、自分が弟の面倒を見る、と言い切ったものだ。当時はまだ、彼だって未成年だったのに。
「そうだったんだ」
それはたいへんだねとか、苦労をしたねとか、そういう台詞が若者の頭に浮かんだが、何となく相応しくないような気がして口にするのをやめた。
と言うのも、少女の言い方に悲壮感というものがかけらもないからだ。
「神官たちは親切ですけど、居候はできません。叔父さんは、血のつながりもない遠い関係でも縁だからと雇ってくださったのに、私ったら失敗ばかり」
主人も言っていたように、ユファスに対してだけではなかったようだ。
「早く自立できるほど稼いで、妹と一緒に暮らしたいんですけど」
「……へえ」
何だか、自分と境遇が似ている。
「僕にも弟がいるよ」
「一緒に暮らしてるんですか?」
「いや、遠い街にいる」
「そうですか。……寂しいですね」
少女はふっと視線を海に向けた。ユファスも釣られる。
「こっちで一緒に暮らせたら……とも考えたけどね」
エディスンから離れたい気持ちになったのはユファスであって、ティルドではない。ティルドにしてみれば、兄はいずれエディスンに戻ってくるものと考えているのかもしれないし、弟が敢えて居を移す必要は全くない。
ひとりでやってきたのはトルスとの出会いと、それからユファスのわがままだ。弟が寂しがっているなら済まなく思うが、一方的に出てきた兄の方で寂しがっているとは言えないだろう。
(エディスンの方に行く船もあるんだろうな)
そんなことを考えた。
「ねえ、あの、お客さん」
その呼びかけに、郷愁に似たものは霧散した。ユファスは思わず吹き出す。
「もう、客じゃないだろ。――ユファス。ユファス・ムールって言うんだ」
「ユファス」
少女は繰り返した。
「私は、チャルナと言います」
主人が呼んでいたから知っていたが、改めて名乗られたので、何となく「よろしく」などと言って手を差し出した。チャルナも同じ言葉を返しながら、彼の手を握る。
「あのですね、ユファス。突然なんですが」
「何?」
「どこかいい職場を知りませんか」
真剣な顔でチャルナは言った。
「残念だけど、僕はアーレイドにきて日が浅くて」
さすがに城の厨房は紹介できない。彼にはそのような権限はないし、仮にあったとしても、どう考えても彼女には無理だろう。
うっかり者だからと言うのではなく――それもあるが――女の子には厳しい体力仕事である。
「あ、ごめんなさい。図々しかったです」
チャルナは頭を下げる。
「いやいや、迷惑だとか言うんじゃなくて。本当なんだよ」
アーレイドにやってきて、まだ一旬程度なのだと言った。拒絶の口実ではない、と。
「へえっそうなんですか。じゃあ、不慣れでたいへんでしょう」
「仕事仲間がみんな親切だから、大丈夫」
「いいですねえ、そういうのって」
チャルナはにこっと笑った。ユファスも笑みを返す。
「神官たちもみんな親切なんだろう?」
彼の言葉に、チャルナは目をしばたたいて、そうですねとまた笑った。
「神殿って、ムーン・ルー神殿?」
「いえ、違います。ラ・ザインです」
「ラ・ザイン? 珍しくない?」
子供を引き取るのはたいてい、大地の女神ムーン・ルーや、やはり女神故にピルア・ルー、或いは最も一般に知られていると言える創造神フィディアルの神殿などだ。
ラ・ザインは、〈公正なる裁き手〉と言われる神だ。決闘などが公正であるべきだという流れから戦士たちの信仰対象でもある。正義の象徴として町憲兵を「ラ・ザインの使徒」と呼んだりすることも。
つまり、あまり、子供を託していこうと思う神様ではない。
「そうですね、ちょっと珍しいかも。私とシャンシャも、フィディアル神殿に行くはずでした。でも迷子になって泣いちゃって、そこをたまたまラ・ザインの神官に見つけられたんです」
彼女は肩をすくめた。
「それからシャンシャがその神官に懐いちゃってどうしようもなくて、それで置いてもらうことになったんですよ」
シャンシャというのはチャルナの妹だろう。それは説明されずとも判った。
道に迷ったのはチャルナの方だろうか、と彼はいささか失礼な想像をしたが、仕方のないことかもしれない。
「でもお金は神殿に入れないといけないし」
「えっ」
ユファスは目をしばたたいた。
「意外と厳しいんだね」
「あっ、子供からお金は取りませんよ。私もたぶん、お願いしますと言えば『いいですよ』と言ってもらえますけど、成人してからは心苦しくて」
神官が宿代を請求する訳ではなく、彼女自身の意志による寄進らしい。
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