09 チャルナ
緊張をしたというのではない。しかし何となく、気分的に疲れたという感じがする。
サリーズ町憲兵はよい人だったが、ユファスは町憲兵隊の詰め所というものを訪れたことはなかった。足を踏み入れたのは入り口だけで奥に入った訳でもないのだが、商業の店舗などとは違う独特の雰囲気がある。
(僕が緊張したんじゃなくて、詰め所の持つ緊張感に気圧されたという感じかな)
そんなふうに判定して、若者は空を見た。
新米料理人にして新米アーレイド市民は、今日はひとりで街をぶらついてみることにした。
少し喉が渇いた感じがする。どこかでちょっと休んでもいい。
(店なんて、どこも知らないけど)
そんなことを考えると、ふと〈白い河〉亭――という名前が思い浮かんできた。
刀屋の息子が訪れた店の名前だったな、と思い出す。
(西区、だっけ)
(そう言えば……まだ、アーレイドの海を見てないな)
エディスン城は海の近くにあった。
一方、ユファスが入ってきた北門からアーレイド城まで行くのに、海沿いは通らない。風の強い日でもないと、城付近には潮の香りもしないくらいだ。
北の海からやってきた若者は懐かしい匂いを嗅ぎたくなり、潮風が感じられる場所を求めて歩き出した。
(治安はよくないという話だっけ)
(いや、でも昼間なら大丈夫と言ってたな)
武術の心得はあるが、ラウセアに言われた通り。過信はよくない。ユファスは大通りを選んで西区を進んだ。ほどなく、風が何かを運んでくる。彼は思いきり深呼吸をした。
潮の香り。
あるのが当たり前だと思っていた。だが海を離れて香りが薄れても、案外気づかないものだ。
こうして再び行き会ったときに、ああ、これが足りなかったんだなと思う。
海を見に行く前に、渇きを潤しておこうと考えた。いがらっぽい喉を気にしながら水いっぱいの海を眺めるというのも、何だか馬鹿げている。
別に、どこでもよかった。
不潔そうな汚い店であっても、飲み物に虫がたくさん浮いているほどでなければかまわない。軍兵上がりはたくましいのである。
よほど不味かったり法外な値段でも要求されれば困るが、そうなったらそのときはそのときだ。
ユファスは適当に選んだ小路を適当に歩いて、一軒の店を見つけた。
それは、偶然だ。
「……〈白い河〉」
彼は看板を読み上げた。
「ふうん」
面白い偶然だ、と思った。ひとつ、ソルの息子――シンガと言ったろうか――の目当ての娘でも見てやろう、などと。
女性が複数いればどの娘か判らないし、件の娘がいまの時間帯に働いているかも判らない。もちろん、シンガが女の子目当てにやってきたのかも判らないし、第一、ユファスはシンガというのがどんな若者なのかも伝聞でしか知らない。
興味があったというより、ただのきっかけだ。
営業中であることを確認して、ユファスは扉を開けた。
「いらっしゃい」
迎えた声は初老の男性だった。店主だろう。
「食事かい?」
「いや、何か飲ませてもらおうと思って」
適当な席を探しながら、ユファスは返した。
「何でもあるよ」
「ラッケも?」
若者が尋ねると、店主は片眉を上げた。
「まあ、あるよ。酒以外を頼まれることは珍しいがね」
ユファスの注文は、蒸留水を香草で香りづけした飲み物だった。
「これから仕事なんだ」
「そういうときは景気づけに一杯、って連中が多い場所なのさ」
「成程ね」
ユファスは笑って、壁際の席の椅子を引く。
それほど広い店ではない。だが、狭いと言い立てるほどでもない。席を増やせば、三十人くらいは入れるだろう。現状で想定されているのは、満席で二十人という辺りか。
場所柄だけに限界はあるが、店内はきれいにされていると言っていい。卓上に酒の染みはあるが、古いものだ。本当に治安の悪いところでは盗まれることを怖れて備品を置かないものだが、ここには木杓子や簡単な調味料がある。どれもきちんと洗われたり拭かれたりしている様子だ。
昼飯には遅く、夕飯には早すぎる中途半端な時間だが、客はほかにもいる。近所に住んでいるのだろうか、常連らしい老人だ。
ユファスは何も店の採点をしにきた訳ではなかった。ただ以前、さすがの軍兵でも「これはない」と思うほど汚い店に当たったことがある。それ以来、新しい店では簡単に確認をしておく習慣がついているのだ。
見た目には清潔だし、老人の常連のいるような店なら、それほど酷いことはまずない。彼らは概して口うるさいからだ。
「おまちどおさま」
かけられた声に顔を上げた。これは、先ほどの店主ではない。
(この子かな)
十代の後半くらいだろうか、可愛らしい顔立ちの少女が、彼の卓に白い陶杯を置いて料金を告げた。
一般的には後払いの店が多いが、酔っ払った船乗りたちから徴収するよりこのやり方の方が確実なのだろう。ユファスは小銭を出し、少女は受け取った。
「有難うございます。ごゆっくり!」
にっこりとしてそう言うと、少女はくるりと踵を返した。頭の高い位置で結んだ金色の巻き毛が揺れる。
目を瞠るほどの美少女とは言えないかもしれないが、可愛い笑顔だなと思った。
見るともなしにその後ろ姿を見ながら、ユファスは渇いていた喉にぐいっとラッケを流し込み――激しくむせた。
「ちょ、どうしたの、大丈夫、お客さん!?」
びっくりした様子で給仕娘が振り返った。
「こ……これ」
ユファスは咳き込みながら、杯をどんと置いた。
「……酒……それも、かなり、強い」
間違いない。喉が焼けるようだ。
彼は酒が飲めない訳ではないが、酒だと思って飲むのと水だと思って飲むのでは、かなりの差がある。
「えっ?」
少女は目をしばたたいた。それから、さっと顔を青くする。
「――たいへん! お爺さんの注文と間違えちゃった! ご、ごめんなさい、すぐに水、持ってきます」
キイリア酒か、アスト酒か、何にせよこの強さは通常なら小さな杯で提供される蒸留酒だ。渇いた喉に通常の二杯分くらいの量を一気に流し込んだ日には、酒に弱い者なら倒れてしまうだろう。
ユファスもまた目をぱちぱちさせながら、思いがけない強い酒分を摂取したことで激しくなった動悸を抑えるべく呼吸を整えようとした。
「ごめんなさい、これ……あっ」
少女の慌てた声が近づいてきたかと思う間もなかった。
慌てるあまり、何もないところでつまづきでもしたのか。
なみなみと水をたたえた杯は、気の毒な若者の肩にぶつかり、その中身は肩から腰までを思い切り濡らしてくれた。
「ごっ、ごご、ごめんなさい! ど、どうしよう、私。あ、ふ、拭きますから! 服も、弁償します!」
「……いや、まず、もう一度水を持ってきてくれる? 今度は、落ち着いて」
普通ならふざけるなとでも一喝するところだ。ただ、ユファスはそういう気質ではなく、仮に腹を立てたとしても、いま立ち上がって怒鳴れば酔いが回るだけだという判断をして同じように言っただろう。
(新品の秋物だけど)
(まあ、水なら、いいか)
「こらっ、チャルナっ、お客さんに何をしてるんだ!」
状況に気づいた店主が顔を青くして叫んだ。
「ごごごごめんなさい、わざとじゃないの、うっかり」
「わざとであってたまるか! 客の少ない昼間ならドジもないかと思ったのに」
店主は周囲を見回して、きれいそうな布を見つけると、それを掴んでユファスのところへやってきた。
「本当に申し訳ない。少しでかいかもしれないが、俺の服を貸そう」
「あー、うん、お願いします」
びしょ濡れで若者は応じた。渡された布地で拭けるところを拭いたものの、乾くのには時間がかかりそうだ。このままでは、ちょっと街を歩けない。
「あの娘は間抜けで、どうしようもないんだ。遠縁の子なんで仕方なく、暇な時間帯にだけ雇ったんだが、注文は間違えるわ料理はひっくり返すわ」
主人は息を吐いた。
「慣れないうちは仕方がないと思ってたが、さすがにお客さんに水をかけちゃなあ」
「お水! 持ってきました!」
「落ち着いて!」
ユファスと主人は異口同音に叫んだ。走るようだった少女はぴたりととまり、それからゆっくりと緊張したように歩いてきて慎重にユファスに杯を差し出した。ユファスは受け取って、念のためにちょっとだけ口に含んでから、間違いなく水であることを確認して飲み干す。
「はあ、死ぬかと思った」
「うん? 水がかかっただけじゃないのか」
大げさな、と店主が首をかしげる。
「あー、ええと」
「あああの、お爺さんの注文のキイリア酒を、こちらの方の杯にも、入れちゃったみたい、で……」
「大馬鹿チャルナっ」
理解した店主はまた怒鳴った。
「ごめんなさいっ」
チャルナと呼ばれた少女は思いきり頭を下げる。と、目前の店主に頭突きした形になった。
「阿呆っ」
「ごごごめんなさい」
「これ以上は雇ってられん。今日までの分は出すから、もう神殿に戻れ」
「え、ええっ!? クビですかっ」
「給金を出してやるだけ有難く思えーっ」
「まあまあ、ご主人」
何だか少女が気の毒に思えて、ユファスは片手を上げた。
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