06 兵士の経験

「んじゃ、ちょっと離れてるけど、さっき話した服屋に行こう。俺も秋物、見たいし」

「頼むよ」

 それからバールは役割を思い出したと見え、互いの思い出話をするのはもうやめて、あっちの街区はどう、この店はこう、などと解説をはじめた。聞いて覚えるものでもないが、聞かないよりは記憶に残る。ユファスはうんうんとうなずきながら、新しい友人に新しい街の案内を受けた。

「こっちを使うと、さっきの大通りに早く抜けられる。夜なんかは気をつけた方がいいけど、いまくらいの時間なら大丈夫だろ」

 バールは狭い小道を指した。

「この街の治安はいいって聞いたけど」

「うん? まあ、普通に気をつけてりゃ平気だよ。酷い恨みでも買わない限り、後ろからいきなり刺されるようなことはないんじゃないかな。やべえかなって場所も少しはあるけど、人が多けりゃ犯罪があるのは当たり前みたいなもんだし」

 西の港の方は危ない連中もいるが、夜にひとりでふらついたり、酔っ払いと目線を合わせたりしなければ大丈夫だと言う。その辺の事情はエディスンも変わらなかった。

「ちんぴらもいるけどさ、ああいう連中が狙うのは女子供だから。自分が安全ならいいってんじゃないけど、それを気遣うのは自分が女連れのときだけでいい訳で」

 町憲兵レドキアでもないのだから、自分とその周辺に関わらない犯罪について案じる必要はない、というようなことをバールは言った。

「ひったくりだの掏摸すりだのもいるけど、それもまあ、普通に気をつけてりゃ」

 問題ない、とバールが締めようとしたときだった。

 彼らの向かっている大通りとの角から、慌てたように走り込んできた人影あった。ふたりは思わず足をとめる。

 男ふたりが並んで歩くのがせいぜいという狭い道だ。向こうから走ってくる人物を通すには、こちらがよけなければならない。

 普通は、よければいい。それだけだ。

 だが。

「――待て!」

「クソッ、しつけえな。どけ、お前ら、邪魔だ!」

 彼らにどくようにわめいた男の手には、似合わない花柄の布袋。続いて角を折れてきたのがえんじ色の制服を着た町憲兵であれば――たったいま、彼らが話していたような事柄が生憎と発生したのだ、と理解するのは一瞬だ。

 男が握り締めているのは、どこかの女性の財布か何かだろう。ひったくりか掏摸か、見咎めた町憲兵が追いかけている。

 そうなれば、どうぞと通すのは躊躇われるというものだ。

 と、考えながら、ユファスはすっと一歩を引いた。バールのうしろにつき、盗賊に道を譲るかのようにする。

 同時に、彼は呟いた。

「そこから動かないで」

「あ?」

 バールは口を開けた。

「何だ? まあ、気持ちは判らなくもないが――」

 面倒ごとに巻き込まれたくない、という考えは至極普通のものだ。町憲兵だって、取り逃がしたと彼らを責めることはない。犯罪者を捕らえるのは彼らの仕事だ。

 それは判るがちょっとどうなんだ、というようなことをバールは言いたかったのであろう。

 だが先輩料理人は、それ以上苦情を言うことはなかった。

「よ」

 小さなかけ声とともに元軍兵は素早く動くと、目を瞠るバールの目の前で、走ってきた盗賊を一回転させてしまったのである。

 どおん、と鈍い音が石畳に響いた。

「これだけ勢いよく走ってきてくれると、やりやすいよなあ」

「おまっ、すげえじゃん!」

 ユファスが何をしたのか、バールにはよく見て取れなかった。どうやら足をひっかけたのと、そのまま前のめりになる相手の肩口をひっつかんで、ひっくり返してしまったようだ、ということだけは判ったが。

「町憲兵さん、あとはよろしく」

 ユファスが言うまでもなく、ふたり組の町憲兵はさっと男を取り押さえると、捕縛にかかっていた。十代だろうか、体格はいいがまだ少年という雰囲気の若い町憲兵がそれを続け、四十ほどに見える熟練の町憲兵がさっと立ち上がる。

「ご協力に感謝いたします、セル」

 年嵩の町憲兵は、名を知らぬ相手にも呼びかけることのできる敬称を用いてユファスに言った。

「ですが、危ない真似はされないでください。あなたの腕は拝見しましたが、もしもこの男に体術の心得があって、なおかつ刃物でも持っていたら、怪我をしたかもしれない」

「平気平気、こう見えてもこいつ、兵士の経験があんだぜ。な?」

 バールは興奮して、ユファスを代弁した。

「経験があれば刺されて平気ということもないでしょう」

 町憲兵は真面目な顔で言った。

「感謝いたします。ですが、今後は自重を」

「まあ、確かにその通りです」

 ユファスは肩をすくめた。

「見境がなかったですね。今後は気をつけます。じゃ、行こうか、バール」

「おいおい、それで終わりかよ」

 バールはユファスと年嵩の町憲兵、それからひったくりと若い町憲兵を順番に見比べた。

「町憲兵さん、何かないの? 賞金とか」

「生憎ですけど、そういうものはないです」

「ないに決まってるじゃないか。賞金がかかるのはなかなか捕まらないような凶悪犯罪者だよ」

「それくらい知ってるさ。でもよ、協力したのに」

「町憲兵さんもそれは判ってくれてるよ。いいから行こうってば」

「感謝状くらいなら出せます。お名前とご連絡先を教えていただければ」

「要りませんよ、そんな」

「城! 俺ら、城の厨房の料理人で、こいつはユファスっての」

「おいっ、バールっ」

「セル・ユファス。セル・バール」

 二十近く年下の彼らに、町憲兵は丁寧に呼びかけた。

「王城ですね。近い内にご連絡します」

「要りませんから、本当に」

「――先輩セレル! できました!」

 若い町憲兵が、ぱっと片手を上げた。男はそれにうなずく。

「何度も言っているけれど、『先輩』はもうやめましょう」

「ああ、そうでした。すみません」

 ばつが悪そうに、若者は顔を赤くする。察するところ、新人なのだろう。

「ご用がありましたら、詰め所まで。私は」

 大地の色の髪をした熟練町憲兵は、軽く頭を下げた。

「ラウセア・サリーズと言います」

 そう名乗ると彼は、「後輩」の新人と観念したひったくりを促して、小道を離れていった。ユファスは何となく、その背中に会釈を返す。

「感謝状だってよ、ユファス!」

 子供のように目を輝かせて、バールは友人を見た。

「要らないのに」

 困惑しながらユファスは言った。

「何でだよ。自慢できるじゃねえか」

「自慢するようなことじゃないよ。いまのサリーズ町憲兵も言ってたろ。腕に覚えがあっても、無茶は無茶」

「俺がやったら無茶だけど、お前はできるんだからいいじゃねえか」

「死ぬような目には、もう二度と遭いたくないね」

 かつて大怪我をした若者はひらひらと手を振った。そうか、とバールも勢いを落とす。

「怪我って、もういいんだろ?」

「うん、まあ。日常生活には差し障りがない」

「え? 何か問題、あるのか」

「肩がね。上がりきらないんだよ。エディスンじゃ鍼医者に診てもらってた。念のため、ここでも医者コルスを探しておいた方がいいな」

「鍼医者か」

 バールは両腕を組んだ。

「ランスハル先生が鍼やってるとは、聞いたことないな」

「誰?」

「宮廷医師の先生。料理人の切り傷なんかも治療してくれる、いい人なんだぜ。口はちょっと悪いけど」

「へえ、それはすごいね」

 エディスンにも宮廷医師はいたが、王族貴族専門で――それが普通だ――、雲の上の人という感じだったし、兵士の治療には、専属の軍医師がいた。

「でも訊いてみたらいいんじゃないかな。きっと誰か、いい医者を教えてくれる」

「そうだね。そうするよ」

 懸念がひとつ解消されそうだな、と彼は心でうなずいた。

 もっとも、言ったように日常的には問題ないし、アーレイドに移るに当たって治療のことなど特に心配しなかった程度である。急がなくてもいいだろう、と彼は思った。

「それにしてもすごかったな、さっきの」

 バールは興奮冷めやらぬという様子で息を吐いた。

「向こうが僕のことをただの障害物としてしか見ていなかったから、簡単だったんだよ。攻撃されるかもと警戒してたら、ああきれいには決まらなかった」

「それで一旦、引いたのか。弱腰になってあいつを逃がすつもりかと思ったぜ。悪かった」

「いいんだよ。って言うか、ああいうときは余計な手を出さない方が正しいと思う。町憲兵さんの言う通り」

 戦場で剣と剣を戦わせるのであればともかく、こちらは丸腰で、向こうは武器を持っていたかもしれないのだ。

「でもよ、すごかったし。やっつけられたんだから、万事問題なし。だろ?」

「結果的にはね」

「何だよ、俺ばっか騒いで、馬鹿みたいじゃないか」

 バールは肩を落とした。

「うん。いや、そうじゃなくて。あのねバール。言ってもいいかな」

「何を」

「君が僕より年上なのは判ってるんだけど。……何だか君の言動を見てると、弟を思い出す」

「……未成年並みにガキっぽくて悪かったな」

「いや、元気があるなーと」

 ユファスは言いつくろった。嘘ではない。


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